お願い
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貴恵が、仕事から西脇組に戻ると――ワンがいた。
あなた、数日前まで意識不明の重体だったんじゃ。
貴恵は、あきれて物が言えなかった。
片腕など、点滴をつないだままだ。
母が、点滴のパックを取り替えている。
「おかーさん…」
どう、つっこんだらいいのだろう。
「好きで協力してんじゃないぞ。目の前で、死なれるのがいやなだけだ」
貴恵の言いたいことを、察しているのだろう。
空の点滴パックをゴミ箱に放りながら、美津子は不満たっぷりだった。
「こんなんで、国に帰るとか言ってるから、ちゃんちゃらおかしいや」
しかし、ワンは美津子に何か言われていることなど、どうでもいいらしく、アーシャをじっと見ている。
ワンが帰る理由と言えば、彼女の父の一件しかありえない。
「アーシャも…帰るの?」
英語で呼び掛けた。
「…ええ、帰るわ」
父親側が、勝ったとは思えない、厳しい声。
貴恵は、戦況などに首をつっこまないようにしていたが、彼女の声だけで、大体把握できた。
「私が連れて行けるのは、このワンとあとから迎えにきたザィ。本国に詳しい西脇組の助っ人数人」
アーシャは、自分側の戦力を語りだす。
ワンがこの状態で、何ができると言うのだ。
厳しそうな戦況を、一体どうしようと。
「だから、貴恵…お願い」
待って。
何故、私を見るの。
何故、私にそんな言葉を。
アーシャの、次の言葉を聞きたくなかった。
貴恵は、本能的に逃げ出したい気持ちにかられたのだ。
「だから、貴恵…勝ち残るために…ダイキを貸して」
逃がさない、アーシャの覚悟の目。
それに射抜かれて、貴恵は動けなくなってしまった。
※
「ノーだ」
答えたのは――美津子だった。
「ちょ、おかあさん、意味分かって答えてんの?」
母の与えたショックに、貴恵は逆に冷静になってしまった。
看護婦の試験のみに、人生の学力の全てを注いだと豪語する母が、英文を理解しているとは思えない。
「意味なんて、大体想像で分かる。大樹のことで、なんか無茶な要求してきてんだろ? こういう時の本妻は、ガツンといっとかんとナメられるぞ」
鋭いのだが、何かズレている。
「いいか、貴恵。同情は、時と場合により、だ。ヤーさんに何があろうと、自業自得だってことだけは、忘れるな」
母は、どうしてこんな心の強さを持ったのだろう。
こんな強さが手に入るなら、高校時代にもっと反抗して、母のように不良くらいやっておけばよかった。
「大樹は、それを聞いたの?」
大体。
何故、貴恵にレンタル依頼を出すのだ。
既に、大樹が行くと決めていたら、彼女はどうすればいいのか。
「ダイキは……断ったわ」
苦渋の、声。
衝撃的な内容でもあった。
「でも、ダイキは迷ってた! キエが頼んだら、きっと来てくれる!」
大樹は、国のこともマフィアのことも把握している。
貴重なブレインなのだと、アーシャは訴えるのだ。
また、彼を異国に送り出せ、と。
マフィアの抗争真っ只中で戦え、と。
「だめよ、アーシャ。大樹は、頭はいいけど…マフィアの人間じゃないの」
英語のいいところは――イエス、ノーを最初に言えて、むやみに謝らなくていいところ。
いまほど、この言語がありがたいと思ったことはなかった。
彼女の顔が、複雑に歪んだ。
何かが、爆発しそうな一瞬手前。
アーシャは、ぐっと強く唇を噛み締めた。




