彼氏イル?
○
「アシ、洗って出なおしな」
西脇組に帰ってきた貴恵は、母親の罵声を聞いた。
母娘で借りている部屋の方からだ。
何のトラブルかと。慌てて部屋に飛び込むと。
「アシは洗えません…けど、絶対幸せにします!」
えーと。
半土下座みたいな、やくざのあんちゃんと、仁王立ちの母親――という、すごいシチュエーションだった。
やーさんの方は、見たことある、というより、美津子に懸想していた、例のアニキ分だ。
「やーさんが、どの口で幸せを語るか! この口か!? えぇ?」
あー。
いい年の男の、口の横をつねり倒すなんて真似を。
しかし、いつにも増して美津子は感情的に見えた。
「やくざだって人間です、恋もします、本気です!」
しかし、折れない男だ。
その真っすぐさが、美津子の神経を更にさかなでようとする。
「普通の人間がいやで、ヤクザになったヤツが、今更普通に恋とか抜かすな! 二度と言ってみろ! 注射針で穴だらけにするぞ!」
げいんっ!
まさに、男は美津子に蹴りだされた。
貴恵の真横に転がり出るヤーさん。
なんと言ったらいいか。
とりあえず、美津子の逆鱗にこれ以上触れないようにと、障子を閉めて遮断してみた。
「ただいま」
まだ、頭から湯気を出している母親に、貴恵は普通に声をかけてみた。
「おうっ、おかえり」
怒りの勢いが抜け切れていないまま、しかし、美津子は言葉を返してくれる。
「玄関の方まで聞こえたよ」
むちゃくちゃな母だが、今日のはヒステリーに感じた。
「あぁもう、おまえは絶対ヤーこうとは付き合うなよ。大樹がヤクザになるなら、絶対別れろ!」
なんというか、大樹の話まで飛び火してきた。
「大樹は、正義の味方になるんだって」
安心するかは分からないが、一応言ってみた。
「ポっ! ポリこうもだめだ! 別れろ!」
怒りが、一瞬にして青ざめに変わる。
どんな過去を送ったんだ、うちの母は。
いまなら、聞けるかなぁ。
疑問だったことを、貴恵は口にしてみようかと思った。
軽い口調で聞けば、答えてくれるかもしれない。
「で…私のお父さんって、ヤーとポリのどっちなの?」
軽い口調でも。
やっぱりダメだったようだ。
美津子の顔には、『ガビーーン!』というショック文字が書かれていたのだった。
※
「あっ!」
斜め後ろであがった声に、貴恵はすぐには反応しなかった。
今日は月曜日。
美容室が休みで、ヘア雑誌の「立ち読み」に行くところだった。
「ちょっ、そこの、黒髪ビューティのお嬢サン!」
慌てた声に。
なぜ、振り返ってしまったのだろう。
「そうそう、君、君!」
破顔一笑。
どきっとする笑顔だ。
決して美形ではないが、ファニーな色気が貴恵を直撃したせいである。
な、なに…というか、誰!
彼女は、突然の事態にわたわたしていた。
「ごめん! 失礼を承知でお願いが! ……髪、見せてクダサイ!」
目の前に、手入れの行き届いた頭が、ぶんっと下げられる。
そのまま、ぶんっと上げられる。
顔は、かなり真面目に貴恵を見ていた。
彼女よりは明らかに年上で、色も黒いしピアスもしてるし眉も整えている。
ヤン上がりっぽいイメージがあるのに、えらくバカ丁寧だ。
ヤン上がりで、ふと母親がよぎった。
まだ、ヤクザの家で生活している関係もあり、逆に真面目に見えるほどだ。
「…どうぞ」
髪を見たいという時点で風変わりだが、同業の可能性もある。
「失礼しまス! 地毛じゃ、ないですよヨネ、この色」
「うちの美容室の、チーフが選んだ色です」
貴恵は、早めに職業をばらした。
髪をいじる手が、ぴたっと止まる。
「もしかして…店ってこの近く?」
手を止めたまま、彼はおそるおそる言った。
「そうです」
貴恵は、ちょっと笑いそうになる。
彼が、何となく気付いているのが分かるからだ。
「チーフって…顎んとこだけ髭、ナイ?」
更に、おそるおそる。
「おしゃれヒゲが、トレードマークですね」
あはは。
ついに貴恵は、笑い出してしまった。
「新しいイメージがあったと思ったのに…詐欺ダ!」
がっくりと――彼はうなだれてしまった。
※
「日本人じゃないモデル使ってたデショー、君んとこのチーフ、このあいだ」
喫茶店で、向かい合っていた。
あのまま、延々道端で話し込みそうだったのだ。
ものすごく、おしゃべりな人だった。
「アーシャのことですね」
貴恵の合いの手が終わるや。
「あれは、反則デショ? 見慣れた日本人顔が、ヘアスタイルでいかに変貌するか、が重要なノニ!」
日本人のことを語る彼は、しかし、微妙に語尾のイントネーションがおかしい。
熱く語られる内容より、そっちが気になってしまう。
「アーシャの発展系が、これなのでは?」
貴恵は、自分の毛先を引っ張ってアピールした。
「そうダヨネー。何で、自分が思いつかなかったのか、それが悔しィ。見慣れすぎてたせいダヨナ」
見慣れ――変な単語だ。
言葉も少し。
顔には、そこまで違和感はないが、もしかして肌は焼いたのではなく、地黒だろうか。
まぁ、別にいいか、外国人の血が入ってても。
アーシャだの、ワンだのと会ったせいもあるし、いま大樹は外国だし。
最近、アジアがとても身近に感じる。
最初にどきっとしたのも、その血を感じたせいだろう。
貴恵の自己完結の向かいでは。
「すっご…君、考えてること丸分かりダヨ。それでもって、何も聞かないナンテ!」
ぶふふっ。
いきなり、貴恵の顔を見ながら、彼は笑い出す。
あぁ?
貴恵は、自分のほっぺたに触った。
そんなに、何でも顔に出ているのだろうか。
「イイネー、ミステリアスな髪に反して、正直な顔だよ。無駄にニコニコもしないシー」
言いながら、彼の方が無駄にニコニコしている気がした。
それに話が、髪やチーフから貴恵に移ってきているような。
「ちなみに、彼氏イル?」
ファニー笑顔――炸裂。
「います」
笑顔弾幕を避けながら、貴恵は一撃で撃墜した。