なんでもない
○
「ちょっと待ってくれ!」
図書館の前。
いまやまさに入ろうとしていた貴恵は、その声に振り返った。
知らない男の人が、誰かの後ろから走ってくる。
自分にかけられた声ではないことを確認した貴恵は、そのまま図書館に入ってしまおうとした。
が。
男の前にいるのが、大樹ということになれば、話は違う。
「大樹!」
貴恵は、慌てて駆け寄った。
何かトラブルかと思ったのだ。
「あ、お姉さんかな?」
白髪混じりの男は、駆け付けた貴恵をそう判断した。
ぷるぷる。
大樹も貴恵も首を横に振る。
簡単に言えばご近所さんだが、彼女はそんな言葉ではすませたくなかったのだ。
だから、正確な関係を口にはしなかった。
「ん? あ、まあ、いいか。大樹くん、だっけ? 少し話す時間が欲しいんだが」
一体、どこでひっかけたおじさんなんだか。
大樹に食い下がる男を、貴恵は不審に見つめていた。
「いそがなくて、いいの?」
大樹は、男の胸のあたりを指す。
はっと彼は、自分の胸ポケットを押さえた。
「そ、そうだな…またの機会にしよう。協力、ありがとう」
ふーっと大きな息を吐いて、男は苦笑ぎみに立ち去った。
「……」
残された二人の間を、沈黙が流れる。
貴恵は、視線を大樹の方へと流した。
「大樹、あのおじさん…なに?」
彼女の質問に、大樹の首がゆっくり動く。
貴恵をじっとみる。
珍しく、その瞳が揺らいだ。
「…なんでもない」
大樹が――初めて隠し事をした。