部長
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「部長ー! こっちいませんー!」
肉体派の部下を連れてきて走り回らせたが、捜し物は見つからないまま。
「まいったな、ハム野郎にまかれたか」
部長と呼ばれた男――吉岡は、白髪の交じる自分の頭に手をつっこんだ。
二十歳すぎから出始めた白髪のせいで、いま三十七歳なのにもっと老けて見られる。
そんな彼の耳に、元気なちびっ子の声が聞こえてくる。
公園があるようだ。
公園と言えば、子供と女性の溜り場。
噂好きな主婦が、あのハム野郎を見ているかも、と吉岡は部下と共に向かうとにした。
「誰か…っと!」
奥様より先に、学制服の少年が目に止まる。
一人で棒で落書きしているようだ。
待ち合わせか?
多少不審に思いながら近づく。
「ちょいと、すまん」
声をかけると、ふっと顔がこっちを見た。
お。
余りにまっすぐ見られたので、吉岡はさっきの不審を取り消した。
何かやましいことのある子供は、こんな目で大人を見ない。
「ここで男の人を見なかったか? 背広を着た太めのおじさんなんだが」
吉岡は自分の背広の襟をひっぱって見せた。
すると、少年の唇が、ああ、という形になった。
すうっ。
その手が、まっすぐ公園出口を指す。
「お、ありがとよ!」
軽く手を振って、吉岡は駆け出した。
この時、すぐに立ち去ったことを――彼は後悔することになる。
※
「みつかりませんでしたね」
「本部にどやされるなあ、これは」
完璧に見失った事実に、吉岡は頭を痛めていた。
前々からチェックしていたハム野郎が、ついに動きだしたというのに、あっさりまかれてしまうとは。
辺りは暗くなり始め、このまま捜し回っても徒労に終わるだろう。
仕方なく吉岡は撤収することにした。
駅まで歩き、それから電車で戻るつもりだった。
相手に逃げられて、帰りのタクシーの領収書を提出できるほど、心臓に毛は生えてなかったのだ。
「さすがに、もう誰もいないか」
街灯がつく直前くらいの公園は、微妙に暗く不気味だ。
「お、ついた」
部下が、白くまばたいた街灯を指す。
ほの白く、たよりなく辺りを照らし始めた。
そういや。
夕方会った少年は、ちょうどこの街灯の下あたりにいた。
いまどきの子にしては、独特の雰囲気があったな。
吉岡は、記憶の隅に残る少年を思い出そうとした。
その時。
彼の足が、何かを蹴った。
いや違う。
地面にある何かを踏んだのだ。
「ん?」
よく見えない足元を、吉岡はじっと見た。
「な、んだ…?」
まるで、子供が地面に落書きするのと同じ気軽さで描かれているそれ。
「部長?」
突然動きを止めた上司に、不審そうな声が飛ぶ。
それに、吉岡はハッとした。
「か…懐中電灯買ってこい! 大急ぎだ!」
彼は、自分自身が驚くほどの大声をあげ、部下を走らせた。
まさかまさか!
ありえないと、頭のどこかでは思っている。
しかし、足元の模様が、吉岡を揺さ振るのだ。
こんな偶然が、そんなにあってたまるか!
落ち着かない手で、携帯を取り出す。
「あ、吉岡だ。大至急化学班の誰か寄越してくれ!」
自分に、正確な判断は下せない。
彼は、応援を呼ぶことにしたのだ。
懐中電灯が到着するまで、吉岡は一人足元を見つめていた。
公園の端に描かれた、不似合いな――化学式を。
※
「この化学式、どう思う?」
吉岡の呼び出しで来たのは、バケガクのスペシャリスト、小野だった。
休みの日でも仕事場にいることが多い彼なら、確かにこの緊急の呼び出しに対応できるだろう。
地面から紙の上に書き写せるだけ写した小野は、神経質そうな顔を、さらに険しくした。
「一部消えているから断定できないが、確かにハムの商品の可能性はあるな」
化学式は完全ではなかった。
人に踏まれた部分もあり、一部消え去ってしまっていたのだ。
踏んだ犯人の一人は、吉岡なのだが。
「と、いうことは、あの坊やがハムのメモを拾って持ってる可能性があるってことか」
多分、あれは中学生くらい。
まだ、化学式と親友になる年ごろではないはずだ。
「しかし、その子は変人だな」
メモではなく、懐中電灯で照らされる地面を見ながら、小野は言った。
「たとえメモを拾ったにしろ、普通それを地面に書き写すか?」
力仕事をしない細い指が、下を指す。
「まぁ、なあ」
吉岡も、そんなことを考えもしなかったから、あの少年の書いているものを見なかったのだが。
「この辺の中学なら、すぐ絞れるだろう。まだ、メモを持ってるといいが」
とりあえず、ハム野郎の扱う商品の目星はついた。
ハムのくせに悪知恵だけは働くから、こんな風にぱっと見にわかりづらいものばかりを商品とする。
だから、なかなかしっぽを掴めないのだ。
「それなら悪いが急いでくれ」
小野は、不完全なメモを読み解くように見つめる。
「多分、これはロクなもんじゃない」
ハム野郎の扱う商品は、いつもロクなもんじゃないぞ――吉岡はあえて言葉にしないまま、大きくため息をついた。