準備
「すみません橘さん。準備まで手伝ってもらってしまって」
凛は小さな体を深々と折り曲げてお辞儀した。その様子に橘優希(jb0497)は慌てて顔を上げるように言った。橘と調理同じ年とは思えないほど、凛に対して腰が低い。
橘は特に小柄で童顔な女性的な顔立ちをしているせいか、年より幼くみえがちだ。そういう意味では凛もまた同じ悩みを持っている。
「気にしないで。僕もお茶をごちそうになるし。でも僕なんかでお役に立てるかな……」
橘の不安をぬぐい去るように、凛はにっこり微笑んで言った。
「橘さん車の運転が趣味だと聞いていたものですから。食材の買い出し量が多くなりそうだから、車で運んでもらいたいんです」
荷物持ち。それなら自分でも何とかなると思い直したのか、橘は不安げな表情から笑顔に変わった。
長く黒い髪を翻し、車を取りに走っていった橘を待つ凛は、ふと自家用車に乗るのが初めてだという事に気がついた。公共のバスや電車には乗った事はあるが、車はない。しかも橘と二人きりだ。
橘は年の離れた友人であり、部活の先輩だ。それ以上の関係などあろうはずもないが、狭い密室空間に二人きりと想像して、その状況に思春期の乙女としてわずかながら動揺する自分がいた。
まさかわたくしがこんな事で動揺するなんて……そう思っている間に車が到着していた。
「どうぞ。あ、シートベルトここだから」
橘は紳士的に助手席の扉を開け凛を導いた。運転席に回り込み、自分もシートベルトをすると、凛に行き先を尋ねた。
「行き先はどこ?」
「ええっとまずはこの住所のスーパーに……」
凛の示した住所をカーナビで確認し、すぐに橘は位置を割り出す。そして念入りに前方と後方確認を行う。堂々ときびきびした姿は、いつも大人しく控えめな橘らしからぬ男らしさがあった。
そういえばと凛は、図書館の片隅にあった恋愛マニュアル本の中身を思い出した。車を運転する男性は普段の何割り増しか格好良く見えるらしい。
なるほどと納得していられたのは発進するまでだった。
「じゃあ出発するよ」
そう橘が言ったかと思うと車は突然急発進した。周りの景色がどんどん押し流されていく、かなりのスピードが出ていた。
「え、え、えええ!」
凛はそれ以上言葉を口に出来ないほど驚いていた。しばらくして持ち前の撃退士としての能力からスピードには慣れたものの、車がこんな速度で走ってぶつかったりしないかハラハラした。
日本の法律などわからない。交通ルールもわからない。でもこれだけは断言できる。このスピードは異常だ。曲がる際に減速せずにドリフトとか、狭い道を建物すれすれにぶつからずにすれ違うとか、かなりのドライビングテクニックだが見ていて心臓に悪い。
予測以上のスピードで走ったので目的地には早く到着した。運転すると人が変わるともいうが、まさか橘さんもそういうタイプだったなんて……。
そう思いつつも普段の穏やかな性格とのギャップに少しドキドキした。しかしそれは悲しいかな吊り橋効果による一時的なときめきでしかなかった。
「橘さん」
「ん? 何かな?」
「帰りはゆっくり速度でお願いします。卵とか割れるといけないので」
この状況でも凛はしっかり釘を刺す事を忘れなかった。
スーパーでカートを押しながら凛の後をついてまわる橘。小麦粉を3袋とか、砂糖を1袋とか他にも、野菜や、フルーツや、牛乳に、チーズに、ハムに、お肉に、卵に、調味料類等々、確かにこれは車なしでは厳しいなと思う程、凛は次から次へとカートに入れていく。
確か参加者は凛も含めて7人だと聞いている。それにしては量が多い。橘も料理好きなので何か手作りの品を持ち込もうとしていたのだが、この材料の山を見て悩み始めた。
「あ、ありましたわ」
そう言って凛がカゴに放り込んだ物を見てぎょっとした。
「え! それ買うの?」
凛の表情が黒い笑顔で覆われた。
「ええ。とても大切な材料です」
凛の何かを企むような表情に、不穏な物を感じた橘は自分は持ち込みしないでおこうと決めた。
有田アリストテレス(ja0647)は今は使われていない古い空き教室にたどりついた。確かここだよな……。短く刈られた黒髪をかきながら、場所の確認をする。扉を開けて中に顔を入れ、中の人間にむかって呼びかけた。
「お茶会の会場ってここか?」
部屋の中にいたのは、少女とも少年ともつかない凛々しい美人。その人物は有田の方を振り返って言った。
「はい。嘘つき達の茶会の会場です」
「そうか。俺は有田っていうんだ。斉凛から会場設営を手伝ってくれって頼まれてよ」
有田は青い目を細めて、人なつっこい笑みを浮かべて言った。その言葉に謎の人物は、元気潑剌な笑顔を浮かべ手を差し出した。
「僕は凛のルームメイトで中等部1年の響花音(jb1787)です。よろしくお願いします。先輩。あ、僕の事は呼び捨てでいいですよ」
「おう、よろしくだぜ。じゃあ響、何からやったらいいんだ?」
「そうですね。まずはこの部屋を掃除しないと。ずっと使ってなかったから埃がすごくて」
確かに見回してみると、埃だけではなく蜘蛛の巣まであって、とても優雅にお茶会という感じではなかった。
花音の足許付近に一通りの掃除道具は揃っていた。
「テーブルとか必要な物は他から借りてこられるので、先に掃除しちゃいましょうか。僕バケツに水組んできます」
「じゃあ俺は高いところの煤や蜘蛛の巣を落としておくぜ」
初対面だというのに、まるでずっと前から知り合いだったかのように、二人はすぐに意気投合し、会場の準備はスムーズに進んだ。
「会場設営を俺たちに任せて斉は何してんだ?」
「料理の材料の買い出しに行ってますよ。もう張り切りすぎて1ヶ月くらい前から料理とか作っちゃうし、テーブルクロスにも刺繍しようとしていたくらい何です」
「すごい気合の入り具合だな」
「文化祭の部活でやった仮装喫茶が楽しかったみたいで、またやりたいって計画したみたいです」
「ふーん。まあ俺は美味い物食えれば別にいいけどな。それになんか俺も文化祭思い出したわ」
「なんか本当に文化祭の準備みたいでワクワクしますよね」
時間も忘れるくらい夢中で二人は部屋の準備にいそしんだ。子供が無邪気に遊ぶように、二人の表情は輝いていた。