数%マシ
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心当たりが、ない。
貴恵に責められ、アーシャに主張されたことは、大樹の記憶にはなかった。
アイラブユーなんて言ったこともないし、彼女の部屋に泊まったこともない。
お酒も飲まなかったので、前後不覚でやらかした、ということもない。
だから、部屋の二人に状況を説明したのだ。
自分が覚えてなくて、二人が覚えていることがあるかも、と。
「あっはっはっ、そりゃいい」
笑い事ではないのだが、田島は力の限り笑い伏していた。
だが。
ツカサは、笑っていなかった。
笑おうとしているようだったが、目が泳いでいる。
「ツカサ?」
大樹は、彼の名を呼んだ。
次の瞬間。
記憶がよぎった。
『夜 来い』
その二つの単語。
『なぁなぁ大樹、――って、どういう意味だっけ』
『夜 来い? 果たし状? 明日、日本に帰るから、トラブルはだめだ』
『果たし状じゃないって、とにかくサンキュ』
――回想終了。
「ツカサ、帰国する前の晩…どこに行った?」
大樹は、慎重に聞いた。
「あ、いや、そのっ!」
後ずさろうとするツカサの腕を、田島が片手でがっちりと掴む。
「ツカサくーん…まさか、おまえ…」
前後を仲間に挟まれて、ツカサはきょろきょろした。
「だ、だって、真っ暗だったんだぜ! けど、普通すぐ気付くだろ!?」
ツカサの白状に、さすがの大樹も肩を落とした。
「あーあー、このバカたれが」
田島は、ごつんと一発ツカサにくれてやる。
しかし、事態はそんなに軽やかなものではなかった。
「えーと」
入り口に立ち尽くしていた吉岡が、口を挟んできた。
「よかったら、事情を教えてくれないかな」
と、言われても、大樹にはうまく説明ができそうになかった。
※
帰国の前の日、いろいろな雑事で忙しかった大樹は、一ヶ所にじっとしていることはなかった。
だからアーシャとは、顔を合わせた記憶がない。
ツカサが白状するには、大樹に今日中にかならず渡してと、手紙を預かったことが発端らしい。
盗み見たが、現地語で書いてあったので、分からなくて大樹に聞いてみた。
すると、夜這いのお誘いだと気付き、ツカサが忍び込んだら、部屋は真っ暗で、向こうは最後まで、大樹と間違い続けた、と。
「まさか、日本にまで来るとは思わないだろ? 最後の思い出作りかと思って…それに、どうせおまえ行かなかっただろうし」
早口で、ツカサはまくしたてる。
「大体、分かった」
話を聞いて、吉岡は苦笑している。
まさか、女性トラブルを持ちかえっている、とは思わなかったのだろう。
だが、事態はもっと深刻なのだ。
吉岡に、話せていないことがある。
アーシャは――現地マフィアのボスの娘なのだ。
聞こえはよくないが、彼らが何かとお世話になったボスの娘。
裏社会に通じ、違法な手段を使ってまで、彼らを助けてくれたボスだ。
だから三人の中では、マフィアにお世話になったことは、絶対に口外しないことにしていた。
特に大樹は、ボスに気に入られていたので、本来なら知りえない情報も持っている。
恩のために、言わないことにしていたのに。
ボスの娘が、単身来日していた。
おそらく、ボスに渡した実家の住所を、盗み見たのだろう。
ボスには、その住所には住んでいないも同然だと、説明していたので。
金があり、留学経験から英語知識とパスポートもあり――黙って出てきたに違いない。
今頃、ボスは大騒ぎだろう。
すでに誰か、日本に送ったかもしれない。
これは。
大樹は、ツカサを素通りして、田島を見た。
向こうも、同じ顔をしている。
これは――厄介なことになったぞ、と。
※
吉岡には、女性問題とだけ誤解させたまま、部屋に戻ってもらった。
明日の朝までに、アーシャをどうするか、結論を出さなければならない。
三人は、むさ苦しくも顔を突き合わせた。
「てっとり早く帰すには、真実を言うことだな」
田島の意見は、もっともだった。
後のことを考えないなら、それが一番早い。
「ちょ…っ、そんなことしたら、オレを殺しにボスが日本に来るだろ!」
ツカサが、ざざっと後ずさった。
そう、彼の言う心配が一番問題なのだ。
真実を聞いたアーシャが、傷ついて祖国へ帰り、父親に泣き付く――最悪のパターンだ。
娘を騙したツカサは、制裁を免れないだろう。
「な、大樹…お前が、相手したことにしてくれよ。それで、バンバンザイじゃん」
こういうところさえなければ、ツカサはいいヤツなのだが。
どうにも、半端なトラブルに弱い。
命がけのトラブルには、めっぽう強いくせに。
「おいおい、それじゃアーシャは国に帰らないぞ」
本末転倒な内容に、田島が反論する。
「もういいじゃん、別に日本にいたって…大樹と幸せに暮らせば、ボスだって報復にはこないさ」
ある意味、ツカサは正しい。
大樹は気に入られていたし、アーシャも自分に気があり、日本にまで追い掛けてきた。
それを受け入れたと、ボスに言えば、彼だって前向きに考えてくれるだろう。
大樹にとって、愛や恋がどうでもいいものなら――それもありだったのだ。
「ごめん、無理」
大樹は、即答した。
貴恵をあきらめるのは、とても難しいことだった。
「そんなこと言わずにーオレを助けると思って!」
都合のいい泣き付きに、大樹はため息を落とす。
算数とは違うのだ。
完璧な答えを探せなかった。
「大樹が、アーシャをちゃんとフる、というのもあるぞ」
あの夜のことは、気の迷いでした、ごめんなさい、と。
田島の言葉は、二人の意見をミックスしているように思えた。
しかし。
「まあ、報復が大樹にくるかもしれんがな…アーシャの慈悲が、どう働くか、にかかってる」
そう。
田島が追加した通り、彼女がボスに泣き付くかどうか、ツカサと比べて数%マシ、くらいの話だろう。
数%に、大樹は命を預けないといけないのか。