いい人になれなかった
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貴恵の質問に、ちゃんと答えられなかった。
その事実は、大樹に初めての感覚を抱かせる。
迷いとか、罪悪感とか、漠然とした不安とか。
あの化学式は、きっと何かのトラブルの種――大樹はそう認識していた。
貴恵に話すと、心配をかけそうだったし、彼女を巻き込むことになるのではないかと感じたのだ。
だから、何でもない、で済ませたいと思った。
だが。
貴恵は、一瞬惚けた後、分かりやすいショックを受けた顔に陥ったのだ。
見慣れない彼女の表情は、大樹の心をざわめかせた。
彼女が、これから自分に恐いことを言うのではないかと――何故か、そんな恐れを抱いたのである。
「そ、そうだよな」
貴恵は、はっとショックな自分を振り切るような声を出した。
「大樹にだって、言えないことのひとつやふたつあるよな」
恐い言葉なんて、そこにはなかった。
ただ、大樹の態度を理解しようとするやさしい言葉があるだけだ。
なのに、まだ胸はざわめいている。
どう対応したらいいのか、いきなり分からなくなってしまった。
「……」
ただ、黙り込むしかできない。
何かを口にすると、恐いものが本当に近づいてきそうに感じたのた。
いい人は作れると学習したのに、大樹は貴恵のいい人になれなかったのだった。