ケーキと毒と
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漠然とは、自分の未来は決まっていた。
大樹は、心の片隅にある決意を、ずっと抱いていたのだ。
できるだけ早く、母親の元を去ろう、と。
彼女の存在については、大樹は観察できずにいる。
何をどう考え、自分をどう思っているのか――考える前に思考が止まってしまうのだ。
多分、心にあるのは恐怖。
母親の生活の邪魔をしようものなら、命の危険さえあるのだと、いつの頃に植え付けられたかも分からない恐怖。
だから、大樹は家の中では空気のように静かに生きた。
それが、弱く小さかった彼が生き延びる方法だったのだ。
だから、家を出て働くことで、母親の存在から切り離されたかった。
そうれば、理不尽な恐怖や身の危険から解放されるのだ。
「そうか、働くのか」
謎の男、吉岡は残念そうな声を出した。
同情ではなく、本当に残念に思ってくれているようだ。
ここで、普通は親の話を振るはずなのに。
親は高校に行かせてくれないのか、と。
だから、大樹は思った。
既に、吉岡は彼の家庭環境を知っているのではないか、と。
この住所まで探せる人なのだ。それくらいは、簡単なのかもしれない。
「まぁ、学歴だけが人生じゃないさ、仕事しながらだって勉強はでき……あっ」
言い掛けた吉岡が、途中で言葉を止めた。
ぱっと大樹を見る。
「あるよ、大樹くん!」
その目は、妙な晴れやかで輝いていた。
「夜間高校も夜間大学もあるじゃないか! それなら、働きながら勉強できるし、自分で授業料も払える!」
世間にもまれている大人の知識は侮れない。
頭でっかちの子供に、光を与えることもあるのだ。
そして、同時に確信もした。
この人は、大樹と母親の関係を知っている。
アメーバの自分を――
※
ぽむぽむ。
吉岡が帰った後、大樹は自分の頭に手をおかれたのに気付いた。
見上げると、そこには貴恵が立っていて――その顔は、とても晴れやかだ。
「よくやった、でかした」
唐突で意味不明で、でも物凄く嬉しそうで。
そのまま、上から髪をくしゃくしゃにされる。
「いい仕事と、いい学校探そうなー♪」
ああ。
貴恵は、吉岡が口にした進路に喜んでいたのか。
確かに斬新で、よい提案だった。
大樹も、おそらくその道を選択するだろう。
しかし。
いま、大樹の胸に流れ込んできたのは、もっと違う感情だった。
よかった。
大樹は、貴恵との間の微妙な距離が消えた事実の方が、よほど嬉しかったのだ。
吉岡の語る肩書きには、いまだ疑問が残ってはいるが、彼の言葉が貴恵の中のしこりを消してくれたのだろう。
その点だけは、彼に感謝した。
ただ。
同時に恐れも覚える。
わずかの距離で発生したストレスさえ、大樹にはつらいものだった。
じゃあ、いつか。
いつか、貴恵が遠くに行ってしまったら、自分はどうなるのだろう、と。
ここにある、確かにある、『それ』を失ってしまったら――
大樹には、たくさんのものはない。
だからこそ、近くにあるものはすべてかけがえのないものなのだ。
それを、どう大事にしたらいいのか、まだ彼にはよく分かっていなかった。
「あ、ケーキ! もらったケーキ開けてなかったね、食べようか」
すっかりお祝いモードと化した貴恵の軽い足取り。
大樹は、というと。
ケーキを一つ余計にあげるくらいしか、彼女をつなぎとめる方法を思いつけなかった。
※
「はじめまして」
会った瞬間から、薬品の残り香がした。
大樹は、それに何故かほっとする。
吉岡の紹介だったので、多少の不安を覚えていたのだ。
あれから――吉岡が家にきてから、たまに彼に会うようになっていた。
と、言っても、向こうが暇そうな時に、公園にいるだけなのだが。
大樹が、何度か化学式について質問をしたせいか、ついに彼は専門家を紹介すると言った。
眼鏡の男は、公園のベンチで待っていて、小野と名乗った。
いま白衣を着ていないことに違和感に覚えるほど、科学者畑の人間に見える。
「こんにちは」
大樹が相手を見るように、向こうも自分を見ている。
お互いに興味を持っているのが感じられた。
「あの化学式、まだ覚えてるかい?」
切り出した小野に、大樹は木の枝を拾う。
あの時と同じように、彼は地面に蜂の巣のような化学式を書き始めた。
「話には聞いていたが、お見事。記憶しただけの書き方じゃないのも驚きだ」
小野は、大樹の手から枝をもらいながら、感嘆の声をあげる。
「これはね、実はこの通りに作ると、ただの塩水になるんだよ」
大樹の書いた線をなぞるように、小野は枝を動かした。
言葉はショッキングなもので。
ただの塩水を作るだけなら、あまりに大げさすぎる化学式。
確かにナトリウムは入っているが。
「ただね」
枝の先が、いくつかの元素記号を飛びながら差す。
「塩水は単なる残り物で、それができる前に…よろしくない気体を吐き出す」
小野は曖昧な表現をした。
仕事上言えないのか、はたまた言いたくないのか。
「これがもし悪いことに使われるとね、非常に凶悪で、なおかつ原因が分かりづらいものになるんだ」
小野の続きに、彼は意味を推察できた。
おそらく、毒のようなものを出し、人に害があるのだろう。
しかし、後に残るのは塩水だけ。
毒が体から検知しづらいタイプなら、害した方法を見つけられないかもしれない。
「わかりました」
小野が、自分で答えられる範囲を答えてくれたことに気付き、大樹は納得することにした。
誠意は十分に感じられたのだ。
「作ってみたいと思う?」
地面の化学式を枝で消しながら、ちらりと小野に盗み見られた。
瞬間の表情を探るような目。
大樹は足で、一つの元素を消した。
「わかりません」
そんな不確定な答えに――どうして小野は、にやっと笑ったのだろうか。