染まりますか1
昨日とは違った意味で頭を抱えて帰宅すると、
朝の手紙が机の上で置かれたままになっているのが目に入った。
手紙から視線を外して玄関を見ると、私の靴だけが並んでいる。
相模さんのことばかりで、兄の存在を忘れていたが
兄はまだ帰宅していないようだ。
そして、兄さんに家の鍵とか渡してないことも気づき
部屋に行こうとしていた体を反転させて玄関に向かう。
一人暮らしの癖で玄関の鍵を閉めたけど、きっと開けといた方がいいだろう。
扉の鍵を開けようと手を伸ばすと、前触れも無く鍵が音を立てて回る。
驚いて手を引っ込めると、開かれた扉の先には兄が立っていた。
ただ、昨日の頼りなそうな印象とは大分違う。
国内でも有数の進学校の制服に身を包んでいる。
梅雨でじめじめとした時期だというのに艶のある革靴を履き、
紺色のブレザーをきっちりと着こなして、
銀色フレームの眼鏡を掛けている。
少しだけ、兄の雰囲気が冷たく感じる。
なんていうか真面目で、出来る学級委員長という雰囲気だ。
そんなことを思っていると、目が合った。
玄関先で時間を計った様に出会うとは思っていなかったので動揺した私は、
外国人が覚えたての日本語を使うような発音をした。
「オカエリ、ナサイ」
すると私の変な片言の挨拶に突っ込まれる事なく、問いかけられた。
「え〜っと、何処かお出かけでしょうか」
「いえ、兄さんに鍵渡してなかったから、開けとこうかと思って」
「そうなんですか?でも・・・・・・」
兄の片手が私の前に差し出される。
手の平には、私が見慣れた鈴村家の鍵が載せられている。
・・・・・合鍵ですか。いつの間に作ったんだ。
疑問に思っていると、兄の言葉が続いた。
「昨日の内に伯父さんから受け取りました。
朝、玄関の鍵閉まってたでしょう。気づきませんでしたか?」
そういわれて朝を振り返る。
いつものように家を出るときに、普通に鍵を開けて、閉めた覚えがある。
鍵を開けて、閉めた・・・・・・。
違和感が無さ過ぎて記憶に残らなかったけれど、兄が鍵を持っていないと出来ない行為だ。
「その顔は、気づかなかったんですね。ところで」
兄は困った顔で私に笑いかけた。
「中に入りたいのですが、良いでしょうか」
「あっ!」
扉の前に立つ私、中に入りたい兄。
どう考えても私が進行方向を阻んでいることに気がついた。
慌てて兄が通りやすいように体をずらすと、
兄が横切る時に石鹸の匂いが鼻をくすぐった。
「兄さんの通学している学校って、シャワー室があるの?」
「ありますよ。私、汗臭いでしょうか」
「いえ真逆です。石鹸の香りがするので気になっただけです」
「あぁ、匂いフェチですか」
どこをどうしたら、その結論に至るんだろう。
そんな事を思いながら、じと目で彼を見つめる。
すると何を思ったのか両腕を広げて満面の笑みを浮かべる兄。
えっ、何この不思議な行動。
どう対処して良いかわからずに、怪訝な表情になる私に彼は言った。
「どうぞ?」
目の前の光景。
不可解な兄の行動に眉間の皺を寄る。
すると、兄に不思議そうな顔をされた。
「もっと嗅ぎたいのかと思いましたが違いましたか?」
「兄さんが通う学校は、最寄り駅を使えば40分くらいで着くでしょう?
早朝から登校しているようだったので、運動部にでも入っているのかと思ったんです!
シャワー室があって使用しているのなら、何部なのかとか色々気になったんです!」
一気に理由を述べ、最後に力強く断言する。
「だから、私は、匂いフェチ、というものでは有りません!」
言いたい事を終えて、肩で息をする。
まだ不思議そうな表情をしていた兄は、何かを納得したのか大きく頷いた。
「これがツンデレですか」
デレてないし、ツンを出した覚えも無い!
心の中で大きくツッコミを入れながら兄を睨みつける。
すると、また何かを納得した顔で一言。
「なかなか、楽しいですね。」
・・・・・・天然か!
夕飯どき。
あのあと玄関先でのやりとりで疲労をMAXまで受け取った私は、
包丁を握りしめてネギを切っている。
そして、しょうがを少しだけ擂りおろして昆布だしをとる。
今日のご飯は、冷やしネギうどん。
一人暮らしになって始めた料理は簡単なものばかり。
玄関先で別れ部屋へ戻る前に ”夕飯は何でしょうか” と聞かれた。
そしてつい、私が食べたいな〜と思っていた「ネギうどん」と答えてしまった。
伯父さんが作ってくれた料理が残っていたから、楽しようと思っていたのに。
輪切りのネギを大量生産していく。
リズムよく包丁の音が響く中に、お風呂場の方から水音が聞こえてくる。
高校生男子という生き物はあまり清潔感がないような気がしていたのだが、
どうやら兄は綺麗好きのようだ。
学校のシャワーを浴びて、帰宅直後にお風呂。
汗臭い人と暮らすより清潔を保ってくれる人と一緒に居たいので、大歓迎だ。
そんな事を考えながらも
うどんの麺を茹でて冷水でしめた後に盛りつける。
最後に刻み海苔を散らして副菜に大根の漬け物を添えれば、あとは食べるだけだ。
よ〜し。
満足な出来だ!
次は明日の牛丼の仕込みだな。