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ガール ミーツ ボーイ

挿絵(By みてみん)

(Illustration by ROM)


「ここ教えて」


 アパートの隣の家のチビが初めて貴恵を呼び止めたのは、彼女が中学一年の春。


 どっちが前だか分からないほど伸びた前髪と、やせこけた体。


 えっと。


 貴恵は、チビの名前を思い出そうとした。


 小学生の頃は、登校時間が同じなので、おはよーと挨拶をすることはあったが、みっつも学年が違うし、向こうが自分から話しかける子ではなかったので、ほとんど会話を交わしたことがなかったのだ。


「何だぁ?」


 しばらく考えたが名前は思い出せず、その事実をばつが悪く感じながら、チビが差し出す本を覗き込んだ。


 こ、これは!


 貴恵は、恐れおののいた。


 チビが差し出した本は、ぼろぼろで、汚い落書もあるが、まごうことなく教科書であった。


 しかも、数学の。


 そう、数学の!


 貴恵は、本をひったくって表紙を見た。


 中学一年の数学の教科書に間違いない。


 なんで、こんなものを。


 チビを見る。


 相変わらず、すだれのような前髪が目を隠してしまっているために、表情は分からない。


「ここ」


 汚れた指先が、貴恵の手にある本を差す。


 彼女も習い始めたばかりのXやYの代数の世界。


 小学四年生には見えない頼りない細い指がその世界を指差す。


 溢れる熱意もなく、貴恵をからかうでもなく、ただ淡々と。


 その姿に、貴恵は衝撃を受けていた。


 とても痛々しく思えたのだ。


 中学一年の自分にあるかは分からないが、母性に近い感覚を刺された気分だった。


 この瞬間の感情を、貴恵はきっと忘れない。


「…う、うちにこい」


 突然襲ってきた泣きたい気持ちを、貴恵はぐっとこらえてそう言った。


 教科書を指差したままのチビは、彼女の言葉にはすぐには反応しない。

 止まったままだ。


「ちゃんと教えるから、うちにこいって!」


 じわっとくる何かを振り切るために、貴恵はいつもより口が悪くなりながら、チビの手首を引っ張った。


 抵抗もなく引っ張られる意識の薄い体。



 チビの名前は――大樹。


 隣の家の表札の、消えかかっていた名前で知った。


 ※


「貴恵ーっ!今日、委員会でしょ?」


 担任の話が終わるやいなや、教室から飛び出そうとする貴恵に、級友が呼び掛ける。


 彼女のマッハ帰宅はクラスでも有名で、早めに釘を刺しておかないと逃げられるとバレているのだ。


「うげっ、今日だっけ?」


 教室のドアの前で、空回りする足で足踏みをしながら、貴恵はこの世の終わりの気分を味わわされる。


 放課後に予定が入るのはいつも苦痛だった。


 中学の時と違い、高校のなんとか委員の仕事は微妙に多く、こんなことなら安請け合いするんじゃなかったと後悔したほどだ。


 貴恵の引き受けた体育委員は、クラスの体育の備品管理に体育祭、果ては球技大会、マラソン大会まで駆り出されるため、行事が絡むと大忙しだった。


 一年の時に大変な思いをしたので、二年になったら絶対逃げようと思ったのに、推薦と多数決の波に飲まれてこの有様だ。


 うー。


 しかし、放り出せる性格でもなく、結局委員会に顔を出すこととなる。


 お、遅くなった!


 時計を見ると四時すぎ。


 貴恵は、ブレザーのスカートをはためかせながら、学校の門を飛び出した。


 目指すは駅前。


 スーパーの前を横切り、駅の構内を突っ切って、駅の反対側へ出る。


 斜め前の大きな建物。

 それが、貴恵の目的の場所。


 市立図書館。


 その入り口の前まできて、やっと彼女は足を止めた。


 ぜーはー。


 乱れる息を整えながら、走ったせいで重い足を踏み出す。


 一般図書室の重いドアに手をかけ、ぐいと引っ張る。


 瞬間、湿度管理された室内から、本が持つ、独特の匂いが鼻をくすぐった。


 司書の女性がちらりとこちらを見て、ああ、という唇の動きをした。


 そんな司書の視線が、すうっと中の方へ注がれる。


 貴恵も、その動きに引っ張られた。


 西日の入る窓際。


 ブ厚い本に、顔を突っ込むようにして読んでいる跳ねっ毛の頭。


 ふむ。


 いつもと変わりない様子にうなずきながら、貴恵は目の前の席に腰を下ろした。


 カバンからノートと教科書を引っ張りだし、彼女は宿題を始めた。


 司書がやってきて、にこりと笑みながら西日をさえぎるブラインドを下ろす。

 その音にさえ、跳ねっ毛は反応せず、ただページをめくり続ける。


 さて。


 宿題が一段落した貴恵は、時計を確認すると、そのノートをくるくるっと丸めた。


 ぱこんっ。


 跳ねっ毛の頭めがけて、軽く一撃。


 はっ!


 真っ黒な頭が、やっと本から離れてこっちを見る。


「かえんべ、大樹」


 前髪に隠れかけた目が、自分を映しているのを確認しながら、貴恵はにんまりと笑いかけた。


 ※


「スーパー寄ってくぞ」


 放っておくと、考え事から戻らない意識を現世に引き止めるために、貴恵は隣の学制服を引っ張った。


 夕方のスーパーは人気が多く、その中をぼんやり歩けはしない。


 ましてや貴恵の荷物持ちもさせられるのだ。


 黄色いカゴに特売品を放り込むたびに、大樹はよろけた。


 だいぶ、背は大きくなったんだけどねえ。


 隣に立つ中学二年は、平均的な貴恵の背を、ようやく少しだけ追い越した。


 しかし、肉付きは薄く、ひょろっとしたイメージを拭えない。


 彼女の視線に気付いたのか、大樹がこっちを見た。


「また、前髪が伸びたなあ。後で切ってやるよ」


 貴恵は、その髪をなでくりたい気持ちを押さえてニマニマした。


 コクンと頷く頭。


 彼女の気持ちとしては、既に大樹はわが子の領域だった。


 衝撃的な出会いから四年。


 ずっと貴恵は、彼を見守ってきたのだ。


 アパートの隣同士。


 築20年の安アパートに住むのは、訳あり世帯や低所得者が多い。


 貴恵も母子家庭だし、大樹の家もそうだった。


 幸い、貴恵の母親は看護婦という資格のおかげで食いっぱぐれることもなく、男っぽい性格も遺伝して、今まで楽しくやってこれた。


 しかし。


 隣の大樹は違った。


「……」


 黙ったままの大樹の気配が変わる。


 貴恵は、それを敏感に感じた。


 スーパーから家に向かう途中のことだ。


 うっ。


 向かいから歩いてくる女に、貴恵は反射的に身を固くしていた。


 派手な身なりと化粧で、日暮れの町を歩く高いかかとが近づいてくる。


「フン…」


 こっちを見た女は、鼻先で二人の存在をなかったことにした。


 そして、ただすれちがった。


「いこう…」


 別に足を止めていたわけではない。


 歩き続けていたにも関わらず、自分を奮い立たせるために、貴恵はそう言わなければならなかった。


 あれが――大樹の母親。


 ※


 大樹の食事のほとんどは、貴恵の家で済まされる。


 もともと家での食事の支度は、彼女の仕事だった。


 母の看護婦という不規則な仕事を考えると、どうしても早いうちに身につけざるを得ない技術だったのだ。


 最初は、数学の教科書をぶらさげた、四年生の大樹にご飯を分けた。


 みちゃいられない痩せ方だったからだ。


 それから、見かける度に食物を渡し、隣の家におにぎりを差し入れした。


 苦手な大樹の母親は、水商売の仕事の関係で夜はいなかったから、自由に出入り出来たのだ。


 そんな娘の行動を知ってか。


『母ちゃんが、向こうの母ちゃんとナシつけといてやるから、ご飯につれてきな』


 貴恵の母親が動いた。


 どう話をつけたのか知らないが、それから大樹は一緒に食事を取れるようになったのである。


 夕食の支度を始めた貴恵に、後ろからにゅっと手が伸びてくる。


 大樹だ。


 その手の先には弁当箱。


 あいよ、と貴恵は受け取った。

 中学も給食ではないので、貴恵は自分の分と一緒にこしらえて朝渡している。


 大樹の返す弁当箱は綺麗だ。いつ覚えたのか、気付いたら洗って返すようになっていた。


 昼休みの手洗い場で、黙々と弁当箱を洗う大樹の姿を想像すると笑える。


 そしてその後、きっと図書室へこもるのだ。


「ん?」


 弁当箱のふたをあけると、中には一枚の紙。


 というより。


 一万円札、と言ったほうが分かりやすいか。


 ああ、と貴恵はカレンダーを見た。新しい月に入ったのだ。


 ひ弱に見えても後ろの若造は、毎朝欠かさず新聞配達をしていた。


 月末集金がおわるとアルバイト代が入る。だから月初になるとこうして自力で食費を払うのである。


 あの母親から、この子が生まれるのかあ。


 不憫さに、貴恵はほろりとした。


 新聞配達のアルバイトをゆずったのは貴恵だ。


 彼女の家だって母子家庭なのだから、出来ることはやろうと、母親のつてで小六から始めたのである。


 子供ができるバイトなどほとんどない。


 だから、貴恵が中学三年の時、六年になったチビに言ったのだ。


 高校受験もあるから、やる気があるなら私のバイトを譲る、と。


 ただご飯を食べさせるだけではなく、生きる道も教えなければといけないと母親が言ったのだ。


 大樹は、きっとよその子よりも早く自分一人で生きなければならないから、と。


 あんまりしゃべりも得意じゃないし、勉強の虫で、きっとクラスでも浮いているだろうが、それでも大樹なりに一生懸命生きている。


 大樹の稼いだ一万円札をエプロンのポケットにねじこんで、貴恵はたまねぎを刻み始めた。


「肉じゃがだぞ、好きだろ?」


 振り返ったら、もう大樹は本に顔を突っ込んでいた。


 ※


「ほら、今のうちに髪切ってやるよ」


 とろ火で煮込む肉じゃがを横目に、貴恵は古新聞を抱えてきた。


 散髪に行くお金を節約するには、自分で切るに限る。


 貴恵も前髪は自分で切るし、後ろは母親にやってもらう。


 本の虫をひきはがし、広げた新聞を持たせる。


「結構長くなってたから、先生に怒られてないか?」


 シャキッ。


 貴恵はよどみなくハサミを入れた。


 一番最初に切ってやった時は、横一線に切りそろえてしまい、おかっぱの男の子を作ってしまった。


 伸びるまで、さぞや同級生にからかわれただろう。


 その後、貴恵はクラスの男子の髪を研究し、何回かの失敗を大樹で繰り返しながら、ついに無難な大樹ヘアを確立させたのである。


「だいじょうぶ」


 貴恵の質問に、ようやく大樹がしゃべった。


 低めに割れはじめた声は変声期の証。


「おぉ、声がわりか、やったな」


 一つ大人に近づいた事実に貴恵は喜んだ。


 早く大人になって大樹が自由になれるのを、誰よりも願っているのだから。


 シャキシャキン。


「体も大きくなってきたし、頭もいい。大樹は何にでもなれるぞ」


 あ、スポーツ選手以外な。


 跳ねる黒髪が、小さな束になって新聞へと落ちていく。


「なにかなりたいものはあるか?」


 言いながらハサミを入れようとしたら――大樹が頭を横に振った。


「バカ! 頭動かすな!」


 あわや、賢い頭をハサミで刺すところだった。


 ぴたり、と頭は動きを止める。


 貴恵はほっとしながら、再びハサミを滑らせた。


「そうか、なりたいものはまだないか。でも来年は中三だからな、そろそろ考えないとな」


 貴恵は、本心を悟られないように気を付けながら言った。


 彼女は高校に行くことができたが、大樹もそうとは限らない。


 中学を卒業したら働かなくてはならないかもしれないのだ。


 住み込みの工場などなら、あの母親から離れられるから大樹にとってはきっといい。


 でも、大樹は頭のいい子で。勉強が何よりも好きな子だ。

 それが分かっているからこそ、貴恵は大樹に自分の未来を考えさせたかった。


 高校に行きたいなら、大樹が自分で母親を説得しなければならないからだ。


「なんの教科が好きだ? やっぱり数学か?」


 質問をした後、はっと貴恵はハサミを離した。


 また頭で返事をされないように、だ。


 しかし、短くなりかけた前髪の隙間から見える黒い目を細めて、大樹はこう言った。


「ぜんぶ」


 嬉しそうでありながら――苦しそうに見えた。


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