シャキッ
□
「大樹くんーちょっと」
夕食後、吉岡がやってきた。
ドアのところから、手招きだ。
公的な用事、と言う感じはない。
「どうかしました?」
「ちょっと、おじさんとドライブでもどうだい?」
言葉に、大樹は苦笑した。
ついにきたか、と言うところだ。
吉岡が、個人的に話をする可能性に、大樹は二つ心当たりがあった。
どちらか、だろう。
「はい、よろこんで」
大樹は、涼しい夏の夜のドライブへと、繰り出したのだ。
「言われることが、何か分かってるようだね」
ハンドルを握る指が、とんっと軽くそれを叩く動きをした。
「どっちの話かまでは、分かってませんよ」
答えに、吉岡は軽い笑いを上げた。
「アーシャちゃんの方だよ」
潮時がきたようだ。
「西脇組に、連れてってくれるんですか?」
かまをかけられているとは、思わない。
だから、大樹は素直に認めたのだ。
「おじさん、仲間はずれにされて、ちょっとショックだよ」
茶化した言葉で言われると、逆に申し訳なくなる。
「いろいろ事情がありまして…吉岡さんが、無理に味方してくれると、職場で問題も出るでしょうから」
話せば、味方になってくれるのは、分かっていた。
ただ、後ろ暗いところのある人間に、無条件で味方になってもらうには、リスクが高すぎるのだ。
「そう…だから私も、しらんふりをさせてもらってるよ。私にも隠すということは、調書にも載せる気はないだろうから」
かさねがさね、頭の上げられない相手だ。
だから、こんな風にプライベートを装って連れ出してくれたのだろう。
「さて…アポは勿論入れてないから、丁重にあいさつをして門を開けてもらわないとな」
ふむ、と呟く吉岡。
「吉岡さんが入るのは、立場上危険なのでは?」
大樹は、それを心配した。
「あはは、私は警察ではないよ…手帳もないし逮捕権もない、しがないおじさんさ」
しがないおじさんは、ヤクザ宅を訪問できませんよ。
大樹のツッコミは、かすかにこぼれた笑みに、かき消されたのだった。
※
「貴恵、ハサミ縦に入れろ! 変に寝かすな」
案内された大樹が見たものは――和室いっぱいに敷かれた、ブルーシートだった。
なに?
異様な光景に、さすがに大樹も動きを止める。
シートの上には、いくつも椅子が置かれ、顔だけ見るといかにもヤクザが座っている。
しかし、彼らの髪は洗われたためか、ぺちゃっとしている上に、全員ケープをかけられていた。
「貴恵、またとないメンズの練習台だ…存分に練習させてもらえ」
「は、はぁい」
なんと。
大樹は、ようやく事態を把握してきて、笑いたくなってしまった。
美容室が、まるごとやってきた騒ぎだ。
どういういきさつか知らないが、ここで勉強会をしているのだろう。
「ダイキ!」
彼を見つけたのは、アーシャ。
いや、最初はアーシャだとは分からなかった。
長かった黒髪が、すっかりショートになっている。
「様子を見にきたよ…すごいね」
貴恵にも分かるように、大樹は英語を使う。
「すごいでしょ…最初アーシャだけだったのに、チーフがその辺の組員を片っ端から実験台にしてるの」
貴恵が、ちらちら大樹の方を見ている。
アーシャの話を聞きながら、目だけで「分かってる」と気持ちを伝えた。
「パーマでごまかせないからな…カット力を研け」
びしびしと、チーフの声が飛ぶ。
これは、終わるまで話は出来そうにないな。
「吉岡さん、ちょっとここで待っててください…挨拶を先にすませてきます」
後ろの吉岡もまた、この騒ぎに驚いて動けずにいた人だ。
挨拶、といっても、チーフにするわけではない。
さすがに、吉岡は会わない方がいい人に、だ。
「アーシャ、組長さんを紹介してもらえるか?」
現地語で、語り掛けた。
※
「初めまして…いろいろお世話になってます」
着流しの裾を乱して座る組長は、いかにも任侠、という雰囲気だ。
「あー、おめぇさんは、あれだ…アーシャお嬢をたぶらかした男か」
耳の穴に小指を突っ込んで、組長はおもしろくなさそうに言う。
まだ、その話は生きているのか。
「はい」
ウソは一度ついたら、それを守るために、またウソが必要になる。
新たなそれを積み重ねながら、大樹はまっすぐに答えた。
「まぁ、アーシャお嬢は、おめぇさんに関係なく預かっとるから、挨拶なぞいらんがな」
大樹の顔を、じろりと睨む。
アーシャの件で、殊勝な態度をとらなかったのが、よくなかったようだ。
「いえ、美津子さんと貴恵ちゃんの件も…助かりました」
もう一つのお礼を言うと、組長はますます顔を険しくする。
「あの姐さんたちと、どういう関係でぃ?」
問いに、昔なら困っただろう。
隣人ですと、野暮な答えを返していたかもしれない。
「大事な人たちです」
それと比べれば、随分マシな答えだったはずだ。
組長は、少し考えるような目の動きをした。
「随分、女をはべらしてるようだが…本命は誰でぃ」
彼の頭の中で、どんな映像が流れているのだろう。
大樹は、苦笑してしまった。
「貴恵ちゃんですよ」
こんなやりとりがあったと知ったら、貴恵も驚くだろう。
むむむ、と組長はうなる。
「ヤクザものの嫁さんなら、アーシャお嬢か、おっかさんの方が勤まるぞ」
それは、貴恵が一番、一般人だとほめているのだろうか。
「僕はヤクザじゃありませんから」
やわらかく打ち返して、丁重にアドバイスを聞き流す。
「ヤクザの組長前にして、そんだけ肝すえてやがるガキの、どこが一般人だってんでぃ」
ズバンっと、鋭く切られる。
大樹は困った。
言い返す言葉が、見つからなかったのだ。
※
「大樹!」
ハサミを持ったまま、貴恵がかけてくる。
戻りかけの大樹を見つけて、その目がほっと細められた。
「帰ったかと思ったじゃない」
もー、と不満に変わる。
「吉岡さんは? 残ってなかった?」
彼がいれば、大樹もいると暗黙に伝えられると思ったのだが。
「あ、そっか…いま、チーフに捕まって座らされてる」
自分のうっかり具合に笑った後、貴恵は吉岡のことで、もう一度笑った。
「すごいね…ここを美容室にするなんて」
ヤクザの組長宅に寝泊りするようになった直後、この騒ぎだ。
普通の神経では、無理だろう。
「うちのチーフが、そこらへん乱暴で…母さんよりは、マシだけど」
美津子の狼藉ぶりは、ここでも健在らしい。
「もうしばらく、不都合かけるけど…ごめんね」
ドタバタしてばかりで、貴恵とゆっくり話をする時間も作れなかった。
アーシャがきたところから、ずっと。
「大丈夫…一人じゃないし」
ようやく、ハサミにかけていた指を抜きながら、貴恵は笑う。
特殊な状況下なのに、こうして貴恵といると、これが日常に感じる。
大樹の身体にしみついた、貴恵スイッチのおかげだ。
「大樹は、いつ頃社会復帰するの? 仕事のカン、にぶっちゃったんじゃない?」
綺麗に閉じたハサミ。
それが、貴恵の仕事道具。
「まだわからない…けど」
貴恵には、三ヶ月の隠し事がある。
だからこそ、これからの隠し事はできるだけしないようにしたい。
だから。
「前の会社には、勤められないかもしれない…吉岡さんと、いろいろ相談するよ」
大樹は、貴恵に自分の予想を明らかにした。
ハサミに指を差し直した貴恵は、軽やかにシャキッと鳴らしてみせる。
それに、ハッとした。
まるで、悪い空気を断ち切るかのような音。
「大丈夫…大樹は賢いし、生き延びる力もある。味方もいる…だから、きっと次の道が見つかるよ」
彼女の、凛々とした言葉よりも。
その、大樹を誇らしく思う笑顔に、見とれてしまった。