いい人と悪い人
○
「ほんっとに、肝心なとこが足りてねぇな」
大樹が、よろけながら自宅へ帰る背中を見送った後、美津子はぼやくように言った。
「こんな頭でっかちの勉強ばっかしてるからだ」
あの大樹が、読みかけの本を忘れている。
美津子が蹴飛ばす測量の本を見て、貴恵はその事実の方に驚いていた。
母の投げ掛けた言葉に、それだけ衝撃を受けた、ということである。
「今日初めて、他人の存在を自覚したって顔だったなぁ」
それを言葉にしながら、貴恵も少なからずショックを受けていた。
いままで、自分が大樹にとって、そんなに漠然とした位置付けをされていたのか、と。
「ありゃ、どっちかというと、それを自覚してなかった自分に驚いてた顔だわ」
おまえに心がないなんて、本当に思ってたわけじゃないさ。
美津子は娘の頭をくしゃくしゃにした。
彼女のショックに気付いて、慰めようとしてくれているらしい。
それが、美津子の心の動き。
人は他人の心を、言葉や動きでないと感知できない。
相手との関係や、積み重ねてきた経験で、相手の心を推察する。
そう、それはあくまで推察の域を出ないのだ。
当たっているか間違っているかなんて、聞いてみるまで分からない。
うー。
「頭痛くなってきた」
大樹にあてられたのか、貴恵さえも難しく考えすぎてオーバーヒートしそうになった。
「もっと単純に考えろよー」
測量の本を押しやりながら、美津子はあきれ声になる。
「好き、嫌い、どうでもいい」
そんだけあれば、事足りるだろ?
単純世界の女王は、偉そうにそう言い放つのだった。
※
『若造り事件』(美津子命名)から、大樹の様子が大きく変わった。
話をする時や、ご飯を食べる時に、貴恵をじーっと見るようになったのだ。
顔の筋肉のひとつひとつまで見ようとするかのように。
「みすぎ!」
そう、時々ストップをかけなければならないほどだ。
『あれが、もうちょい色気のある目ならねぇ』
貴恵ほどではないが、美津子も同じ目にあっているようで、そんな風に茶化していた。
だが、大樹が他人の心に興味を抱き、探求しようとしているのは伝わってくる。
それそのものは、悪いことではない。
しかし、原因を知らないクラスメートにまで同じようにしているのなら、さぞや大樹の変人度がアップしたと思われているだろう。
まあ、ちゃんと相手の顔を見るようになったのはいいことだよな。
極端ではあるが、貴恵はその点だけは評価していた。
いままで大樹は、本と見つめあうばかりだったのだから。
昨日、図書館の前で、野良犬と見つめあっていたのには、どうつっこんでいいか分からなかったが。
「なんか分かった?」
美津子のいない夕食の時、そう聞いてみる。
またじーっと、貴恵の顔を見ていたからだ。
大樹は、ご飯を数回噛み締めた後、ごくんと飲みこんで――箸を止めた。
どう言おうか、言葉を探している顔。
「…じぶんに得をさせてくれる人が、『いい人』。逆が『悪い人』」
とつとつとした言葉に、貴恵はずっこけそうになった。
余りに大雑把な答えだ。
「だから」
大樹は――箸を置いた。
「『いい人』も『悪い人』も、ほんとうはどっちもいないんだと思う」
なにが「だから」なのか。
途中に、たくさんの言葉をすっとばしているに違いない結論は、貴恵を面食らわせた。
が。
大樹の口から『悪い人』はいない、という言葉が出た事実を、とても重く受けとめてもいた。
大樹に、損ばかりさせている大人と、一緒に暮らしているというのに。