貴恵ちゃん
○
二人がアパートの部屋に帰ったら、母親は笑いながらつっぷしていた。
さっきの貴恵の怒鳴り声を聞いていたに違いない。
結局。
納得できなかった貴恵が、もう一度大樹に詰め寄り、答えさせることで決着した。
貴恵にしてみれば、怒り損だ。
しかし、大樹の長考癖も知ってはいたのだから、即断は避けるべきだった。
とどのつまり。
貴恵も大樹も、卒業後の関係を大きいものと捕らえていたための行き違い――それで、ようやく貴恵はすっきりしたのだ。
「ひっでえ顔」
娘の涙混じりの仏頂面は、更に美津子の笑いを誘ったらしい。
足をじたばたしてまで笑うか。
貴恵は、ぷいとそっぽを向きながら、これみよがしに音を立てて鼻をかんでやった。
そんないやがらせも、美津子には笑いの種でしかなかったようで。
「あっはっは、だめだこの娘…大樹の前でもそれかよ!」
「おかーさんだって、やるでしょ!」
「おばさんにはもう、恥じらいとか関係ないもんねー」
屁だってこいちゃうよー。
美津子はにやにや笑っている。
「サイテー!」
貴恵は、鼻をこすりながらふくれあがる。
大樹は。
そんな二人に、少し笑っているような唇になった。
※
うう。
三月。
大樹の卒業式も無事終わり、寮への荷物の宅配も終わり。
ついに、彼が入寮する日がきた。
ここまで、いうべきことは言ったし、ぶつかるべきところはぶつかったから、あとは見送るだけ。
分かってはいるが、貴恵は落ち着かなかった。
美津子は勤務の関係で見送れないから、余計に彼女を心細くさせる。
知り合ってから6年。
もう、いない生活が考えられないのだ。
明日から、どれだけ自分は、大樹のいない瞬間を噛み締めるのだろう。
容易に想像がついて、いつもの自分らしくなく、おたついてしまう。
いくなよー、と貴恵の方が、子供のようなことを言い出しそうなほどだ。
たかが隣の市――大丈夫。
そう、何度も自分に言い聞かせた。
「なぁ、大樹」
最後の朝ご飯の時。
貴恵の呼び掛けに、大樹が顔を向ける。
「前髪が邪魔になる頃には顔出せよ。切ってやっから」
な?
少しは腕、あげとくから。
なんだか、自分がみっともないほど必死になっているのに気付く。
最近、大樹にはこんなところばかりみせているから、変に思われているかもしれない。
自分でも、コントロールしがたい感情。
今回は。
大樹はちゃんと反応した。
貴恵を見て、少し止まって。
そのまま、じーっと見て。
「うん…貴恵ちゃん」
いままでで、一番深い名前の呼ばれ方に感じた。
声が、ほんの少しだけ――にじんでいたから。