ヤー
○
貴恵たちは、病院に身を隠し――ていなかった。
「間に合ってよかったよ、アーシャお嬢」
「シンベー!」
アパートまで迎えにきた、いぶし銀なおじさんに、アーシャは飛び付いた。
だ、誰?
貴恵は、楽しそうな光景を見ながら、それどころじゃないよね、とツッコんでいた。
大樹からの連絡の直後、アーシャが父親に電話すると、日本の友達が迎えにきてくれると言うから待っていたら。
「すまねぇな、今夜香港からけぇってきたばかりで、お嬢のこともワンのことも、いま知ったんでな」
誰に習った英語だろうか。
訛りとスラングがひどい。
べらんめぇ口調に聞こえてしまう。
「アーシャ…」
二人の世界に入ってしまわれる前に、貴恵は彼女を呼んでみた。
すると、おっさんの方が早く貴恵を見返す。
「あいさつが遅れやした…あっし、西脇組六代目、西脇新兵衛と申します。お嬢の親父とは、兄弟がための杯をかわした仲でございやす」
堂々たる見栄きりに、貴恵は戸惑うしかできなかった。
「また、ヤーさんかい」
あくびをしながら、母親が毒づく。
本当に、誰相手でもこうなんだ。
貴恵は、くらくらとめまいがした。
「お嬢が、世話になったそうで…」
しかし、さすがは組長と呼ばれる男。
美津子の言葉には、揺らがない。
「まあ、ポン語が通じるだけマシか…そっちに泊めてもらえるんだろ? さっさと行こうじゃないか」
変なスラング、作らないで。
そして、仕切らないで。
貴恵の願いなど、言葉にしても絶対に通じないに違いない。
「おかーさん、アーシャだけを保護してもらえればいいんじゃ」
だが貴恵は、同行するのは止めようとした。
ヤーさん宅に、泊まりたい人間はいないだろう。
「あまーい。ヤーさんは、バカ一直線が多いんだぞ。間違ってさらわれたり撃たれたりしたいのか? あの嬢ちゃん国に帰って落ち着くまで、ヤーさんちの方が、よっぽど安全だ」
堂々たる風格に、貴恵はもう言い返せなかった。
一体、何日居座る気なのか――
※
「ってぇことで、明日からしばらく送迎よろしく」
組長と、対等に話をつける母親に、貴恵は感心しながら呆れていた。
組長のビッグな日本家屋で、あっという間に予定が完成する。
母親と貴恵の、仕事場までの送迎だ。
命狙われてるんだから、それくらい当然だ、と。
「じゃあ、私も貴恵についてってもいい?」
だが、アーシャが、とんでもないことを言いだす。
貴恵と組長は、同時に彼女を睨んでいた。
その二人しか、英語がわからないせいだろう。
「あなたが来たら、意味がないでしょ! 組員さんたちが、山ほど美容室に押し掛けるわよ」
「そうでぃ、お嬢。迎えが来るまで、ここでおとなしくしときなせぃ」
二人がかりの説得にも、アーシャはぐずる。
自分の心配は、していないのだろうか。
「だってーせっかくモデルになったのにー」
心配してないな、こりゃ。
緊張感のないぐずりに、貴恵は肩を落とした。
「モデルはもう終わったのよ…写真もとったし」
だから、心配しなくていい、と言おうとしたのに。
「でも、チーフは言ったわ。もし来週まで日本にいるなら、コンテストのステージモデルにならないかって」
アーシャの爛漫な笑顔を見ながら、貴恵はチーフを呪った。
いつのまにそんな話を。
貴恵も忙しく、ずっと話を聞いていたわけではない。
まさか、チーフがそこまでアーシャの髪を気に入っていたとは。
「あなたは、来週まで日本にいないの…チーフには言っておくから」
彼女には悪いが、長く滞在するほど、周囲が大変なのだ。
「だってせっかく…」
アーシャの目が、潤む。
好きな男をおっかけてきたらフられ、やっと美容室やモデルで気晴らしができたと思ったら、抗争に邪魔され。
彼女は、ふんだりけったりだ。
貴恵は、ため息をついた。
勝手に、抜け出してこられても困るので。
「じゃあ、近い内にチーフがOKを出したら連れてくるから、自分で直接話しなさい」
貴恵の言葉よりは、チーフの言葉の方が聞きそうな気がしたのだ。
一瞬。
アーシャの顔が、輝いた。
まさか、ね。
貴恵は、頭に浮かんだ言葉を指で消したのだった。