表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/127

もっとゆっくりこいよ

 受付、案内、掃除、シャンプーの練習、顧客管理、帳簿入力、ダイレクトメールの発送、閉店後はカットの勉強会。


 貴恵にとっては、ぼろぼろになるための日々だった。


 なにしろ、ド素人の、ファッションとは無縁の小娘だったのだから。


 最初に餌食になったのは、ほぼ手つかずだった、貴恵の髪だった。


 最初の勉強会で半分切られ、次の勉強会でショートにされた挙げ句、パーマまであてられてしまったのだ。


 しかし、さすがはヘアのプロ。


 貴恵は、すっかり垢抜けた髪型に、ぽかんと口を開けてしまったのだ。


「髪型のだっさい美容師のとこに通いたいか?」


 おしゃれヒゲの、指名ナンバーワンチーフに言われた嫌味は、見事に貴恵の胸を突き刺したのだった。


 た、確かに。


 貴恵の頭を仕上げたのが、そのおしゃれヒゲだ。


 新しい手法も使ったらしいが、まだ彼女には何が何やら。


 ほかの先輩たちは、はーほー言いながら、貴恵の髪をこねくり回した。


 まだまだ、カットのカの字にも触れられないまま、重い体を引きずりながら、家路を向かうのだ。


 特に今日は日曜日。


 店の混み具合は半端ではなく、貴恵のぼろぼろメーターはマックスを振り切っていた。


 幸い、月曜はお店が休みだ。


 貴恵は、やっとゆっくり寝られる、とアパートの階段を昇っていった。


 あれ。


 薄暗い明かりが照らす通路。


 ぼんやりと、黒い影がのびている。


 貴恵の部屋の前だ。


「って、大樹か!?」


 確認した瞬間、彼女は自分のぼろぼろも忘れて、黒い影に駆け寄っていた。


 また背が伸びている。


 でも、大樹だった。


 確かに、あの大樹だったのだ。


「いつから待ってたんだ、連絡くらいしてこいよ」


 話したいことは、いっぱいある。聞きたいことも、だ。


 貴恵は、カギを開けながら、自分が浮かれまくっていることに気付いた。


 うれしくてしょうがないのだ。


「貴恵ちゃん…」


 久しぶりに呼ばれるのも、とても新鮮だ。


「なんだ?」


 半音浮き上がる声で答えた貴恵は。


 それからすぐ、信じられない事態に陥るのだった。


 ※


「信じられねぇ!」


 時計を見ると九時。


 貴恵は、大樹を大急ぎで部屋に引っ張り込むと座らせた。


 慌てて古新聞を探してくる。


 超特急で、このくせっ毛をカットしなければならなくなったのだ。


「美容院は、月曜が休みなんだよ!」


 知らなくて当然なことなのに、貴恵はそれを伝え忘れていたのだ。


 大樹は、美容院に行ったことはないのだから。


 一方、彼の工場は、土日が休み。


 大樹は、日曜なら貴恵がいると思って、やってきてしまったのである。


 運の悪いことに、美津子の勤務ともタイミングが合わず、ずーっと待ちぼうけだったわけだ。


 そして。


 既に、大樹の寮の門限はすぎている、ときた。


 電車はまだあるが、一刻も早く彼を寮へ戻さなければならない。


 ゆっくり、積もる話を――なんて、無理だ。


「あーもぅ」


 まだ、カットらしいものも習得できていない貴恵は、いつもの大樹カットをやるしかなかった。


 シャリッ。


 古新聞に、黒い房が落ちる。


 もっと上手になっている予定だった。


 しかし、大樹の前髪が伸びた二ヵ月なんて期間はあっという間で。


 貴恵は、ただどたばたと走り回っていたにすぎない。


 高卒の彼女でさえ、仕事というものに振り回されっぱなしなのだ。


 大樹だって苦労しているに違いない。


「会社のこと、話せよ」


 質問、ということではなく、大樹の口から思っていることを語らせたかった。


 急いで髪を切らなければならない貴恵には、ゆっくり考える時間はないのだから。


「……」


 しかし。


 大樹に長考されても困るのだ。


「はやくーっ」


 手元が狂わないように気を付けながら、大樹をせかす。


「同じ年は一人だけ…金髪」


 大樹には、それが鮮やかに記憶として残ったのだろう。


 いきなり、大樹と真反対の人間が出てきて、貴恵に吹き出させた。


 それから、同室の頼もしそうな寮長の話。


 仕事の話。


 学校の――ブブーッ、時間切れ。


 時計は九時半、カット終了。


 うー。


 あまりにも、短すぎる時間。


 本当はまだ、引き止めて話をしたい。


 でも。


 約束通りに、一回目、来てくれた。


 次も、また次もあるということだ。


 早く帰さなければ、大樹が叱られてしまう。


「今度は…もっとゆっくりこいよ」


 元気そうでよかった。


 仕事の話も、少し聞けたし。


 離しがたい気持ちを、貴恵は強い力で我慢したのだ。


 ああ。


 私は、こんなに大樹に会いたかったのか、と。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ