女難
○
「ちょっとぉ! いるんでしょ?」
どんどんと叩かれるアパートのドアに、貴恵は追い立てられた。
夜の10時だぞー。
不作法な来訪に、貴恵はスェット上下という状態で、はいはいとドアを開ける。
えっ、と。
女性の声なので、つい不用心に開けてしまったが、そこには見知らぬ女が立っていた。
披露宴帰りかと思うような、派手な原色のスーツに、くりんくりんの髪。と気合いメイク。
「ど、どちらさまで?」
面食らった貴恵に、いかにも不機嫌な顔の女。
「こっちにいるんでしょ、ちぃママの息子」
さっさと出しなさいよ。
尖らせる唇は気持ち悪いほど光っている。
ちぃママときたか。
なんとなく理解できて、貴恵は部屋を振り返った。
「大樹ー、お母さんのお客みたいよー」
そう呼び掛けるまでもなく、玄関の大騒ぎに、すでに大樹はこっちへ向かっていた。
「へぇ、あんま似てないんだ」
大樹の顔を覗き込む女に、彼は顔をそらす。
その気持ちは、とてもよく分かる。
「あーそうそう、家あけてよ。ちぃママ携帯忘れたから、私が取りにきたのよ」
早くお店、戻らないと。
女は強引に大樹の腕をひっつかむと、隣の部屋へと連れ出した。
早く早くとせかされ、大樹がポケットからカギを出し開けているのが見える。
大樹の家には固定電話はないので、誰かが取りにくるしかなかったのだろう。
なくてよかった。
もし電話があったなら、大樹に持って来いという話になったかもしれないからだ。
ふん、と貴恵はドアを閉めて部屋へ戻った。
そこには、大樹の読んでいた本が、違うページにめくれそうになりながらも踏みとどまっていた。
「測量の本、かよ。あいかわらず、読むのは節操ないなあ」
ページを指でおさえて、貴恵はしおりになりそうなものを探した。
新聞の切れ端を挟んでやる。
もう、貴恵の頭では、大樹に勉強は教えることは出来なくなった。
彼女のお古の教科書さえも、奴はぼろぼろにするくらい読んでしまったし、それに関連する本で、さらに知識を深めていくからだ。
測量の本だって、三角関数絡みから読み始めたに違いない。
数学教師が、そんな話を授業でしていたのを、うっすら貴恵は覚えていたのだ。
壁ごしに、あの女がきゃいきゃい言ってるのが聞こえる。
安アパートだから、大きな音は筒抜けだ。
あ。
隣の物音なんかに聞き耳を立てるのは久しぶりだったが、それで貴恵の記憶もよみがえった。
隣の家から聞こえる声はいつも大樹の母親のものだけで、一度も大樹の声を聞いたことはなかったのだ。
そんな、物寂しい記憶にひたりかけた時。
きゃいきゃい女の声がやんだ。
終わったかな?
と、思った直後。
ドターン、という何かのひっくり返る音。
何事!?
貴恵が慌てて外へ出ようとしたら、逆に大樹が飛び込んできた。
青い顔。
「ど、どしたの?」
いつにない大樹の様子に、貴恵は理由を問いただそうとした。
が。
聞かなくても、すぐに分かった。
大樹の唇の端は――べっとりと赤いもので汚されていたのだ。
※
「いったーい、なにすんのよ!」
大樹の家から聞こえてくる声に貴恵はすべて理解した。
あの披露宴帰りみたいな女が、大樹にちょっかいを出した挙げ句、突き飛ばされでもしたのだ。
あーもう。
見知らぬケバいねーさんに、いきなり唇を奪われたに違いない。
それはもう、びっくりしただろう。
中二ともなれば、いまのご時世、普通に恋愛にうつつを抜かしてもおかしくはないが、何しろこの大樹だ。
勉強に忙しくて、それどころではないだろう。
「えーと」
しかし、貴恵とてこんなパターンは初めてだ。
どうフォローしたらよいものか、言葉が探せない。
変なトラウマにならなければいいけど。
ただでさえ、大樹は母親というトラウマを持っているのだ。
そこにまた女難が加わると、女嫌いになりかねなかった。
「さーいーあーくーもぅ」
きゃいきゃい女は、聞こえよがしの嫌味を言いながら、貴恵の部屋の前を通り過ぎ、そして去って行く。
こっちの家に顔を出すんじゃないかと、貴恵は気が気ではなかった。
その間、大樹はまだ玄関にへたりこんでいて。
貴恵との間に、なんとも言えないにがーい空気が流れる。
とにかく、何かしゃべって大樹を元に戻そう!
貴恵がそう決意した時。
「なんだ、今のうっさい若造り」
騒音とすれ違いになるように、玄関のドアが開いた。
ジーンズにスニーカーの足。
あちこち向いてるざんばらの髪が、帽子からはみ出している女。
「おかーさん!」
仕事から帰宅した貴恵の母だった。
「ん?」
その母は、足元に落ちている邪魔な物体に目をやっている。
「なんだ、大樹か…って、おまっ! なんだその顔!」
うはははははは。
大樹の問題の顔を見るや、思い切り大声で笑いはじめるではないか。
おかーさん。
彼女は――貴恵くらいの年令では触れにくい、非常にナイーブな問題を、見事にざっくりえぐったのだった。
※
「いっやー、わっるいわっるい」
絶対、悪いと思ってない笑い顔で、貴恵の母――美津子は、ばんばんと大樹の背中を叩いた。
「大樹と口紅って組み合わせが、あまりにありえなくてねぇ」
美津子は帽子を取り、くしゃくしゃの自分の髪をさらにくしゃくしゃにする。
病院では、綺麗にひっつめている髪も、といてしまえばこの有様だ。
「だがしかし青少年!」
ようやく口紅を拭いている大樹に、彼女は大げさな声をあげた。
「それもまた勉強だ! よかったなー、貴重な体験だぞ」
はっはっはっ。
軽やかに笑う母親に、貴恵はあきれつつもほっとしていた。
これだけあからさまに笑い話にされると、大樹だってたいしたことではないと思うのではないか。
そう期待したのだ。
七秒の間の後。
「べんきょう?」
しかし、大樹の反応した部分はかなりずれていた。
大人の勝手な言い分を間に受けてしまったのか。
「おーそうよ、心理学って世界よ。なんであのねーちゃんが、大樹にそんなことをしたか」
美津子もまた調子がいいものだから、適当な理屈をつけだす。
「心理学…」
つぶやきながら、大樹は考えこんでしまった。
「そーそー、あんな頭のかるそうなねーちゃんでも、人間なんだ、心はある。心がそいつに行動を起こさせるんだからな」
腕組みをして、美津子は自分の説明にしたり顔で頷いている。
「おかーさん、適当すぎー」
さすがにそろそろ止めようと、貴恵は口を挟んだ。
「なにが適当だー。大事なことだぞ」
心外な。
なにをどうしゃべっても、母の言葉は偉そうに聞こえた。
これで白衣の天使なのだから、患者さんは大変だろう。
はいはい、と貴恵が受け流そうとした時。
「じゃあ…」
ぽつり、と大樹が口を開いた。
じゃあ?
何を言いだすのかと、母娘ふたりで彼を注目する。
だが、一分待っても大樹は続きを言わなかった。
一人で思考の海に沈みこんでしまった顔。
「言いかけてやめんなー!」
そんな海などおかまいなく――短気な美津子は、スパパーンと青少年の頭をはたいたのだった。