夏が来るから
会社員×会社員
社員旅行で泊まった温泉宿。
宴会までの時間に仲の良い同期と一風呂浴びた後、たまたま卓球台を置いてある娯楽室の前を通りかかると、そこで勝負を楽しむ男性社員二人の姿があった。足を止めて眺めていたらあちらも気付いて、「よかったら一緒にどう?」と誘われた。私も同期も卓球経験者だったので、二つ返事でそれを受ける。男性陣も経験者であることはさっきのラリーですぐに分かった。組み合わせは、私+同じフロアの阿部さん、同期+彼女と同じ課の男性社員。負けたペアが勝った方に飲み物――男性は二人とも缶ビール、私と同期はコーヒー牛乳を所望した――を奢ると云うことになり、さっそく勝負が始まった。
ゲームは予想以上に白熱した。試合形式の勝負は、第一セットはこちらが、第二セットは向こうが取った。即席で組んだ割に、阿部さんともいい感じだ。
なかなかの接戦に、体育会系男子女子に戻ったみたいに本気になってしまって(特に殿方が)、サーブが決まったりラリーを制したりするたびにペア同士でハイタッチをしたり、「っしゃあああ!」って雄叫んだり。自分を含んだ全員のテンションがおかしいのが可笑しい。お酒なんてまだ一滴も入っていないと云うのに。
折角名湯で流した汗も、二セット目が終わる頃には浴衣の下でじっとり濡れるほどまたかいてしまった。卓球はその狭いフィールドの割に、運動量は意外に多い。
四人が四人とも同じくらいのレベルだったことが勝負をさらに過熱させていた。
足元がスリッパなのがいけなかった。
変な体勢で返球したら、スリッパの中で素足が滑った。そのまま転ばないようにたたらを踏んでいるうちに、――本当は、打ったらすぐにどかなくちゃいけなかったのだ――阿部さんが大きく振りぬいた直後のラケットが私の鼻にヒットした。目から星が出て、鼻が痛んで、と云うより鼻に大きな衝撃を感じて、思わずその場に座り込む。
「松田!」
阿部さんがラケットを放り投げてしゃがみこみ、私の体を横抱きに近い形で支えた。おお、彼女が途切れたことがないと噂されるだけある、さすがのジェントルっぷり。てか、こんなに慌ててる顔なんて初めて見た。仕事でトラブっていると聞いていた時も、そこそこくだけた雰囲気の飲み会の二次会でも、いつも凪いだような穏やかな顔でうっすら笑ってばかりいたから。
「大丈夫、です」
じいん、じいんと脈を打つごとに痛む鼻を手で押さえて、阿部さんに笑って見せたら、ますます心配された。
「医者行くか?」
いつもにやにや、もとい、口元に笑みを浮かべている阿部さんがいつになくまじめな表情で私の顔を覗き込む。近い近い近い、と思いつつ聞いてみた。
「鼻血出てます?」
鏡もなくて自分じゃわからない。阿部さんはキスするんじゃなかろうかと云う距離までさらに近づいて、じいっと鼻の穴を覗き込んだ。出てるかどうか聞いたのは私だけど、女子としてはあんまり覗いてほしくないアングルだ。
「出てないみたいだ」
「なら骨折はないかな……湿布、フロントでもらって届けてくれますか? 部屋に、戻ってますから」
「分かった」
相手ペアの同期に大いに心配されつつ部屋まで送られ、仲居さんの手で既に敷いてもらっていた布団にごろりと横になった。うっかりといつものように勢いよく体の右を下にして横向きになると、じいんじいんと続いていた痛みがさらに存在感を増した。
それでも、少しうとうとしていたらしい。
控えめな、でもギリギリ聞こえる絶妙な大きさで、部屋の引き戸がノックされているのが聞こえて目が覚めた。
「松田」
「阿部、さん?」
「入っていい?」
「どうぞ」
鍵を外せば、ビニール袋を下げた阿部さんがそこに立っていた。
「お邪魔します―― 一人?」
「そうです」
同部屋の他の女子は早めに宴会会場に向かったらしく、戻って来た時には既に部屋の中はもぬけの殻だった。ビンゴタイムには豪華景品が当たるので(一等賞は某夢の国のペアチケットだ)、私を部屋まで送ってくれた同期は心配してここにいると云ってくれたけれど、大丈夫だから行っておいでよと参加を促し、会場へ行ってもらっていた。
「遅くなってごめん。湿布もらってきた」
「ありがとうございます」
受け取ろうとしたら、「俺がやるから大人しくしといて」と云われたので、遠慮なくまた布団で寝た。今度はそっと横になる。
「鼻、腫れちゃったな」
「結構派手に見えますけど、一週間もすれば治りますから」
「何でそんな冷静なんだ?」
「高校の時にも同じようなことがあったからですよ」
「それでも、帰ったら早めに医者行った方がいい。実は骨折してましたとかだったら申し訳なさ過ぎる。通院するなら行き帰り車で送るし、治療費は俺が持つから」
「もしそうなったとしても治療費はいいです、私がうろうろしてたのが悪いんだし」
「松田がまだいたのに気付けなかった俺の方が悪いだろう、どう考えても」
意外と責任感が強くて心配性だなあと思いつつ、確かに年下の同僚女子の鼻を大胆に腫れさせて、しかも腫れた部分が斑に紫色だったら過剰に心配もするかと一人ごちた。
ちなみに同じフロアではあるけれど他の課の阿部さんとは、在学中まるで関わりがなかったものの、同じ大学の同じ学部出身だったりする。それが飲み会で分かって以来、先輩後輩を互いに気取り、名字を呼び捨てにされるようになった次第だ。
阿部さんは握りの部分に十字のロゴの入った十得ナイフを持参してきていて、折り畳まれていた鋏を引き出すと湿布を鼻に当てる丁度いいサイズに切ってくれた。痛まないようにと気遣われつつそっと乗せられた湿布は、ひんやりとしていて気持ちがいい。フロントで湿布と一緒にもらったと云う鎮痛剤も、大げさな……と思いつつ渡された水で飲んだ。ふう、と息を一つ吐いてからペットボトルの水を脇に置くと、阿部さんが「ごめんな」と謝ってきた。
「社員旅行、台無しにしちゃったな」
傍から見るときっとそうなのだろう。でも個人的には全然そうではなかったので、きちんと否定しておいた。
「いいですよ別に。むしろ宴会を避けられてラッキーです」
「何で? なんかあった?」
「多分元彼と今カノさんがそこで婚約発表すると思うので。やー、どうにか逃れたいと思ってたんですよ。なのでむしろ阿部さんには感謝です」
もう、二年も前に別れた元彼に対してまだ気持ちを残していたりは、ない。でも、恋をした記憶はまだあるし、二人がみんなに祝福されるところを見たら、きっと記憶の中に生きている、元彼に恋してた頃の私は傷つくのだ。
宴会に出たくなくて、社員旅行も仮病を使って休んじゃおうかなとも一瞬思ったのだけど、せっかく積み立てた旅行代も、会社からの補助金(半額)も、何で悪いこともしてない私がふいにしなくちゃなんないのだと、負けん気だけが私をここに来させた。
――だから、さっき鼻にヒットを決めてくれた阿部さんが、私にはあの瞬間天使に思えた。
「まさか女の子の顔面にラケット当てて、感謝の言葉をもらうとは思ってなかった」
んじゃそれと別口でごめん、女の子の顔に傷をつけてしまったと深々と頭を下げられて、こっちが慌ててしまう。
「もう、わざとやったんじゃないし、私がもたついてたのがそもそも悪いんだし、いいですって」
「今日の宴会で松田に運命の出会いがあったかもしれないのに……」
真顔で女の子みたいなことを云う阿部さんが、かわいいなと思った。くすりと笑ってしまう。
「それがふいになったってことはその程度の運命だってことですよ。ビール、飲みますか?」
「見舞いに来といて飲んだりしないよ」
「遠慮しないでください。折角社員旅行来たのに、ビール好きの阿部さんが飲めないのは気の毒過ぎです」
いつも乱れずに粛々と、それでいておいしそうにビールばかりを飲んでいる姿は飲み会の名物だ。今日も楽しみにしていたに違いない。
「でも」となおも口ごもる阿部さんに、「大体阿部さんが禁酒してたら鼻が早く治る訳でもないんですから、私の代わりに是非飲んでください、私今日は飲めませんし」と鼻の怪我を盾に取り強めに勧めると、「……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらう」とようやく欲しかったお返事をもぎ取った。立ち上がって冷蔵庫に取りに行こうとすると早口で止められる。
「あ、いい寝てろ、勝手にもらうから。――それにしても、色々冷静だな松田は。恋愛の方はどうなの」
「冷静って云うか、今そう云うモードじゃないだけです」
別に、二年間ずっと切なさに身を委ねていた訳じゃない。だんだんに立ち直って、そうしたら習い事や遊びと云った恋愛以外のことが楽しくなってしまっただけだ。そして、恋愛しなくても全然困っていない自分に気が付いたって訳だ。
「んじゃ何モード?」
「御隠居モードですかね」
ぶふっ、と、阿部さんが口に入れたばかりのビールを噴きそうになっていた。
「若い娘さんが、枯れたこと云っちゃって」
「枯れてるかどうかは分かりませんけど、今はお散歩したりお茶したり習い事したりで結構幸せなんですよね」
「いいね、今度俺も混ぜてよ、そのお達者クラブ」
「なんですかそのご陽気なクラブは」
「あれ、松田知らない?」
「知りませんね」
おっとジェネレーションギャップ、と笑うその人と私は、オリンピック二回分ほど年が離れているらしかった。
「子供の時そう云うタイトルの高齢者向けの情報番組があってね。俺ばーちゃん子だったからさあ、よく一緒に観てたんだよね」
「なるほど」
「で? お達者クラブ、参加させてくれる?」
「いいですよ? 歓迎して差し上げます」
その時はそれで話が終わったので、ただのリップサービスだと思っていたのに。
「……松田これば全然ご隠居モードじゃないと思うよ……」
「え、そうですか?」
「むしろアクティヴシニアだろ……何だよこの上ったり下りたり、坂道の嵐は」
「ずーっとずーっと、横に三〇キロくらいあるらしいですよコレ」
「うっそだろ……」
「本当です」
五月晴れの空の下、お達者クラブの我々は国分寺崖線に沿って歩いている。
段差数メートル程度のちょっとした崖が、延々と続いているのを崖線というらしい。
とは云え、その斜面には家々も建っているし、水平方向に延びる真っすぐの道がある訳でもなく、崖線に沿って歩くと云っても実際は坂道を上って下りての繰り返しだ。
歩き始めて三〇分で、隣を歩いていた筈なのにいつしか遅れて後ろを歩いていたその人から、ついに泣きが入った。
「きついよー。疲れたよー。足痛いよー」
「阿部さん、運動足りてないんじゃないですか」
「まったくもって仰る通り……実は社員旅行の時の卓球もきつかった……ねえ、まだまだ歩く?」
「もー、一日攻めるつもりで来たのに……後、一時間歩いたら、今日は終わりにします」
「無理、一時間も歩いたら心が折れる」
「折れてもいいから歩いて下さい」
「松田ってスパルタな」
「阿部さんがへなちょこなんですよ!」
「まったくもって仰る通り……」
「ほら、背中押してあげますから」
「お、サンキュ!」
宥めたり、すかしたり。まるで子供を相手にしているように錯覚してしまう。
なので、「ねえ松田、手ぇ引いてくんない?」と請われた時にも『八つ上の同僚の男性』ではなく『体力なくてぐずってる子』みたいに思えて、「いいですよ」とうっかり了承してしまった。ほら、と手を出すと、「……いいの?」と何故か戸惑われた。そっちが言い出しっぺのくせに。
「いいですよ。そのかわり頑張って歩いて下さい?」
「それはどうかな……」
いつもは涼しげな笑みをうっすら浮かべている男が、今日はやたらと苦しげな顔をしたり、汗をたくさんかいたり弱音を吐いたり、している。それが妙におかしかった。
差し出された手に触れるとひんやりしていた。と思ったら、ただ引くだけのつもりの手を素早く絡められて、あっという間にきゅ、と固く閉ざされる。思わず顔を見れば、阿部さんはいたずらが成功した男の子の顔をしていた。
「こうしてるとデートみたいだ」
「デートじゃなくて、ただの散歩ですって」
「散歩じゃなくて、クラブ活動」
「……仰る通り」
何クラブかって云われたら、もちろんお達者クラブだ。でもきっと、いわゆるお達者クラブの活動の一環で手を繋ぐことは、ない。
旅館で予想した通り、そして旅行から帰ってきた翌日に診察してもらった医師の見立て通り、一週間で鼻の腫れと痛みはすっかり引いた。阿部さんからは診断結果と金額について問う内容の社内メールがすぐにやってきたけど、結果だけ返信して後は何度聞かれてものらりくらりと躱した。そうこうしているうちに一週間が過ぎて、私の鼻は無事完治した。
もう一つ予想していた通り、宴会の席で元彼と今カノさんは婚約発表したらしい。社員旅行の宴会の後、その二人のことはよく話題に上がっている。
やっぱりね、と、もうすっかり痛まなくなった心で二人の噂を聞き流していたある日のお昼休み中、阿部さんが私のデスクへふらりとやってきた。
「お、綺麗じゃん」
「お陰様で」
普通にお返事したつもりだったのに、阿部さんに笑われた。
「せっかく人が『綺麗』って云ったのに流すなよ」
「え」
あれは『腫れが綺麗に治った』じゃなかったの?
「まあいいか。そう云えばお達者クラブの活動はいつなのよ」
「え」
「松田、俺が云ったの社交辞令だと思ってただろ」
「思ってましたごめんなさい」
「失礼しちゃうよなあ」
「お詫びは何なりと」
「んじゃ、次のお散歩、俺同伴ね」
「……それ、お詫びになりますか?」
普通は高級なお菓子を献上したりだとかじゃないのか。
「いいから。俺が詫びだと思えば詫びだよ」
「何でしょうその俺イズム」
「で? いつよ」
「……お天気次第ですけど、今度の土曜日あたりでも」
「ん、楽しみにしてる」
それだけやりとりすると、来た時と同じように阿部さんはふらりと部屋を出て行った。おいおい、連絡先とか待ち合わせとかいいの? だから本気だと思えないんだよと一しきり心の中で突っ込んでいたら、時を置かずに社内メールがやってきた。
プライベートの連絡先を記した内容に目を通しながら「……本気?」と呟く。こちらからも、待ち合わせの日時や場所、連絡先と持ち物を返信して、そして今に至る。
エンドレスで弱音を吐きつつも、結局はなんとか一時間歩き通した阿部さんを、「うーんよしよしよくやった」とムツゴロウさんみたいに労って、たぶん無造作に見えるようにセットしてある髪をわざとぐっしゃぐしゃにしてやった。ムッとした顔の一つも見られるかと思ったのに、阿部さんは嫌な顔一つしない。する余裕もないほどぐったりしてただけかもしれないけど。
「明日筋肉痛だ……」と呟く人に、「この後スーパー銭湯寄りますか?」って聞いたら、それはそれは嬉しそうな顔をしたのが可笑しかった。――かわいかった、と言い換えてあげてもいい。
社員旅行の時の『運命の出会い』発言と云い、その場のノリだけかと思いきやちゃんと散歩に来たことと云い、体力のなさと云い、でもちゃんと歩き通したことと云い、私が勝手に描いていた阿部さん像とは違っていていちいち戸惑う。
なんか、こう、もっと色々いい加減でドライなんだと思ってましたすいません。でも、恋人じゃないのに恋人繋ぎ仕掛けてきたりとか、やっぱり油断できないあの人。
疲れた体に、広々とした風呂の湯は溶けてしまいそうに気持ちがいい。男の人ってお風呂早いよなあと思いつつも、のんびり自分のペースで湯を堪能した。
待ち合わせしていた広間の畳スペースには、予想通り阿部さんが先に座っていて既にジョッキを傾けていた。
「お待たせしました」
「ん、そうでもないよ」
阿部さんは、それまで目を通していたらしいスポーツ新聞をきちんとたたんで横に置いた。そしてまじまじと人の顔を見て、相好を崩す。
「湯上りの松田の、上気したすっぴん顔をまた見られてすごく嬉しい」
「私も、いつも乱れない阿部さんが酔ってるとこ見られてすごいラッキー」
二人して、ふざけて云いあった。どういうテンションなんだろコレ、坂昇降しすぎて、坂道ハイ?
「まあ松田も飲めよ」
そう水を、もといビールを向けてくる阿部さんはほろ酔いだ。なら、ほろ酔いハイか。てか、それは最早ただの酔っぱらいとも云う。
「まだ昼間なのに?」
「昼間だからいいんだよ、いつもより深く酩酊出来る」
「それは酔っぱらいやすいというのでは……?」
「そうとも云うなあ」
頬杖をついて、のんびりと楽しそうな様子につられて、結局私もアルコールを入れることにした。
だらだらとおしゃべりしながら、阿部さんのジョッキはもう三杯目。三〇分でそれは、ピッチ早くないですか。そう思っていたら、阿部さんは「あー……、さすがにちょっと休憩」と今度はお冷をガブガブ飲んだ。
私は生グレープフルーツサワー一杯をちびちび。阿部さんみたいに冷たいもの一気飲みなんかしたら、おなかをこわしてしまう。なかなか減らない私のサワーを見て阿部さんは「そんなの飲んじゃって」と憎まれ口を叩いた。
「いいじゃないですか、好きなんですよ」
「うん、いいよ。――やっぱり、女の子だよな」
阿部さんは優しい、でも男の人の顔でしみじみ云う。
「お達者ですけど」
不意の侵攻に、一歩引いて逃げる準備をした。
「お達者じゃないでしょうが」
逃げ出す前に、私の許可もないまま、頬に手を滑らせてきた。
「……こんなに艶々した頬を誰にもやらないなんて勿体無い」
「だって、」
動揺がそのまま、ひっくり返った声になって出てしまった。サワーをひとくちのんで、口を湿して呟く。
「今そう云うモードじゃ」
「うん、でもね」
阿部さんは、頬を触っていた手をあっさり引いた。聞かん坊な男の子を嗜める教師みたいに、両手を組んで座卓に乗せ身を乗り出して、向こう正面から静かに私を見る。
「いつまでも、そのままでいるのはナシだからね」
ね、と強調する口調で念を押すと、指を組んだまま、右手の人差し指だけ私の方に向ける。
「必ずそう云うモードになること。……そうだなあ、二か月もあればいいよな、って事で夏頃までには」
「ええ!?」
まるで仕事の納期みたいに淡々と告げられた。
「阿部さん横暴!」
そんなことを云う権利が、どこにあると云うのだろう、ただの同僚であるこの人に。
「一応、予約しとくから」
そう云って、座卓に投げ出していた私の手を取ったと思ったら、その手の甲にそっと唇が当てられた。それがやけに心地よくて、やめて下さいと文句を云う筈の口は役に立たないまま、突っぱねる筈のもう片方の手も胸元をきゅっと握ったまま、スーパー銭湯の休憩スペースでそれを素直に受け入れていた。――きっと、酔っているせいだ。顔が熱いのもドキドキしているのも、ぜんぶ昼間酒のせい。
そう自分に云い聞かせているうちに、ゆっくりと手の甲から唇が離れた。
私に出来たのは、睨むことだけ。目の前の阿部さんが見覚えのある余裕のうっすら笑いを湛えていると云うことは、睨んだところで大したダメージがないんだろう。
「モードが切り替わったら、俺を一番に意識しろよ?」
阿部さんはすっかり赤くなった私を見て笑みを深くして、それからビールのおかわりを頼みにカウンターへと歩いて行った。
――こんなことされて、意識しない訳ないじゃん!
まだ愛とか恋とかからは離れたまま、ゆっくりと過ごしたかったのに。戻されてしまった、カラフルで目まぐるしい世界のすぐ手前に。
そんな、私にとっては激動と云える出来事だったにもかかわらず、阿部さんは会社ではまるで何もなかったみたいに接してくるから、あれは夢かなと思ってしまう。すると、「忘れてないよな?」と、時折廊下の柱の陰に引っ張り込まれ、指先やら拳やらにキスを落とされる。
落とされた数だけ意識してるなんて、絶対云わない。云ってたまるかそんなの。
お達者クラブの定例会と称されては手を引かれ、終業後に落ち着いたレストランやバーや居酒屋へと連れて行かれた。悔しいことに、どこも雰囲気よし、サービスよし、お酒も料理もとてもおいしいところばかりだ。
お付き合いしている訳じゃないから割り勘にするつもりで、でもいつも『鼻の時の治療費、結局出させてもらえなかったから』とご馳走になってしまった。そんなの、とっくにオーバーしてる。そう伝えても『いいから』とうっすら笑まれるだけ。
卓球の本気勝負を挑まれることもある。
久しぶりにマイラケットと、ラケットに貼るラバーを購入して臨んだら、体力の貯金具合もあってか初回はあっさり勝った。阿部さんは八つ年下の私にストレートで負けたのが相当悔しかったらしい。購入した専門店を今すぐ教えろと云われたので、勝負の後その足で店まで案内をし、速攻でラケットとラバーを購入するのを生温く見守ることとなった。
翌々週挑まれた二回目の勝負は、阿部さんが勝った。汗を滝のように流しながらのドヤ顔がむかついたので自主練をして臨んだ三回目は引き分け。そんな勝負と定例会を繰り返すうちに、
――随分、阿部さんが傍にいるのに馴染んでしまった。
俺でリハビリすればいいよと、お達者クラブにふさわしい言葉を駆使して、私をそう云うモードに連れて行こうとする。そのくせ、私の目に迷いを見つけては、追い詰めることなくあっさりと手を離す。――大事に、されてる。その自覚に、胸が高鳴る。
手を繋ぐ時間が、徐々に長くなっているのに気付く。指や手に与えられるキスを、もっとと望みそうになる。でもそれ以上は、きっと『予約』のままでは与えてもらえないって云うことも知っているから、私の中のモードは、もうすぐ切り替わる。
夏が来るのだ。
「夏時間」内11話に続きがあります。
14/07/07 一部修正しました。
14/07/27 誤字修正しました。