アメーバの涙
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毎朝、目覚ましが鳴る音で、ほっとして目がさめる。
午前四時半。
目覚ましを止めた手を支えに、大樹はむくりと体を起こした。
五月の朝は、まだ肌寒く、彼の体を小さく震わせる。
なんか、夢みた。
着替えながら、大樹はそれを思い出していた。
多分、いつも見るあの夢。
アメーバとすごす夢。
靴に片足を突っ込む頃に、時間に正しい新聞配達センターのバイクの音が聞こえてくる。
大樹の配達担当分をアパートの前に置いていってくれるのだ。
彼は、誰もいない部屋を出た。
母親はまだ帰ってきていない。
大体、新聞配達中に帰っているようだが、酔っているのですぐ寝てしまう。
久しぶりに昨日、しらふの母親を見たくらいだ。
ああ、だからか。
新聞を抱え、大樹は歩き出した。
だから、自分はアメーバの夢を見たのだ、と。
春の朝の空は紫。
星はもうほとんど見えない。
空にはたくさんの星があることを学んだが、大樹の目は良くなく、そして眼鏡を買うことは出来なかった。
クラスの席は、いつも一番前の真ん中。
どんなに席替えがあってもクラスメートは喜んで席を譲ってくれる。
大樹のあだ名は『アメーバ』
小学校の時の先生への質問が原因だろう。
『アメーバはなきますか?』
小さい小さい生きものの世界の話。
たった一つの細胞でできているそれ。
『どうだろうなー先生は鳴かないと思うぞ』
大樹の後ろの方で、同級生が、ケロケロッとカエルの鳴き真似をした。
大樹は口を閉じた。
そっちの『なく』じゃない。
夢の中のアメーバは、体を涙の形にちぎるようにして泣くのだ。
大樹は、アメーバが涙をちぎる度に小さくなっていくものだから、涙を集めてアメーバの体に戻そうとする。
そんな堂々巡りの夢。
母親の前では、大樹は自分が、とても小さく感じてしょうがなかった。
自分の命さえ、とてもとても小さく感じる。
母親に会うと、よく夢にアメーバが出てくるのは、その小さい自分の代理人だからだろうか。
足早に新聞を配る。
貴恵に、『おまえにしちゃ上出来か』と言われた早足。
走り続けて配達するほどの体力もなく、自転車もない大樹の、精一杯の足。
体が大きくなって体力もついてきて、配達も随分楽になった。
早足の配達は、それでも毎日六時前には終わる。
最後の新聞を一つ持って、大樹はアパートの隣の部屋の前に行く。
カギは開けてある。
ガチャ。
「おー今日もお勤めごくろーさん!」
すぐ横の台所から、首がひょいと伸ばされる。
アメーバの、ささやかな幸福の瞬間――
※
「おーい、アメーバ!」
教室につくなり、クラスの男子が大樹の背中をどついた。
「昨日の英語の宿題、見せてくれよ!」
そう言われて、大樹は宿題の存在を思い出す。
昨日の夜は、本を読んでいたら、いつの間にか寝る時間だったのだ。
「わすれた、まって」
大樹は自分の席につくと、カバンからプリントをひっぱりだした。
英訳と英文作成の内容だ。
カリカリと、研いでくるのも忘れた鉛筆で書き込む。
「はい」
書きあがったプリントを差し出す。
「さっすが、アメーバ! 頼りになるぜ」
調子のいいおべっかと共に、プリントがひったくられる。
「ちょっとー、自分でちゃんとやりなさいよー」
真面目な女子の言葉にあっかんべーをする男子。
それを尻目に、大樹はカバンから図書館のシールの貼ってある本を取り出した。
「なに読んでるの?」
頭の後ろから女子の声。
「いろいろ」
大樹のカバンの中は混沌としている。
学校の図書館に市の図書館の本、貴恵にお古でもらった高校の教科書。
理解できる言葉で書かれているものなら、大樹は何でも読む。
英語も、しゃべる機会はないが、文字の上なら理解できるようになってきた。
知識は、いつも最初の一歩目で詰まる。
その知識の基本理論の入り口だ。
たとえば、時計の見方。
小学校低学年で習うそれは、実は高度なものだ。
12進法と60進法の入り交じる円盤の数字を、人は訓練により読み解くことができるようになる。
大樹にとっての数学のXやY、英語、化学式。
どれも、時計の訓練のようなものだった。
昨日まではまったく意識にもなかった知識が、系統立てされて血肉としておさまる。
その、心地よさ。
そして、もっと知りたいという渇望と焦り。
いつだって、時間が足りていない気がしてしょうがなかった。
見た目がぼーっとしているので誤解されやすいが、大樹は焦っていたのだ。
世界の知識はあふれかえっていて、きっとまだ彼はその1%にも触れていない。
知られていないことも、まだ天文学的にあるはずだ。
時間がない、時間がない。
心の中の時計が60進法でどんどんすすんでいく。
同級生らを見ていると、とても不思議に思えてならなかった。
何故、彼らはのんびりできるのだろう、と。
人生は、せいぜい80年ほどしかないというのに。
歴史の中では、米粒ほどの時間なのに。
それに。
理不尽に、いきなり終わってしまう命もあるのだ。
母親が最後まで本気だったなら、大樹は死んでいただろう、という場面がこれまでに三度はあった。
自分の命が、いつ終わるか分からないと気付いてから、大樹はそれから逃げ回るように知識の世界に飛び込んだ。
どこかに、生き延びるための方法があるのではないかと、がむしゃらに手を伸ばしたのだ。
人になんと思われようと構わなかった。
大樹は生きたかったのだ。
そのまま、彼は知識そのものの魅力に取りつかれてしまった。
「ほい、ありがとよ」
プリントを返された時、はっと大樹は本から顔を上げた。
「こんだけ勉強できたらいーよな、高校受験もラクショーじゃん」
読んでいる本に顔を近付けた後、男子はいやそうに顔をしかめる。
「そうでもない」
大樹の答えの本当の意味は、彼には伝わらなかっただろう。
アメーバの時と同じだ。