子の衝撃・母の衝撃
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ぐわん。
そんな音と共に、世界はぐにゃりと歪んだ。
自分が誰かとか、そういう基本知識が抜けおち、薄闇の周囲を真っ暗に感じた。
なんで、そうなったかも思い出せない。
胸に大きな衝撃が走って、視界が戻るまで、一体どのくらい時間がたったのだろうか。
異常な息苦しさに襲われ、大樹は息を吐き散らした。
あっ、あっ。
胃の辺りにあった、巨大な恐怖も、一緒に吐いてしまいたかった。
貴恵は、いる。
青ざめた顔で、目の前にいる。
彼女はそこにいるし、大樹を拒絶なんてしていない。
その事実を、彼は必死に心で言い聞かせた。
何度も何度も繰り返す。
貴恵は――そこにいる。
「違うから、大樹。おまえが悪いんじゃない」
腕が、ぎゅっと掴まれた。
痛いくらいに。
それさえ今の大樹には、彼女が存在する証拠でしかない。
「吉岡さんが、私より大樹の事を知ってて、お前が吉岡さんのことを好きだから」
大樹を、この世界にとどめようとする、悲痛な声。
「だから、嫉妬しただけなんだ…」
ああ、大丈夫。
大丈夫だから、そんな泣きそうな顔、しないで。
見えすぎるようになった視界いっぱいで、貴恵が苦しそうな顔をしている。
嫉妬とは、そんなにやるせなく、苦しいものなのか。
大樹の、まだ知らない感情。
「だい…じょうぶ?」
しがみつく手に、大樹はゆっくり触れる。
自分も貴恵も、手が冷たかった。
でも、何故だろう。
重ねただけのその手を――離したくなかった。
※
朝起きて、最初に眼鏡をかける。
新しい大樹の日課。
もうすぐ終わる新聞配達のバイト中――空を見上げる楽しみを覚えた。
ちゃんと夜空には星があり、星座を形づくっている。
天文の本で見た通りだ。
冬で夜明けが遅いから、大樹にはちょうどよかった。
いままで味わえなかった世界を存分に体感できる。
毎朝会う、ウォーキング中の老夫婦の顔をしっかり見たのも、眼鏡をかけてから。
あんな顔をしてたのか。
前よりももっとちゃんと、人の識別ができるようになった。
眼鏡が出来て、いろいろ変わった気がする。
貴恵も、同級生も――母も。
眼鏡をかけて、母と鉢合わせた瞬間。
大樹が固まるより先に、母が固まったのだ。
「こうい…ち」
呆然と、呟かれた名前は、誰だったのか。
すぐに我に返った母は、自分から逃げ去り、大樹に疑問だけを残した。
この眼鏡に、母を逃げ出させる力があったことに驚いたが。
「おかえり!」
新聞配達を終えて貴恵の家に戻ると、眼鏡ごしの貴恵は、やっぱりピカピカ輝いていた。
レンズの映し方だけで、こんなにも違うものなのか。
「おは…よう」
眼鏡のおかげで――大樹も少し変わった気がした。