三ヶ月
○
ガシャーン!
やってしまった。
パーマの道具を乗せたワゴンを、足元のケーブルにつまずかせてばらまいてしまったのだ。
「す、すみません!」
客の前での大失態に、貴恵は慌ててばらまいたものを拾い集めた。
「すみませんねー、床にはパーマがかけられないって、何度行っても分からない奴で」
おしゃれヒゲチーフの言葉に、驚いていた客たちが、小さく笑い出す。
フォローしてくれたのだ。
消えてしまいたい恥ずかしさを味わいながら、貴恵はようやく片付けを終える。
「ここんとこ、気合い入ってないじゃん」
先輩らにも気付かれていることに、あちゃあと自己嫌悪を覚えた。
至って普通に振る舞っているつもりだが、どうしても出てしまうのか。
大樹が行方不明になって、もうすぐ三ヶ月。
世間は、もう夏真っ盛りだ。
短い髪の要望が増えたり、日焼けしたお客が増えたり。
確実に、季節は過ぎていくのに、大樹が髪を切りにこない。
こられないのだ。
もう、ずいぶん伸びているに違いない。
やっと、練習でスタッフの髪を切らせてもらえるようになった。
前よりも、きれいに大樹カットができるはず。
だから。
早く帰ってこいよ、何してんだ。
生きるために、賢くなると決めた大樹。
その賢さで、生き延びていることを、貴恵は信じるしかなかった。
「貴恵! ぼーっとしない!」
「はいっ!」
だから、いまできることをやって待つ。
帰ってきた大樹の、あのすだれみたいな前髪を、きれいに切ってやらなければならないのだから。
※
「いらっしゃいませー」
美容室の自動ドアが開くと、貴恵は笑顔であいさつをする。
もはや、条件反射だ。
真っ黒に日焼けしたおにーさんたちが受付にいた。
貴恵はちょうど、少し奥で掃除中で。
数人のメンズのお客が、気になりつつもほうきを動かさなければならなかった。
「チーフ、由美…それと貴恵」
受付の先輩が、担当予定に声をかける。
そう、お客の担当――ええっ!
貴恵は、きょろきょろしてしまった。
いま、自分の名前が呼ばれなかったか。
案内される男たちを、貴恵は驚きながら目で追った。
前も後ろも分からないほど真っ黒に日焼けした肌、切りがいのありそうな長めのぼさ頭。
ちゅる。
ぼさの中に、一つだけちゅる髪がある。
くせっ毛の。
「 」
頭が真っ白になった。
ぽかんと開けた口からは、その真っ白が流れだすだけで、なんの言葉にもならない。
ちゅる髪が。
一人、こっちに歩いてくるではないか。
こんな真っ黒な肌の男なんか、知り合いにいない。
こんな、しっかりした身体つきの――顎の輪郭さえも、知らない人だ。
頭の中のパーツが、かみあわずにクラッシュする。
「あ…」
自分が出した声だとは、思えなかった。
ちゅるな前髪に、隠された目。
男の、唇がゆっくりと動く。
「貴恵ちゃん…」
だ――
誰の名前を呼ぼうとしたのかすら、貴恵は分からなくなってしまった。
※
大樹が――帰ってきた。
貴恵は、その事実を簡単には受け入れられずにいる。
心の準備もなく、いきなり職場で再会してしまった。
しかも。
いま、目の前にいる男が、大樹だというのだ。
「お客さま、ご予約は」
貴恵が、口も聞けずにいるというのに、また客がやってくる。
「あ、いや私は付き添いです」
聞き覚えのある男の声。
はっとそれに我に返る。
「吉岡さん!」
驚いた声をあげてしまった。
彼は、よっと片手を上げる。
なるほど、黒幕は吉岡だったのだ。
大樹を連れ戻し、散髪ついでに連れてきたのか。
と、言うことは。
やっぱり、この色黒のくせっ毛は。
「大樹…」
ずいぶんワイルドな様相だ。
「うん、ただいま」
言葉は――どう聞いても大樹そのものだった。
た、ただいまじゃ、ねぇ。
貴恵は、がっくり肩を落とした。
三ヶ月も行方不明だったのに、なんだその旅行帰りみたいな言葉は!
貴恵の心で、怒りと突っ込みがひしめく。
しかし、それを言葉にできなかった。
口が、言うことをきかないのだ。
「貴恵、お客様を案内して!」
しかも、ここは仕事場。
彼女が、ぼーっとつっ立っていていい場所じゃない。
見れば、大樹の連れの男たちは、すでにシャンプー台に座りかけていた。
一人は、骨折しているのか、片腕を釣っている。
はっ。
「大樹、おまえ、怪我は?」
シャンプー台がふさがってしまったので、席に先に案内しながら、貴恵は小声で聞いた。
「…大丈夫」
答えに、ほーっと息をつく。
危ない目にあってはいないようだ。
目の前にいるのが大樹だと、だんだん実感してくると、話したいことや聞きたいことが、胸にせりあがってくる。
それに、どつきたかった。
貴恵が、どれだけ心配したと思っているのか。
とぼけた顔で、帰ってきやがって。
でも、いまは。
とりあえず。
「少しは腕、あがったんだぞ」
理不尽な顔のまま、貴恵は目の前の頭をかき回した。
この頭を、どうしてくれよう。
大樹は。
そんな彼女の仕打ちに、唇の端だけで微笑んだ。
いつから、こんな笑い方ができるようになったんだ!
本当に大樹なのか――また、分からなくなってしまいそうだった。
※
つか、おまえ――誰。
髪をカットしていくと、隠れていた瞳が現われる。
そこで、貴恵は更に唖然としたのだ。
なまっちろかった肌はともかく、子供の残る輪郭や表情は、そこにはない。
三ヶ月だ。
たった三ヶ月で、こんなに面変わりしてしまうほど、大変な目にあったのか。
一皮どころか、三皮ほど一気にむかれ、どこか苦みさえたたえている。
もう、貴恵の知っている、あの大樹とは違った。
年は同じだが、違う生きものになってしまったのだ。
「眼鏡…」
鏡ごしに、大樹が真っ黒の目を向ける。
「あっ?」
彼の顔を見ているので、一生懸命だった貴恵は、驚いた声をあげてしまう。
「今日…眼鏡受け取りに行っていい?」
穏やかな声。
でも、穏やかなだけじゃない深みがにじむ。
「い、いいけど、九時すぎるぞ?」
あわあわ。
なぜ、自分が慌てなければならないのか。
変わってしまっても、大樹には違いないのに。
「大丈夫、吉岡さんに送ってもらうから」
既に、話はついているのだろう。
本当は。
眼鏡は、いつも貴恵のカバンの中に入っている。
歪んだフレームも、直し済だ。
だが、それを大樹に言えなかった。
ここにあると言ったら、もう彼が来る理由がなくなるのだ。
大樹のことだから、次に来るのはまた髪が伸びてから――それまで、話ができないなんてつらすぎる。
三ヶ月間のことも気になるが、ただ、顔を見て話がしたかった。
本当に、生きてそこにいるのだと。
しっかりと、実感したかったのだ。
「終わったら、吉岡さんに電話して」
ケープの陰から伸びる手が、携帯番号の書いてある名刺を差し出した。
「う、うん、わかった」
貴恵は受け取りながら、前よりも動くようになった大樹の口を見ていた。
カットは、あと少しで仕上げ。
大樹は――昔より、もっと短い髪が似合うようになっていた。
※
「門限とか、いいのか?」
約束通り、仕事が終わって電話すると、吉岡が車で迎えにきてくれた。
他に乗っているのは、大樹だけだ。
後部座席に並んで座る。
美容室で、短く刈り上げた男と、ド金髪にしたのはどこへ行ったのだろう。
「まだ、大樹くんは会社に復帰してないから大丈夫だよ」
運転席の、吉岡は軽やかだ。
大樹の生還が、きっとうれしいのだろう。
勿論、貴恵もうれしい。
しかし、どれだけ大変な目にあったのか考えると、手放しで喜べない気がするのだ。
「でも、会社に復帰してないなら、いまどこにいるんだ?」
大樹に答えさせようと、彼の方をきちんと見た。
「いまは、吉岡さんのところ」
それは、ある意味安心だった。
貴恵は、ほっとした。
「しばらくは、事情聴取ずくめでね。今日、連れ出したのだって、相当後で小言を言われるよ」
小言だって、いまの吉岡は平気そうだ。
「さて」
車を止めた若白髪が、くるりと振り返る。
「ついたよ…つもる話もあるだろうから、帰る時に電話しなさい」
アパートの前だ。
吉岡は遠慮してくれるようで。
「すみません」
感謝しつつ、車を降りた。
見知ったボロ階段を、二人で上がる。
アパートは真っ暗だ。
母のシフト表を見忘れたが、どうやら夜勤のようだった。
カギを開けて、靴を脱いで。
「電気つける」
慣れた暗がりを歩いて、上から釣り下がる電気の紐を引いた。
振り返る。
「まあ、上がれ…お茶入れるから」
玄関にまっすぐに立つ大樹は、やっぱりどこか他人みたいで――貴恵は、どうしたらいいのか、わからなくなってしまいそうだった。