気のきかない日本人
□
ぶるっ。
大樹は、首筋を震わせた。
いやな予感というか、悪寒が走ったのだ。
この暑いのに。
「武者震いかぁ?」
寿司屋の先輩に、背中をバンと叩かれる。
いよいよ、本宅へ乗り込むのだ。
結婚式当日の朝。
披露宴は、ガーデンパーティになるので、庭に寿司バーを作るのだ。
暑さと生魚――最悪の組み合わせだった。
「落ち着かないな」
吉岡が、ふーっと息を吐く。
職人姿が似合ってはいるが、いつもと明らかに違う部分があった。
髪だ。
トレードマークの若白髪を、全部真っ黒に染めたのだ。
それだけで、10歳は若く見える。
一度、吉岡は下っぱに顔を見られているので、用心のため染めたのだ。
その髪を、オールバックみたいに上げると、吉岡はすっかり別人だった。
大樹も、前髪を思い切り上げているので、鏡でみた時、不思議な気持ちを覚えた。
まさに、自分じゃないよう。
髪をいじると、貴恵を思い出す。
彼女も、髪型で別人のようになっていた。
帰国したら、また様変わりしているかもしれない。
貴恵の幸せな記憶も、マフィア宅につくと、ひっこめなければならない。
厳重な、所持品チェックを受ける。
包丁はしょうがないとして、アイスボックスの底の底まで調べられた。
ボディチェックをされ、ようやく通される。
吉岡は刑事でも軍人でもないので、基本的に武器を持たない。
ただし、大樹は――武器の場所は知っている。
この本宅は、目をつぶってでも歩けるほどだ。
武器を必要とする場面が、ないことを祈りたい。
中庭に出て、他の業者にまぎれながら、大樹は厚焼き卵の中から、小型無線機を引っ張りだしたのだった。
※
「おい、日本人!」
ずさんな一まとめで呼ばれ、大樹は振り返った。
黒スーツの男が、いた。
結婚式のための正装なのだろうが、ここは夏真っ盛りだ。
クーラーなしの外にいるのは、朝とは言え地獄に違いない。
「設置前に、新婦にスシを用意しろ、ご所望だ」
なるほど。
スシ屋を指定したのは、姉か。
病弱と聞いていて、大樹も実際に会ったことはなかった。
しかし、さすがはマフィアの娘。
緊急時の判断は、さすがだ。
「何、握りましょ」
「何でもいい、適当に一人分、用意しろ」
「暑いでしょうから、中で待っててください。できたら行きます」
暑さに苛立つ相手に、大樹はゆったりとした口調で、自分のペースにはめた。
スシができるのも、少し時間がかかると思わせたのだ。
「あ、ああ、そこのドアのとこにいるからな」
男は、慌てて避難していった。
「さて、まずは姉とやらにコンタクトが取れそうだな」
吉岡が、去っていく黒服を見ながら言った。
「とりあえず、現状だけ伝えておきましょう」
本職に握りを頼み、大樹は防水紙を取り出した。
メモを書き留めると、ちいさくちいさく折り畳む。
「タコの上を、すこしだけワサビでよごしときます」
目印だ。
噛み切りにくいそれを、大樹はチョイスした。
噛んで異物に気付いた時、噛み切れないせいで、口元を手で押さえているように見せられるからだ。
「行ってきます」
仕上げをすませ、大樹はスシの乗る皿を持って、建物へと向かった。
まだ若い大樹の方が、怪しまれることが少ない気がしたのだ。
「スシ、できました。おまたせしました」
ドアの陰で、日差しから逃れていた男に呼び掛ける。
「スシのどこがいいんだか」
彼は、皿の上を顔をしかめながら見た。
その男は。
「ああ、そうだ、変なものが入ってないか、上の魚はがして見せろ」
誰かに指示されたようなことを――思い出してしまった。
※
ネタをはがして、下のシャリを見せろ、と。
やる気がないながらに、彼はそう指示した。
大樹は、怪しまれないように、素直にそれに従う。
ラップをはがし、一番向こう端のトロをめくってみせた。
「この、緑のはなんだ?」
「WASABI、です」
スシに興味ないだけあって、ワサビを知らないようだ。
「毒じゃないだろうな…次めくれ」
言われるまま、隣のミル貝をめくる。
次、と言われたが。
次のは――
「あの、ウニとイクラはちょっと」
軍艦巻は、とてもめくって見せられない。
「怪しいな!」
いきなり警戒レベルを上げられ、大樹はため息をついた。
皿から、ウニを取り上げて、男の顔の方に差し出す。
怪しまれっぱなしでは、どうしようもないからだ。
「しょうがない、これも仕事だ」
やれやれ、と。
男は、軍艦巻を口に放り込んだ。
「むむっ」
一口でおさまったそれを噛み締めながら、男は眉を寄せる。
そして。
「意外とうまいな、これ」
噛み締めながら、男の目がイクラを見ている。
大樹は、それも差し出した。
「むぅ…」
もぐもぐ噛み締めながらも、男は指でついてこいとゼスチャーした。
怪しさ警報を切ってくれたようだ。
空いた隙間を整え、大樹はきれいにラップをかけなおすと、男について歩きだした。
チェックが、手前のタコまでは行かずにすんだ。
まあ。
もし、タコをめくったとしても、そこにはメモはないのだが。
大樹が仕込んだのは――シャリの中、だった。
※
「スシ、お持ちしましたー」
ノックをしながら、男は呼び掛けた。
「入りなさい」
女性の許可の声に、ドアが開けられる。
冷気が、一瞬にして大樹を包んだ。
クーラーが、しっかり効いている。
男の背中の端から、ウェディングドレスの裾が見えた。
地方の島出身の彼らは、精霊信仰で、特定の宗教を持たない。
これも、姉の希望か分からないが、ウェディングドレスを着ることにしたようだ。
「手元まで、持ってきてちょうだい」
何人かの女性が傍にいる。
おそらく、伯父の息がかかっている、侍女兼監視だろう。
大樹は、一度男を見た。
確認のためだ。
顎で、持っていけと促される。
完全に、警戒が解けているようだ。
大樹は、ゆっくりとウェディングドレスに近づいた。
アーシャよりも大人びてはいるが、やせすぎている。
しかし、目の色はしっかりとしていた。
彼女の座る椅子の傍の、サイドボードに、スシを置く。
すると。
「ウニは?」
スパッ!
切れ味のいい言葉が、とんできた。
「ウニが食べたくて呼んだのよ! ウニはないの?」
大樹は、ついつい男を振り返ってしまった。
「バッ…!」
こっち見んな、と両手であわてふためく姿。
「あたしのウニを食べたのは…おまえ?」
地響きがするほど、低音の震える声。
「あ、いや、そのっ! 変なものが仕込まれてるといけませんので!」
男も、伯父の息がかかっているだろうに、たいしたものだ。
そんな彼は、姉の剣幕に震え上がっていた。
「すぐ、ウニを握ってまたきなさい! ウニだけで最低6KANよ!」
そのとばっちりは、大樹にも来た。
間近で吠えられると、迫力がある。
タコの入った皿を置いて、大樹は退散することにした。
またこられる口実ができたし、もう男もウニを疑いはしないだろう。
「適当にごまかせっ、気のきかない日本人め!」
部屋を出て戻る間、チクチク言われ続けたので――大樹は、小さくなっているフリをしなければならなかった。