師匠と弟子
○
「「はぁ……」」
貴恵とチーフは、同時にため息をついていた。
思わず、お互い顔を見合わせてしまう。
「どうかしたんですか?」
自分はともかく、チーフが不調そうなのは珍しい。
「いまの俺に、それを聞くか」
ひきつりながらも、変な笑いを浮かべている。
いまの俺――貴恵は、心当たりを探ろうとした。
「ちょっ、貴恵」
先輩が、慌てたように彼女を呼ぶ。
「何ですか?」
チーフの元を離れて近づくと、首ねっこを引っ掴まれた。
「バカね、貴恵知らないの? チーフの、この間のコンテストのこと」
耳打ちされる。
ぷるぷる、と首を横に振った。
営業日と距離の関係で、見に行くことはできなかったのだ。
大樹の出立とかぶっていたので、なおうわの空だった。
「選外…賞なし、よ」
更にひそめられた声に、貴恵は目だけ空を泳がせる。
「貴恵ーカラーリング見本持ってきてくれー」
言葉を消化しおわる前に、チーフのお使いが飛ぶ。
「はいー」
そっかぁ、あのチーフでも賞なしとかあるんだ。
競争の厳しい世界だし、すぐ奇抜な若い人が、新しい流行を連れてあらわれる。
「はい、カラーリング見本です」
見本帳を差し出すと、チーフはせわしなくめくり出す。
手元には、ヘアマニキュアの資料も来ていた。
「これと、これか?」
ぶつぶつ、呟いている。
「想像じゃ、やっぱりわかりづらいな…おい、貴恵…ちょっと髪貸せ」
うっ。
髪貸せ――要するに、実験台になれということだ。
カラーリングの実験かぁ、何色にされるんだろ。
街を歩きづらくならない色だと、いいなぁ。
それでも貴恵は、チーフに頭を差し出したのだった。
※
あらま。
カラーリングとヘアマニキュアで生まれたのは――傷ひとつない、碁石のような黒髪だった。
うおっ。
ブローされ、キラキラ輝く自分の髪に、貴恵はびびっていた。
黒? ここで黒がくる!?
だが、黒は黒でも、一時期流行ったプエルトリコや、黒人系の沈む黒髪とは違う。
ギラッギラの、艶過剰な黒だ。
頭の中に、アーシャを蘇らせてしまう色。
「チーフ、これ、どうしたいんですか?」
意図が読めず、貴恵はおそるおそる聞いてみた。
「黒髪でも軽い…そういうコンセプトで、流行らせたい」
目元をブラックで際立たせたら――
チーフは、前に回ってきて、貴恵の目尻をぐいと横に伸ばし、メイクをはじめるではないか。
「ミステリアスな、東洋系になるとは思わないか?」
半分、乗りあがるように、目元をいじられる。
「甘いモテ系から、ミツ系に…っと」
やっと、目元メイクから解放される。
「なんで、ミツなんですか」
メイク直後で、目をしぱしぱしながら、貴恵は鏡を覗いた。
やっとチーフが、前からどいてくれたのだ。
「ヒミツ系って、言いにくいだろ」
よっと、彼は大きく背伸びした。
あーなるほど。
鏡の中には、アジアンビューティっぽいのがいた。
少なくとも、自分とは思えなかった。
アーシャが、彼に与えた影響の大きさを、貴恵はそこに見た。
もし、本当にこれが流行れば、次にアーシャが来日する頃には、日本はミツ系でいっぱいというわけか。
来日――することになるといいな。
そんな貴恵の願いは、大樹を危険にする。
彼女は、首を横に振って、願いを払った。