真夏の世界
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どたばたと準備期間が過ぎ、明日、吉岡と数人のスタッフでI国入りすることが決まった。
すっかりツカサはふてくされて、大樹とは口もきいてくれない。
帰ってきてから、ゆっくり罵声でももらおう。
大樹は、今生の別れみたいに、行く前に話はしたくなかった。
それをいうなら、貴恵も、だ。
彼女にはもう、いつ頃出発するかとか言っているのだから、逆に今日会いに行くと、余計に心配させてしまうに違いない。
具体的に意識される前に、さっといってさっと済ませてこよう。
目的が、田島の奪還だけなら、それもありえるのだ。
大樹は自分を戒める。
人間は、万能ではない。
難しい作戦を遂行する時は、よそ見をしてはならないのだ。
たとえそれが、アーシャたちに残酷なことになったとしても。
彼らが、生き延びるのに手段を選ばなかったように、大樹は甘さを切り捨てる。
しかし。
貴恵ちゃん…。
彼女に会いたい気持ちはまた、違うところから生まれる。
子供の頃から、魂に強く焼き付けられた感覚だ。
彼女がいたから、大樹は踏みとどまれた。
多分、ぎりぎり善の側に。
「ちゃんと、あいさつくらいしてけっ!」
あぁ。
貴恵ちゃんが、怒っている幻まで見える。
確かに黙って行ったら、後からやっぱり怒られそうだ。
って。
「貴恵ちゃん?」
大樹は、相当間抜けな声を出してしまった。
彼女が、宿舎の場所なんか知っているはずなんかないのに。
しかし、いまドアを開けて怒鳴り込んで来たのは、やっぱり貴恵本人だ。
これが幻なら、本当に大樹の頭は一線を超えてしまっただろう。
彼女の後ろで、忙しいはずの吉岡が、ひらひら手を振っている。
黒幕が、いたようだ。
※
貴恵に、散々お灸を据えられて、大樹は日本を飛び立った。
日本では残暑と言う季節だが、I国はまだ灼熱だ。
アスファルトに、ゆらゆらと陽炎が立ち上る。
「ここが、伯父一派のいる本宅か」
一つの扇風機だけで、滝のように汗を流しながら、吉岡が地図を確認する。
大樹は、ある意味慣れた暑さになっていたおかげで、平気だったが。
「アーシャたちは、どこかに潜伏して行動の準備中みたいですね。顔が割れているから、表だって動けないのが幸いです」
大樹もある意味、面が割れているのだが、彼は前髪をたらしたまま切らずにいたため、目を見たのは内輪の人間だ。
変なところで、貴恵に義理立てしたのが役立った。
しかも、今回は眼鏡も常備だ。
半端な顔見知りは、気付かないだろう。
だから、大樹は土地勘をフル活用できる。
「ちょっと、情報屋のところで、現地情報を手に入れたいですね」
暑い昼間の方が、悪者は動きが鈍い。
クーラーの効いたところから出たがらないのだ。
出回ってるのは、下っ端ばかり。
アーシャの伯父側に寝返ってなさそうなのに、大樹は一人心当たりがあった。
「私が一緒に行こう」
吉岡が、立ち上がる。
モンゴリアンが二人つるんで歩くのは、少し目立ちそうだ。
「それじゃ、吉岡さんは暑いでしょうけどワイシャツで。書類の入ってそうなカバンもお願いします」
一人で行くといっても、多分許してくれないだろうから、大樹は着替えを頼んだ。
「大樹くんは?」
外資系サラリーマンを演じろと言われているのに気付いたのだろう。
大樹の役柄を聞いてくる。
「ランニングとむぎわら帽子に、サンダルってとこでしょうか…現地の人にも負けませんよ、この黒さは」
彼の肩書き通り、現地ガイドで小銭を稼ぐ子供などが、ちょうどよさそうだ。
※
「日本人が、何の用だ」
お婆さんが、吉岡を見るなり追い返そうとする。
モンゴリアンも各国に散っているというのに、一目で国籍を当てる眼力はたいしたものだ。
「おばぁさん」
大樹は、慌ててむぎわら帽子を取った。
「大! おまえ、ほんとに大かい?」
驚きの老婆が、しわがれた手を伸ばす。
彼女には、前髪をあげて見せたことなどなかったのに。
「国に帰ったんじゃないのかい? どうしたんだい」
中華料理の食材を卸す店。
大量の乾物に囲まれながら、大樹は話し始める。
「おばぁさん、ワンはどこ?」
彼女は、チャイナ系の情報屋だ。
ボスとワンだけしか使わない相手だ。
大樹だけが、何故か何度も遣いに出された。
このために、大樹はワンから最低限の広東語をたたき込まれたのだ。
「お前、何しに帰ってきた? ワンの居場所なんか知らないよ」
しかし、老婆は静かに警戒モードに入った。
「僕は、今回日本人として来ました。同じ、日本人を連れ戻しに。それだけです」
大樹は、淀みなく言った。
「田、を迎えにきたのか」
過去、老婆は田島に会ったことはない。
その彼女の口から、その単語が出た。
会ったのか――あるいは、知ったのか。
「止めるには、ちと遅かったな」
老婆は、きくらげの乾物を見上げる。
いや、きくらげよりもっと遠いものを見ている気がした。
「ワンも田も、お嬢も…もう潜った。今夜か明日には決行だ」
なぜなら、ね。
「三日後には姉様が、後継ぎになり、そのまま結婚するからだよ」
誰と、なんて聞く必要はない。
ボスの実権を握りたい、伯父の息子とやらだ。
これが叶えば、完全にアーシャが邪魔者になる。
躍起になって、抹殺を計るだろう。
姉を助け、自分を助けるには――結婚式の前まででなければならなかった。
「ありがとう、おばぁさん。お元気で」
頭を下げて、大樹は再びむぎわら帽子を目深にかぶる。
時間がない。
大樹は、吉岡に出ようと合図した。
※
老婆のところを出た二人は、一旦ホテルに戻ろうとした。
大樹がもし一人なら、もう一件寄りたいところがあったのだが、外資企業風の吉岡を連れて行くと危なそうなところだ。
「はい、はい、坊や…どこの子かな」
そんな大樹の前に、立ちふさがる長い足。
足を止める。
「うちのシマのガイドじゃないよね…分かるかなー僕。ここじゃ、ちゃーんとライセンス取らないと、仕事ができないんだよー、ライセンス…分かるかなー?」
暑い中、見回りに出されている三下と、出くわしてしまったようだ。
回りくどい言い方をしているが、気温のせいか相当いらいらした声だ。
ライセンスと言っても、公的な認可ではない。
マフィアが、上前をはねるための管理する言葉だ。
「コリアン? ジャパン? どっちでもいいや、おじさんはもう行きな…今度からうちの子、使ってね」
吉岡を、あしらうように遠ざけようとする。
金ヅルの外国人には、愛想よくしとけというのは、暑くても徹底しているようだ。
さて。
ニセガイドだから、連れていかれるのは都合が悪い。
お互い土地勘はあるので、走って逃げるのも考えものだ。
「ちょ、その子を…どうするんだね。その子がいないと、私はホテルまで帰れないんだぞ」
吉岡が、あわあわした声で、しかし大樹を守ろうとしてくれる。
「タクシー乗って、ホテル名言えばすぐつきますよー」
めんどくさそうに、男が吉岡の方を見る。
千載一遇。
大樹は、だっと駆け出した。
動きだしたばかりの、三輪トラックの荷台にかじりつく。
「おい、待て!」
追い掛けてくる男と、呆然と立っているように見える吉岡。
ホテルで会いましょう――なんて、言う必要はなかった。
※
一件、寄り道をしたので、大樹がホテルに帰りついたのは、吉岡よりも遅く、だった。
「よかった。無事だったか」
吉岡の心配に、苦笑しながらもらった紙を差し出す。
「なんだ?」
現地語なので、解読できないようだ。
「結婚式に関連して、本宅に出入りする業者のリストです」
大樹の考えでは、昼のうちにどこかの業者に紛れて、入るのではないかと思ったのだ。
「ちょっと風変わりな業者、入ってます。気になります」
むぎわら帽子を取り、大樹は問題の部分を指した。
「何だね」
読めないながらに、吉岡が身を乗り出す。
他のスタッフも寄ってきた。
「スシ・レストラン、です」
この真夏に、スシ屋の手配をするなんて。
偶然とは、思いにくい。
何故なら、これほど日本人が入ることを、自然に見せてくれるものはないのだ。
西脇組のボスの、何らかの力が動いたのかもしれない。
「田島さんも、この一員で入り込むかもしれません」
今夜なら、捕まえられるかもしれない。
「夜、スシ・レストラン、行ってみましょうか」
大樹の提案に、少しあきれたような吉岡の顔。
「いや、まいった。複雑だが…この仕事は向いているのかもなぁ」
頭をぼりぼりとかきながら、彼はうなるのだった。