もっとゆっくりこいよ
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受付、案内、掃除、シャンプーの練習、顧客管理、帳簿入力、ダイレクトメールの発送、閉店後はカットの勉強会。
貴恵にとっては、ぼろぼろになるための日々だった。
なにしろ、ド素人の、ファッションとは無縁の小娘だったのだから。
最初に餌食になったのは、ほぼ手つかずだった、貴恵の髪だった。
最初の勉強会で半分切られ、次の勉強会でショートにされた挙げ句、パーマまであてられてしまったのだ。
しかし、さすがはヘアのプロ。
貴恵は、すっかり垢抜けた髪型に、ぽかんと口を開けてしまったのだ。
「髪型のだっさい美容師のとこに通いたいか?」
おしゃれヒゲの、指名ナンバーワンチーフに言われた嫌味は、見事に貴恵の胸を突き刺したのだった。
た、確かに。
貴恵の頭を仕上げたのが、そのおしゃれヒゲだ。
新しい手法も使ったらしいが、まだ彼女には何が何やら。
ほかの先輩たちは、はーほー言いながら、貴恵の髪をこねくり回した。
まだまだ、カットのカの字にも触れられないまま、重い体を引きずりながら、家路を向かうのだ。
特に今日は日曜日。
店の混み具合は半端ではなく、貴恵のぼろぼろメーターはマックスを振り切っていた。
幸い、月曜はお店が休みだ。
貴恵は、やっとゆっくり寝られる、とアパートの階段を昇っていった。
あれ。
薄暗い明かりが照らす通路。
ぼんやりと、黒い影がのびている。
貴恵の部屋の前だ。
「って、大樹か!?」
確認した瞬間、彼女は自分のぼろぼろも忘れて、黒い影に駆け寄っていた。
また背が伸びている。
でも、大樹だった。
確かに、あの大樹だったのだ。
「いつから待ってたんだ、連絡くらいしてこいよ」
話したいことは、いっぱいある。聞きたいことも、だ。
貴恵は、カギを開けながら、自分が浮かれまくっていることに気付いた。
うれしくてしょうがないのだ。
「貴恵ちゃん…」
久しぶりに呼ばれるのも、とても新鮮だ。
「なんだ?」
半音浮き上がる声で答えた貴恵は。
それからすぐ、信じられない事態に陥るのだった。
※
「信じられねぇ!」
時計を見ると九時。
貴恵は、大樹を大急ぎで部屋に引っ張り込むと座らせた。
慌てて古新聞を探してくる。
超特急で、このくせっ毛をカットしなければならなくなったのだ。
「美容院は、月曜が休みなんだよ!」
知らなくて当然なことなのに、貴恵はそれを伝え忘れていたのだ。
大樹は、美容院に行ったことはないのだから。
一方、彼の工場は、土日が休み。
大樹は、日曜なら貴恵がいると思って、やってきてしまったのである。
運の悪いことに、美津子の勤務ともタイミングが合わず、ずーっと待ちぼうけだったわけだ。
そして。
既に、大樹の寮の門限はすぎている、ときた。
電車はまだあるが、一刻も早く彼を寮へ戻さなければならない。
ゆっくり、積もる話を――なんて、無理だ。
「あーもぅ」
まだ、カットらしいものも習得できていない貴恵は、いつもの大樹カットをやるしかなかった。
シャリッ。
古新聞に、黒い房が落ちる。
もっと上手になっている予定だった。
しかし、大樹の前髪が伸びた二ヵ月なんて期間はあっという間で。
貴恵は、ただどたばたと走り回っていたにすぎない。
高卒の彼女でさえ、仕事というものに振り回されっぱなしなのだ。
大樹だって苦労しているに違いない。
「会社のこと、話せよ」
質問、ということではなく、大樹の口から思っていることを語らせたかった。
急いで髪を切らなければならない貴恵には、ゆっくり考える時間はないのだから。
「……」
しかし。
大樹に長考されても困るのだ。
「はやくーっ」
手元が狂わないように気を付けながら、大樹をせかす。
「同じ年は一人だけ…金髪」
大樹には、それが鮮やかに記憶として残ったのだろう。
いきなり、大樹と真反対の人間が出てきて、貴恵に吹き出させた。
それから、同室の頼もしそうな寮長の話。
仕事の話。
学校の――ブブーッ、時間切れ。
時計は九時半、カット終了。
うー。
あまりにも、短すぎる時間。
本当はまだ、引き止めて話をしたい。
でも。
約束通りに、一回目、来てくれた。
次も、また次もあるということだ。
早く帰さなければ、大樹が叱られてしまう。
「今度は…もっとゆっくりこいよ」
元気そうでよかった。
仕事の話も、少し聞けたし。
離しがたい気持ちを、貴恵は強い力で我慢したのだ。
ああ。
私は、こんなに大樹に会いたかったのか、と。