魔法使いと王と看護婦
○
「すっみませんっ」
貴恵は、金髪くんに土下座されていた。
朝っぱら。
大樹がいつも、新聞配達から帰ってきていた時間、のことだ。
場所は、貴恵の部屋。
居間では、大樹とお嬢さんが話をしている。
「なるほどね、大樹は無実だと」
貴恵は、何とも言えない気分だ。
昨日は、ほとんど眠れなかった――怒りで。
どう聞いても、大樹に言い訳の余地はないと思っていたのだ。
だが、大樹に頼まれて、この金髪くんが土下座までするとは思わないし、彼がそんな小細工をめぐらすとも思えなかった。
「それは分かったけど、なんで自分であの子に謝らないの?」
貴恵に土下座するのは、お角違いではないか。
「いろいろ、大人の事情があって…オレ、どうせアッチ語、しゃべれねぇし」
ふすまごしに漏れ聞こえる、英語でもない国の言葉。
大樹の声なのが、不思議な感じだ。
「正直にバラすと、傷つくだろうねぇ」
貴恵は、かわいそうになってきた。
純愛を捧げたと思った相手は、違う男だったなんて。
「そう思うでしょ!」
突然、金髪くんが身を乗り出してきた。
「そこで、おねーさんにお願いなんスよ!」
身を乗り出し、貴恵はうさんくさく手を握られていた。
すごーく、いやな予感がする。
「彼女の迎えがくるまで、ここに泊めてやっておくんなまし」
芝居がかった言葉に、貴恵は目をそらした。
嫌な予感、的中だ。
「ここは、本妻としての心の広さで、なーにーとーぞー」
あー。
再び土下座する金髪くんに、貴恵はこう思っていた。
やっぱ、先輩に紹介するのやめよ、と。
※
次に、貴恵の部屋へやってきたのは、明らかに年上の、がっしりした先輩さんだった。
腕を三角巾で吊っているのは、あの事件の名残だろうか。
「すみませんね、うちのノータリンが、迷惑かけまして」
無事な方の手で、金髪の頭をこづく。
「どうせこいつじゃ、まともに説明できないと思ってね…吉岡さんにも、オフレコの話」
ひそめられる声。
吉岡も来ていたから、居間で立ち合っているのだろう。
アーシャの涙声が、聞こえてきた。
「彼女は、向こうのマフィアの娘でね…正直に今回の事を話すと、このノータリンの頭と胴がお別れしかねない」
ひそやかに、とんでもない言葉が語られる。
思わず、金髪くんの顔を見てしまった。
彼は、そういうことっスと首をすくめる。
「なんで、大樹にひと芝居、うってもらってるんだよ、貴恵さんには申し訳ないんだが」
あぁ。
貴恵は、だんだん読めてきた。
大樹は、ありのままに説明していないのだ。
だからアーシャは、涙声ではあっても、ヒステリックではないのである。
あんな事実を聞かされた日には、貴恵なら怒りの余り、こっちの部屋に乗り込んできて、金髪くんをぼこぼこにしただろう。
「あの夜の相手は、確かに大樹だった…アーシャのことは好きだが、日本に帰る前の思い出と考えていた、すまない、と」
先輩さんの説明に、貴恵は耳をふさぎたかった。
なかなか、嫌な展開の話である。
「そこで重要なのが…彼女を落ち着かせてから、帰国させることなんだ」
興奮したまま帰すと、下手したら大樹の首が飛ぶからね。
説明は、とてもわかりやすいものだった。
要するに、この金髪くんの身代わりに立った大樹を守るには、貴恵にひと肌脱げ、と。
「関わったオレたちといても、かわいそうなだけなんだよ」
言いたいことは、よーくわかる。
わかるが。
大樹の命を握る女の子を預かるなんて――貴恵へのプレッシャーは相当なものだった。
※
「と、いうわけで、事務所においてもらえますか?」
アーシャを家に置いておけず、貴恵は職場まで連れてきていた。
すっかり泣き腫らし、しょんぼりしている。
こんな状態で一人にしたら、ふらりと出ていったり、思い詰めたりしそうだった。
「来日までして、追い掛けた男にふられるなんて…かわいそうに」
女の多い職場は、感情で話が進められる。
ここでだめだと男が言えば、女性スタッフを敵に回すだろう。
「わかったよ、おとなしく座らせといてくれよ」
店長の許可にほっとした。
しかし、おしゃれヒゲチーフが、じーっとアーシャを見ている。
何か、思うところがあるのだろうか。
「英語、通じるんだよな?」
貴恵に、確認してきたので頷く。
するとチーフは、彼女を椅子に座らせると、その前にひざまずいた。
そして、英語で話し掛け始める。
何をやらせても、サマになる男がいるものだ。
「チーフ、彼女をくどいてんの?」
先輩方の声に、内容の分かる貴恵が、笑ってしまった。
「雑誌用のカットモデルを頼んでるみたいですよ」
日本人にはない、別種の黒い色の髪。
それが、どうもチーフのカット魂に日をつけたようだ。
意外な展開に、貴恵の方が驚いていた。
少しは、気晴らしになるといいけど。
まだ、肩を落としたままのアーシャを見つめながら、彼女はそう思ったのだった。
※
「チーフ、世界をめざしてるしねぇ」
ついにアーシャを、カット席に座らせることに成功したチーフを見て、スタッフの噂話が始まる。
ワゴンの上の道具を準備していた貴恵は、ここでの仕事以外のチーフの多忙ぶりを思い出していた。
コンテストに、ヘア雑誌掲載。
まだ優勝こそないが、最高位は3位だ。
たいしたものである。
そのうち、独立するだろうと言われていた。
そんなチーフが、最初にアーシャの写真を撮った。
カット前の記録だろう。
笑いもできない、まだかわいそうなアーシャが、そのまま写真に刻まれる。
「お客が増える前に、やっつけるぞ…由美、貴恵、アシスタントに入れ」
雑誌への掲載ともなると、店の威信にかかる、重要な宣伝材料だ。
仕事時間に、スタッフを使っても許される。
呼ばれた貴恵は、ある意味大抜擢だ。
彼女と顔見知り、という事実で呼ばれただけかもしれないが、それでも間近でテクニックを見るいい機会だった。
貴恵は、彼女をシャンプー台に案内して座らせた。
「ねぇ」
アーシャが、座りながらぼそりと言った。
「何?」
タオルとケープをかけ、シャンプーの準備をしながら答える。
「あなた、大樹のことが好きなの?」
ぼそぼそぼそ。
肌の色に似合わない、悲しい声。
貴恵は、シャンプー台を倒し、その顔にタオルを乗せた。
「そうよ…お湯出すわね」
するっと、彼女は答えて――シャワーを開けた。
彼女の黒い髪が、お湯を吸い、さらに黒く染まる。
「私、大樹と一夜を共にしたのよ」
それだけが、彼女が今すがれる事実なのだろうか。
「そうね…洗うわね」
だとしたら。
なんて細い糸なのだろう。
アーシャは、顔に乗ったタオルを手で押さえた。
まるで、にじんでくる涙を、それに吸わせるように。
※
カット、パーマ、ブロウ。
今回は、黒い髪の色を生かすということで、カラーはなし。
さすがに、勉強会とは違うので、チーフの手捌きには、まったく猶予はなかった。
あれこれアシストしているうちに、作業がどんどん進んでいく。
しかも、一般のお客も入り始めたため、貴恵はてんてこまいだった。
時々、チーフが英語で語り掛けているようだったが、音を拾うことはできない。
最後の仕上げのブローになって、貴恵はよろよろとアーシャのところへ帰ってこられたのだ。
「ほい、完成」
チーフは、ケープを取り払った。
シャツとジーンズという、ラフなスタイルによく似合う、セミロングの跳ねる毛先。
太陽の下が何よりも似合う、明るい髪型だった。
黒髪なのに、全然重さを感じないのは、さすがだ。
髪の艶の反射で、銀色が強く効いているせいだろう。
「さすがチーフ」
見ていたスタッフが、うなり声をあげた。
しかし。
切られた当の本人は、信じられない顔で、鏡を見ていた。
「これ…私?」
鏡の後、アーシャはチーフを見る。
「そう…君だよ。さあ、写真を撮るからこっちへ来て」
差し出された手を取って、アーシャはカット台を降りた。
その横顔は、驚きで興奮していた。
肌の色で分かりにくいが、顔色もよくなった気がする。
「やっぱ、失恋したら…美容室に限るわよね」
由美先輩が、うっとりしたように、アーシャの髪を見ている。
窓際の光のあたるところに立った彼女の髪は、星屑のようにきらきらして見えた。
すごい。
本当の美容師とは、心まで動かしてしまうのだ。
カメラの前で――アーシャが笑った。
※
仕事あがり。
「雑誌写真のモデルのお礼に、メシをおごろう」
太っ腹チーフに、夕食に誘われた。
とは言っても、遅い時間なのでファミレスだ。
アーシャがいるので、会話は英語。
ファミレスで、英語で会話する三人は、少し浮いていた。
「イギリスに留学なんか、しなきゃよかったの」
チーフに心を開いてくれたおかげで、アーシャはしゃべるようになっていた。
「ご飯はおいしくないし、憂欝な天気多いし、友達はできないし…おかげでノイローゼになったわ」
運ばれてきた料理に手をつけながら、アーシャの話はつづく。
「結局、心配したパパに、半年で連れ戻されて、療養でママの実家の島にいったの」
言葉が、一度止まった。
「そこに…ダイキたちが流れ着いてきたわ」
ああ、なるほど。
彼女が言葉を止めたのは、あの男を思い出したせい。
「大樹?」
知らないチーフが、復唱する。
「私の隣人です」
貴恵は、補足した。
「おまえの隣人は、外国に漂流するような仕事なのか?」
チーフの言葉がおかしくて、貴恵は笑った。
アーシャも。
「あ、こないだうちに来た三人か? オレは田島氏を相手にしたが」
チーフの話に、アーシャはにっこりした。
「タジマ! 彼はとてもいい人です。島の人は、みんな彼を好きになったわ」
とても好感を持っている響きだ。
その気持ちは、よく分かった。
朝、ちょっと話しただけだが、器の大きそうな人だ。
「金髪の子もいたよな」
それに、アーシャは表情を曇らせた。
「ツカサも…いい人ですが、ちょっといい加減で、女の子たちがたくさん声かけられてました」
もうね、おまえは全世界の女性に土下座しろ。
記憶の中の金髪くんに向かって、貴恵は拳を固めていた。
「と、いうことは、貴恵の担当した、おとなしそうなのが、噂の大樹か」
そーなんですよ。
貴恵は、パスタを巻きながら、これからアーシャの前で、大樹の話をしていいものか、深く深く悩んでいたのだった。
※
チーフの車で、二人はアパートまで送ってもらった。
貴恵が先を歩き、階段を昇ると――大樹の部屋の前に、誰か立っていた。
昨日、アーシャがいたところ。
いやーな予感。
顔を見たくなかった。
外国人だったら、いやだな――そう思ったのた。
「アーシャ!?」
しかし、勝手に驚いた声で叫んでくれたので、貴恵の予感は的中したことが分かったのだ。
「ワン!」
アーシャが犬みたいに呼ぶ。
つい顔を見たら、大陸系アジア人だった。
王と書いて――ワンか。
そこから先は、分からない現地語での攻防が始まった。
まあ、言葉は分からなくても、状況は分かる。
アーシャのお迎えだ。
マフィアの娘と聞いていたので、彼もきっとその筋の人なのだろう。
朝の話では、迎えが来るまで、ということだったので、これでアーシャは帰るのか。
しかし、素直に帰るにしては、アーシャが引く気配がない。
このまま、ボロアパートの前で口論させるわけにもいかず、貴恵が割って入ろうとした矢先。
「人ん家の前で、うるさいわい! この毛唐!」
わしゃわしゃの髪のまま、ドアから頭を突き出して怒鳴る女。
瞬間。
二人の外国人は、ぴたっと口を閉ざした。
マフィアのあんちゃんを、黙らすなよ。
貴恵は、背中にぬるい汗が流れた。
「あん? 貴恵じゃねぇか」
やっと彼女の存在に気付いたように、声がかけられる。
「た、ただいま」
小さくなる声で答える。
「誰?」
ぽかんと、アーシャが聞いてきた。
昨日、いなかった人間だからだ。
「うちの…母」
ワンさんにアーシャに母親に。
説明やら事態収拾やら、めんどくさいことが、まとめて貴恵に降り注いだ気がした。
※
「なるほど、大樹の現地妻か…やるな、あいつも」
ちょっと説明をはしょりすぎたせいか、美津子に乱暴なまとめかたをされてしまった。
とりあえず、アーシャとワンという男を部屋に上げ、家主である母親に説明を終えたところだ。
母の誤解はおいおい解くとして、次はこのマフィア関係者を何とかしなければ。
「ミスターワンは、英語が出来ますよね」
ふくれてそっぽを向いているアーシャを横目に、貴恵は英語で聞いてみた。
でなければ、日本への迎え役に選ばれない気がしたのだ。
「はい、アーシャを迎えにきました。ボスは、大変心配しています」
崩れていない教科書英語だ。
アーシャもそうだが、もともと英語圏でない人間の方が、綺麗な文法でしゃべる。
貴恵には、しゃべりやすい相手だ。
「私も、アーシャは帰った方がいいと思うけど…アーシャは、どうしたいの?」
髪型の変わったお嬢さんは、もう泣きだしたりはしないが、逆に怒ったような顔ばかり。
「帰るわ…そのうち、ね。今はまだいや。少し、時間が欲しいの」
そのふくれっつらで、アーシャは帰国を引き伸ばしたがった。
「それじゃ、ボスが納得しません」
しかし、ワンは頭が固いタイプのようで、引き下がらない。
「じゃあ、電話をパパにつないで…話をつけるから」
アーシャは、彼に電話を出せというように手を出した。
「日本に滞在するとして、ここに住むのですか? セキュリティも何もないこの家で、何かあったらどうするんですか」
電話を出さないまま、ワンは耳の痛いことを言った。
その通りのボロアパートだからだ。
「ママの島だって、セキュリティは何にもなかったわ」
「あそこは島で、島民はみな関係者でしょうが」
「日本だって島よ!」
おいおい。
乱暴な理論の展開になってきて、貴恵は止めにはいろうとした。
だが。
「そこの、にぃさん」
完全な日本語で、母親が入ってきた。
「こまかい話はわかんないが、あんたは今日は帰れ…わかんねぇか? ゴーアウェイだ」
美津子は、ワンに目を細めながら、ドアを指差した。
「母さん、一応いっとくけど、外国のヤーさんだからね」
貴恵は、補足した。
「はんっ! ヤクザが恐くて看護婦が勤まるか! こちとら、毎日スプラッタだ!」
最近、ヤクザ映画でも見たかな。
貴恵は、誰が相手でもやはり偉そうな母に、ため息をついた。
「すみません、とりあえず今日は遅いですし、また明日の夜にでもきてください」
貴恵は、母親がこれ以上暴れだす前に、出て行ってもらおうと思った。
あと一日くらいあれば、アーシャの気も変わるかもしれないし。
ワンは、母をじっと見ている。
「彼女は、ゴクドウの妻ですか?」
彼は、変な知識を口にした。
そう見えるのだろうか。
「いいえ、彼女はゴクドウの看護婦です」
貴恵は、母を複雑に紹介する羽目となった。