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妹の婚約披露宴で、私の持参金の使い道を発表いたします

作者: 南野遥
掲載日:2026/10/13

 

「お姉様からも、お祝いのお言葉をいただきたいわ」


 妹のセシルが微笑んだ。

 隣に立つジュリアンの腕に、白い手袋をはめた指を絡ませている。ほんの三週間前まで私の婚約者だった人は、その手に自分の手を重ねた。


 妹の首元で、青い宝石が揺れた。

 花をかたどった銀細工。その中央に留められた石は、燭台の光を受けるたび、深い水の底のような色を見せた。

 私は石から視線を外し、目の前の皿を見た。薄く切られた肉、季節外れの果物、まだ温かな小さなパン。皿の脇には銀の食器が四本も並んでいた。

 食事には一度も手をつけていなかった。


 席札には、リディア・ヴェルノーと書かれている。私のものだけ、父母の席から少し離れていた。招待客のひとりが、妹とよく似ているかと尋ねたとき、継母は「この子は亡くなった母親似ですの」と答えた。

 そこで話が終わり、私は茶を注ぐ使用人へ礼を言った。

 広間に入ってから私の言葉を聞いたのは、その人だけだった。


「リディア様」


 司会の男性が、私の椅子のそばまで来た。


「ご家族を代表して、お言葉をお願いできますでしょうか」


 広間の奥で弦楽器の音が止まった。

 小さな談笑が、順に途切れていく。

 父は上座から私を見ていた。顎をわずかに上げる、見慣れた合図。立ちなさい。言われたとおりにしなさい。


 私は膝の上の書類入れに指を置いた。

 革の縁をなぞってから、椅子を引いた。


「姉妹ですもの。少し寂しいのでしょうね」


 継母のマルグリットが、隣席の夫人へ声を落とした。私のところにも十分に聞こえる大きさだった。


「リディアも、妹の幸せを願っているのですよ。亡くなったお母様の遺産も、姉妹で仲良く分けましたの」

「まあ。そうでしたの」

「あの子にも、きちんと承知してもらいましたから」


 父が満足そうに杯を持ち上げた。

 私の胸元には、古いブローチが一つだけ留まっている。小さな葉の銀細工。その端を指で確かめると、朝、磨き布を当てたときの滑らかな感触があった。


 司会に案内され、私は二人の前へ進んだ。

 妹のドレスの裾には、真珠が幾列にも縫いつけられている。白い花を挿した髪にも、小粒の真珠が散っていた。


「お姉様。そんな難しいお顔をなさらないで」


 セシルが、私にだけ聞こえる声で囁いた。


「ジュリアン様も困ってしまうわ。笑ってくださらなくちゃ」


 ジュリアンが頷いた。


「君に祝ってもらえたら、私たちも安心できる」


 私は書類入れの留め金を外した。

 中の紙は、出す順番に重ねてある。角には自分で小さな印をつけた。指先が震えても、順序を間違えないように。


「本日は、お招きいただきありがとうございます」


 声が思っていたよりも遠くまで届いた。

 広間の中央では、花を盛った大きな器の横に、砂糖細工の白鳥が二羽置かれていた。料理人が何日もかけて仕上げたという。父は招待客に、その費用まで自慢していた。

 その父へ、一度だけ目を向けた。


 祝辞を終えた後の席へ戻る必要はなかった。外套は入口で預け、帰りの馬車の時刻も確認してある。私は自分の背後にある扉の位置を確かめた。

 卓へ視線を戻すと、妹が期待するように頷いた。私も一度だけ頷き、紙を持つ手を上げた。


「お父様からは、母の遺産についても皆様にお話しするよう、申しつかっております」


 継母が笑顔を深くした。


「ええ。セシルのために使えて、あなたのお母様も喜んでいらっしゃるわ」


 私は一枚目の紙を取り出した。

 左の端を押さえる。インクの文字を確かめる。何度も練習した動作を、一つずつ行った。


「ですから、その使い道について、ご報告いたします」


 妹の笑顔は、そのときまで崩れなかった。

 ジュリアンもまだ、私がどんな祝辞を述べるか待っている顔をしていた。


「妹の婚約披露宴には、四千金貨。こちらは、私の相続財産から支払われました」


 父の杯を持つ手が、空中で止まった。


 *


 私の婚約が終わったのは、この披露宴の三週間前だった。


 午後の応接間に呼ばれると、セシルはすでにジュリアンの隣に座っていた。私が来ると、二人の間に置かれていた妹の手が、彼の袖へ移った。

 父と継母は、向かいの長椅子に並んでいた。

 私の席だけ、背の硬い小さな椅子だった。


「リディア。落ち着いて聞いてほしい」


 ジュリアンは、私が座るより先に話し始めた。


「セシルとの結婚を考えている」


 用意されていた茶杯の取っ手に、指が触れた。

 持ち上げるとこぼすと思い、そのまま手を引いた。


「私との婚約は、どうなるのでしょう」

「解消したい」


 返事は早かった。

 彼は、言い直しも、ためらいもしなかった。


「君とは長い付き合いだ。だから分かっている。君なら一人でも大丈夫だ」


 セシルは彼の袖をつまんだまま、目を伏せた。


「私、お姉様を傷つけたくなかったの。でも、好きになってしまって……」

「セシルを責めるな」


 私が返事をする前に、父が言った。


「姉なら妹の幸福を喜ぶべきだ。お前にはまた別の相手を探せばよい」


 私は膝の上で手を組んだ。

 この家を出られると思っていた。自分の部屋を持ち、夜には帳簿を閉じ、誰かと同じ食卓で夕食を取る。婚約してから、そういう暮らしを少しずつ思い描いていた。


「ジュリアン様は、いつから妹と」

「そこまで問い詰める必要があるか」


 父の声に、肩が縮んだ。


「話は決まっている。ロシュフォール伯爵にも、こちらの意向は伝えた」


 継母が私の前の皿を、少し横へずらした。  菓子は一つも載っていなかった。

 セシルの皿には、蜜で艶をつけた杏の焼き菓子が二つある。


「あなたはしっかりしているもの。よい方が見つかるわ。それより、妹のお祝いを手伝ってちょうだい」

「……お祝い」

「披露宴よ。三週間後に会場を取れたの。急な準備だから、請求書の整理をお願いしたいわ」


 私が帳簿を整理している机には、セシルの衣装の注文書が毎月届いていた。私は袖口を直して同じ服を着た。新しい服が欲しいと頼むと、父は費用の一覧を見せろと言った。妹の注文には、先に許可の印が押してあった。


 私は自分の袖口を押さえた。


「私の結婚のために、母が残したお金があると伺っていました。婚約を解消するなら、そのお金を渡していただけますか」


 父の眉が寄った。


「お前が結婚するときのものだ。今、渡す理由はない」

「でも、私の結婚は」

「それまで、家で預かっておくと言っている」


 継母が茶を飲み、軽く息をついた。


「そのお金なら、セシルの準備にも使わせてもらったわ」


 耳に残った言葉を、私は頭の中でもう一度繰り返した。


「母のお金を、ですか」

「家族のお金でしょう。細かいことを言わないで」


 セシルが首元へ手を当てた。

 胸の上に、青い石が揺れていた。


「これも選んでいただいたの。お姉様には華やかすぎるでしょう?」


 ジュリアンが、妹によく似合うと言った。

 私は石の周りの銀細工を見た。花びらの一枚一枚に、小さな透明な石がはめ込まれている。手間のかかる品だと、宝飾店の前を通るだけの私にも分かった。


「残りはいくらあるのでしょう」

「リディア」


 父が茶杯を音を立てて置いた。


「妹の幸せに値札をつけるような真似はよせ」


 その場で尋ねられたのは、そこまでだった。

 応接間を出るとき、ジュリアンが私を呼んだ。


「セシルの前では、お金の話を控えてくれないか。彼女は繊細だから」

「私には、生活のために必要な話です」

「君は今も、家で暮らしているだろう」


 彼は私の返事を待たず、妹のそばへ戻った。テーブルにはまだ菓子が残っていた。セシルがひと口食べ、彼にも勧めるところまで見えて、私は扉を閉めた。


 廊下の窓の前で立ち止まり、息を整えた。明日からも、帳簿の束は私の机へ届く。妹の結婚を整える仕事を終えたら、その次の頼みごとが来る。

 私は自分の指先を見た。机に向かうためのこの手で、ほかに何ができるか。窓の桟へ触れ、まだ震えている指を押さえた。


 翌日、婚約解消の書面を受け取った。ジュリアンの署名と、父の確認の印があった。私は条件を読み、婚約の解消についてだけ署名して、書類の写しを一通求めた。

 父は苛立ちながらも、紙を渡した。


 その午後、机へ届いた会場費の控えを仕分けていて、私は手を止めた。

 いつもの家計の口座とは違う番号が、支払元の欄に記されている。

 見覚えがあった。

 幼いころに母の遺産について受け取った通知。その封筒の内側に、同じ番号が印刷されていた。


 私は古い書類の箱を開けた。

 父が「結婚まで保管しておけ」と言って渡した通知には、管理を担当する事務所の名前と住所もあった。母の口座の詳細は父の書斎で保管され、私は見せてもらったことがなかった。


 会場費の控えと、通知を並べた。

 番号は一致していた。

 四千金貨。私はその数字を小さな紙に写した。


 翌日は私の二十歳の誕生日だった。

 机の隅に積まれた妹の注文書を寄せ、まっさらな便箋を一枚置いた。


 *


 二十歳になった朝、私は事務所へ手紙を出した。

 返事は翌日の午前に届き、その日の午後、私は通知と会場費の控えを持って訪ねた。


 応接室の机には、私の名前が書かれた書類が置かれていた。

 ベルナールと名乗った灰色の髪の男性は、私の身元を確かめると、挨拶を終えてから一冊の保管簿を開いた。


「成年時の精算について、お父上宛てにもご案内を差し上げております。ご本人からお問い合わせいただけてよかった」


 父がそうした通知を受け取っていたことも、私は初めて知った。


「まず、お母上の遺言をご覧になりますか」


 私は頷いた。

 認証された写しが、両手の前に置かれる。

 母の名前を見つけてから、少しの間、その先へ目を進められなかった。


 母は商家から嫁いできたと聞いていた。父は母の話をするとき、家柄の違いを口にした。ベルナールは、相続された財産の明細を示し、母が結婚の際に持ってきた個人財産と、婚姻後も本人の名で保有した資金だと説明した。

 私の前には、年月と金額を揃えた記録があった。母の名前は、その一枚一枚に書かれていた。


 母の声を、はっきり思い出せるわけではなかった。髪を梳かれる感触と、抱き上げられたときに頬へ触れた布の柔らかさが、遠くに残っていた。

 私は紙の端をつまんだまま、ゆっくりと読んだ。


 指定された財産の相続人は、私。

 成年までの一時管理者は、父。

 成年後には、私が直接管理すること。


「結婚するときに受け取る、と父から聞いていました」

「そのような条件はありません」


 ベルナールは、該当箇所へ細い紙を置いた。


「成年を迎えられましたので、ご自身で管理していただけます」


 遺言の末尾に、少しだけ柔らかな言葉が添えてあった。


『この子が、自分の望む暮らしを選べるように。』


 私はその一文を二度読んだ。


「父が妹のために使った場合は、どうなるのでしょう」


 会場費の控えを差し出すと、ベルナールの視線が支払元へ移った。


「お父上には、一時管理の支出を記録し、精算する義務があります。妹君への贈与には、成年後のあなたの承諾が必要です。記録を取り寄せて確認しましょう」

「今までの支払いを、こちらでも見ていたのですか」

「個々の支出を承認する立場にはありませんでした。今回の精算で、口座と用途を照合します」


 ベルナールは、私の控えを勝手に持っていかず、写しを取る許可を求めた。

 私はお願いしますと答え、照会に必要な書面へ署名した。


「照合に時間がかかる間、父が残りのお金を使ったらどうなりますか」


 尋ねると、ベルナールは管理の切り替えに必要な手続を説明した。


「成年と本人確認が済めば、新しい出金はご自身の指示で行うよう変更できます。使われた分の確認と、残っている分の確保は、別に進めましょう」


 私は二つの書面を並べ、先に残額の保全へ署名した。

 すべてが分かるまで待つつもりでいたら、妹の追加の注文が届くたび、お金はまた減っていたかもしれない。受付印のついた控えを受け取り、申請の完了予定を書き留めた。


 そこから数日間、私は事務所へ通った。

 会場の契約日、支払日、受領した品。父が持つ帳簿の提出も求められた。私が家で触れる通常の会計と、母の口座の記録を並べると、支払いの出所だけが異なっているものがあった。


 父が注文した青い首飾り。

 婚約披露宴のために押さえた広間。

 ロシュフォール家へ送られた結婚準備金。


 宝飾店の受領記録には、セシルの名前があった。注文書には継母の希望する花の形が描かれ、支払書面には父の署名があった。

 私は横に置かれた紙へ、金額を一つずつ書いた。


「十二、千」


 口に出した数字が途中でつかえ、私は息を継いだ。


「一万二千金貨のうち、残っているのは三千金貨ですか」

「はい。妹君の披露宴に四千、首飾りに二千、結婚準備金に三千です」


 四千、二千、三千。

 九千金貨。

 妹の幸福を喜べと命じられたあの日、家族はすでにそのお金を使っていた。


「お母上の財産から、あなたの生活費を支払った記録は、この期間の帳簿にはありません」


 私は膝の上で握りしめていた手をほどいた。

 家で暮らさせてもらっているのだから、口を出せない。ずっとそう考え、父が私のために管理しているという言葉を聞いていた。

 机の上には、別の事実が並んでいた。


「どうされますか」


 ベルナールは、私の返事を待った。

 泣くための布も、書くためのペンも、私の手の届くところにあった。

 私はペンを取った。


「残っているお金を私の管理に。使われた分は、返還を求めます」


 口座の管理を切り替える申請書に、リディア・ヴェルノーと書いた。

 その下に、返還を求める三つの支出を記入した。


「元の書面はこちらで保管します。必要な写しは、認証してお渡しできます」

「お願いします。父に見せる分と、私が持っておく分を」


 帰り際、遺言の写しをもう一度開いた。

 自分の望む暮らし。

 私は母の言葉の下に触れ、それから書面を折らずに書類入れへ収めた。


 *


 父へ精算書面を渡すと、返事は紙を見るより先に返ってきた。


「妹の晴れの日を台無しにする気か」

「披露宴までにお話ししたくて、持ってまいりました。母の財産の精算です」


 父は二枚目まで目を通したところで、書面を机へ伏せた。


「金額など、後でどうとでもなる。先に必要なのはこちらだ」


 出された紙の表題は、贈与承諾書だった。

 私からセシルへ、九千金貨を贈与したと確認する内容が記されていた。


「署名なさい」

「贈与しておりませんので、署名はできません」


 父の顔を見ながら言えたのは、そこまでだった。

 それでも、差し出されたペンには手を伸ばさなかった。


「お前のためにもなる。家族の間で揉めたという噂が立てば、次の縁談も難しくなるぞ」

「この九千金貨は、返していただきます」


 私は自分の控えを閉じた。

 継母が書斎へ入り、父の机に置かれた書面を見ると、困った娘だという顔をした。


「皆様には、もう姉妹で公平に分けたとお話ししているのよ。あなたが少し協力すれば、それで済むのに」


 父は承諾書を引き出しへ入れた。


「披露宴で祝辞を述べろ。母親の遺産にも触れ、家族への感謝を伝えるんだ」

「遺産についても、お話ししてよろしいのですね」

「言われたことだけ話せばよい」


 私は祝辞の役を引き受け、書斎を出た。


 残額の三千金貨は、すでに私の管理になっていた。新しい出金を認めない通知も済んでいる。継母が追加で頼んだ花の代金は、父自身の口座から支払われた。

 私は最初の支出を、転居のために使った。


 短期滞在できる部屋を借り、新しい住まいの内見へ行った。窓から朝の光が入る、小さな二階の部屋だった。階下の大家は、家賃と修繕の負担を順に説明してくれた。

 私は窓を一度開け、机を置ける場所を確かめてから契約した。


 実家の机は、廊下から覗けば手元がすぐ見えた。扉を閉めて仕事をすると、何を隠しているのかと父に言われた。

 新しい部屋の扉には、鍵があった。

 大家が渡してくれた鍵を掌へ載せたとき、私はその重さを確かめるように指を閉じた。


「合鍵が必要になったら、先に相談してね」

「はい」


 契約の控えへ目を落とす。住む人の欄にある名前は、私だけだった。


 仕事を探すために入った書店で、店主のノエル・アルディが顔を上げた。


「リディアさん。今日はお探しの本ですか」


 何度か訪れたことのある店だった。注文していた本の到着日を整理したとき、私の作った一覧を、彼は今も使ってくれていた。


「帳簿整理の募集を見ました。応募したいのです」


 彼は椅子を出し、見本の帳簿を持ってきた。

 小さな出版社も営んでいるため、印刷所への支払いと書店の仕入れが混在していた。私は数枚の伝票を確かめ、項目を分ける案を書いた。


「週に五日、午前から夕方まで。休憩はこの時間です。給料はこちらで、月末払いになります」


 彼が示した紙を、私は読んだ。


「閉店後に帳簿が残った場合は?」

「翌日の仕事にします。特別にお願いする場合は、時間と追加分を先に相談します」


 私はもう一度、勤務時間へ目を落とした。

 何時に仕事を終えるかが、紙に書いてあった。


「この条件で、お願いします」


 契約書を持ち帰り、家では小さな箱へ服と本を詰めた。母のブローチと古い通知、数冊の帳簿の控え。私の荷物は、二つの箱に収まった。


 父へ転居の通知を渡すと、妹の準備が忙しいときに何を考えているのかと言われた。私は披露宴へは予定どおり出席すると答え、家の鍵を机に置いた。

 継母が部屋を見に来たときには、運搬の馬車が到着していた。


「すぐ帰ってくることになっても、セシルの部屋は使えませんからね」

「私が使っていた部屋も、空けていただいて構いません」


 言い終えて、最後の箱を持ち上げた。廊下を通る間、箱の縁が手首に当たった。その重さを抱えたまま、私は玄関まで歩いた。


 披露宴の数日前、ベルナールと最後の確認をした。

 書面を出す順番、会場への入場、帰りの馬車。彼の同席は、財産報告の補助として会場へ届け出た。


「皆様の前で話すことは、ご自身のお考えでよろしいですね」

「はい。父には先に返還を求めました。けれど、私が贈ったことにするそうです」


 私は母のブローチを手の中で返した。


「母の名前を、あの人たちの嘘に使わせたくないのです」


 ベルナールが頷いた。

 私は当日の式次第に、自分の出番を確かめた。

 紙を閉じると、仕立て直した袖が手首に沿った。


 *


「リディア」


 父が私の名前を呼んだ。

 杯の中の酒が、縁の近くで揺れていた。


「何の話をしている」

「母の遺産の使い道です。お父様から、お話しするようにと申しつかりましたので」


 私は会場費の書面を司会の机へ置いた。

 近くに座っていた夫人が、料理の皿から手を離した。


「会場、料理、装飾の支払いに、四千金貨」


 砂糖細工の白鳥の向こうに、セシルの首飾りが見えた。


「セシルの首飾りに、二千金貨。ロシュフォール家への結婚準備金に、三千金貨。合わせて九千金貨です」


 継母の口元から、笑みが消えた。

 ジュリアンが私と妹を交互に見た。


「こちらは、母が私に残した一万二千金貨の中から支出されました」

「いい加減にしろ」


 父が杯を置いた。


「家の財産をどう使おうが、お前が人前で口を挟むことではない」


 私は母の遺言の写しを取り出した。


「相続人の欄を、ご確認ください」


 父が立ち上がりかけたところで、広間の端にいたベルナールが進み出た。

 事前に司会へ紹介してあったので、彼はその机へ書面を置くことができた。


「亡きヴェルノー伯爵夫人の遺言執行を担当しております、ベルナールです。こちらは原本に基づく認証写しです」


 父は私を見た。


「お前が呼んだのか」

「はい。財産報告に必要な確認をお願いしました」


 私の声が細くなりそうだった。

 机に置いた紙の端を押さえ、父の目へ視線を戻した。

 書斎ではいつも、声を荒らげられると自分の言い方を考え直した。今、言い直すべきところは書面のどこにもなかった。


「母の遺産は私個人の財産です。お父様は、私が成年になるまでの一時管理をお引き受けになりました」


 ベルナールが、遺言の二つの箇所を示した。


「相続人と管理者の指定は、こちらです。成年時の精算に際して、支出記録を照合しております」


 エドガー・ロシュフォール伯爵が、椅子から身を起こした。


 ジュリアンが、父親へ何か言いかけた。伯爵は掌を小さく上げ、まず書面を確かめるという合図をした。

 私は会場と宝飾店の記録を並べた。支払元の番号が同じであること、注文と受領に誰の名前があるか。言葉を急がず、一箇所ずつ指した。

 読んでいる人が行を追う間は、私も待った。


「私にも見せてもらえるか」


 ベルナールが写しを一通差し出した。

 父はその手の動きを止められず、襟元へ指を当てた。


「娘を養育してきたのは私だ」

「私の養育にかかった費用であれば、用途を確かめて精算していただけます。今お話ししているのは、妹の披露宴、首飾り、結婚準備金です」


 父の視線が、料理の並んだ卓へ落ちた。


「どれも、セシルのために支払われました。私の承諾はありません」

「リディア」


 継母が口を開いた。

 先ほどまで招待客へ向けていた柔らかな声だった。


「承知していたでしょう。家で説明したではないの。今になってそんな言い方をされても」

「使ったと伺いました。その場で残額を尋ねると、お父様に叱られました」


 私は会場の支払日を指した。


「お話を伺う前に、すでにこちらは支払われています」

「あなたも妹のために協力すると」

「承諾した書面をお見せください」


 継母が父を見た。

 父は、その目を受けて口を引き結んだ。


「ご家族の間であっても、ご本人からの贈与を確認する必要があります」


 ベルナールが短く補った。

 私は未署名の承諾書の控えを、他の書面の横へ置いた。


「成年後にこちらへの署名を求められました。私は署名をお断りしました。九千金貨の返還も、その前に書面で求めています」


 父が、私の手元へ腕を伸ばした。


「そんなものを出すな」


 私は紙から手を離した。

 父の指が、承諾書の控えを掴む。


「そちらは写しです。支払いを確認する原本は、事務所で保管しております」


 父は紙を握ったまま、動きを止めた。

 端に皺が寄った。父は広間を見渡し、ゆっくりと紙を机へ戻した。


「家族に対して、そこまでするのか」

「はい。返していただくために、必要な書類を用意しました」


 継母が私のそばへ寄った。


「あとで話しましょう。皆様をお待たせしているわ」

「披露宴の前に、お願いいたしました。こちらが申し入れた日付です」


 私が差し出した控えを、継母は取らなかった。

 招待客の前で微笑むための顔が、ほんの一瞬、なくなった。


「お姉様……」


 セシルの声が震えた。

 彼女は首飾りの青い石を隠すように、胸へ手を当てていた。


「今日がどんな日か、分かっていらっしゃるでしょう。みんなの前で、こんなことを」


 ジュリアンが妹の肩へ手を置いた。

 私はその手を見てから、セシルに尋ねた。


「あなたのお祝いに使われたお金が、私の相続財産から出ていることは、知っていましたね」


 妹の視線が父へ飛んだ。


「お父様が、いいとおっしゃったの」

「首飾りを買う前に?」

「そうよ。お母様も、家族のお金だからって」


 広間の奥で、椅子の脚が床を擦った。

 妹は音のほうを見て、それから唇を噛んだ。


「私が勝手に使ったわけではないわ」

「支払いをなさったのはお父様です。ですから、返還の請求もお父様へお出ししています」


 私は宝飾店の書面を示した。


「ただ、あなたは私のお金だと知って、この首飾りを受け取りました。私があなたに贈ったと、皆様へお話しするのはおやめください」


 妹の目に涙が溜まった。

 今までなら、その涙が流れるより先に、私が言葉を飲み込んでいた。

 私は机の上の支払記録を揃えた。


「私、ただ喜んでいただきたかっただけなのに」

「それなら、私のお金を返すことにご協力ください」


 ジュリアンが、一歩前へ出た。


「もう十分だ、リディア。セシルが泣いている」


 彼は私が持つ書面には目を向けず、妹を背中へ庇った。


「家族のことを人前で話す必要があるか。君はもっと分別のある人だと思っていた」


 私は彼の顔を見た。

 婚約していたころ、何か頼みごとをすると、彼はいつも都合のよい時期を待ってほしいと言った。セシルに会う時間は、私との約束を延期してでも作ったらしい。


「先ほど、母の遺産を姉妹で公平に分けたと、皆様へお話しされました」


 継母のほうへ目を向けた。


「私はそれを訂正しています。家の中で返還を求めても、お受けいただけませんでした。今日も私の祝辞で、贈与したと認めるよう求められています」

「君が少し譲れば」

「九千金貨です」


 彼の言葉が止まった。


「少しだとお考えなら、ご自身でご用意ください。セシルのお祝いに、ご自身の財産を使うことはできます」


 ジュリアンは父親のほうを見た。

 エドガー伯爵は、遺言の写しから目を上げなかった。


「気持ちの話をしている」

「私の気持ちは、贈与には承諾しないということです」


 私は書面を一枚ずつ戻した。

 父も継母も、もう私へ笑うようにとは言わなかった。


 *


「結婚準備金の記録を見せてほしい」


 エドガー伯爵が、今度は私へ言った。

 私は送金記録の写しを差し出した。

 伯爵は受領日と金額を確認し、支払元の番号に指を置いた。


「当家が受け取った三千金貨で間違いない。ヴェルノー伯爵、これは長女から妹への贈与として説明を受けたものだ」


 父は少しだけ肩の力を抜いた。


「そのとおりです。姉妹の間ですから」

「贈与の承諾を確認した書面は、どこにある」


 父は答えなかった。

 継母が、椅子の背を掴んだ。


「伯爵様。娘は今、婚約が変わったことで、心が乱れておりますの」

「それで、この署名が現れるわけではない」


 エドガー伯爵は、自分の前にあった杯を脇へ寄せた。


「当家が受領した資金の出所は、確認させてもらう。幸い、結婚準備のための支出はまだ行っていない。本日から使用を止め、必要な書面を整えたうえで、ご本人へ返還する」


 私は息を吐いた。

 ここへ来てから、初めて机の縁から指を離せた。


「ありがとうございます」

「こちらこそ、確認が行き届かなかった」


 伯爵は、私へ頭を下げた。

 父が慌てて言葉を差し挟んだ。


「お待ちください。娘同士のことです。話し合えば済む」

「話し合いを求めた書面を、私は今見せてもらった」


 エドガー伯爵は、その日付を父へ向けた。


「私に説明した内容も、改めて確認させてもらう。婚約の条件については、双方で協議し直す必要がある」


 セシルがジュリアンの腕を掴んだ。


「どういうことですの。私たち、結婚するのでしょう?」

「もちろんだ。父上、セシルには関係が」

「今、彼女自身が資金の出所を知っていたと答えた。お前は、その書面を一度でも読んだか」


 ジュリアンは視線を机へ落とした。


「私は、二人の気持ちが大切だと思っています」

「ならば、お前たちの気持ちを、他人の金で支える必要はあるまい」


 父が咳払いをした。

 継母はエドガー伯爵へ話しかけようとして、彼がベルナールと手続の確認を始めると口を閉じた。

 司会は客へ食事を続けるよう勧めたが、音楽を再開させる合図は出せずにいた。


「リディア。こちらへ来い」


 父が私の腕へ手を伸ばした。

 私は半歩だけ下がった。


「お話は、ベルナールさんを交えてお願いいたします」

「父親にその態度か。皆様に謝りなさい」


 父の声で、胸の奥が小さく跳ねた。

 叱られた夜に、自分の部屋で声を殺して泣いたことを、身体が覚えていた。

 私は足元を見た。つま先は父のほうへ向いたままだった。

 踵を揃え、顔を上げた。


「お金を贈ったとお話しすることも、返還の請求を取り下げることも、いたしません」


 ベルナールが私の隣へ立った。


「九千金貨の返還請求は、当事務所でお預かりしております。支出記録の確認も終えておりますので、今後は書面で精算を進めさせてください」

「ここで命令する権限があるのか」

「本日は事実をご確認いただくために参りました。返還の方法について、事務所へご回答をお願いいたします」


 父は机の上の写しを見つめた。

 自分の署名がある支払書面が、何枚もそこに並んでいる。

 エドガー伯爵はその署名を確認していた。隣の席の夫人も、母の遺言の写しを読んでいた。


「家の信用を傷つけて、満足か」

「母の財産が返還され、私が直接管理できるようになれば、今回の精算は終わります」


 私は求めることを、もう一度言った。

 父は返事をせず、席へ戻った。


 セシルが私の前へ出てきた。

 ジュリアンの腕から手を離し、幼いころのように、私の袖をつまもうとした。


「お姉様。私たちの結婚が駄目になったら、どうするの」


 私は手を自分の前で重ねた。

 妹の指は、私の袖に届かなかった。


「そのお話は、ジュリアン様と、ご両家でなさってください」

「お金くらい、譲ってくださればいいでしょう。お姉様は、働くのがお得意なのだから」


 妹の背後で、ジュリアンが小さく頷きかけた。

 エドガー伯爵は、彼の顔を見た。


「母が私に残してくれたお金です。あなたへの贈り物にするつもりはありません」

「私より、お金が大切なの?」


 私は妹の顔を見た。

 その目に、自分の答えを変える理由を探すことを、やめた。


「私は、私の暮らしを選びます」


 書類入れの留め金を閉じた。

 ベルナールが、会場に置いておく写しを仕分けた。手続に必要な相手が、どの書面を受け取ったかも記録していた。

 私は司会へ、予定していた話は以上だと伝えた。


「皆様、お食事の途中にお時間をいただき、ありがとうございました」


 それから、二人へ向き直った。


「結婚のお祝いは申し上げます。費用は、お二人と、それを望まれた方々でご用意ください」


 誰も拍手はしなかった。

 広間の入口へ歩くと、通路に出ていた椅子を、年配の男性が少し引いた。

 私は会釈をし、その横を通った。


「リディア、待て」


 父の声がした。

 歩みを止めず、扉を抜けた。

 廊下には宴の料理とは違う、雨上がりの石の匂いがあった。


 預けていた外套を受け取ると、手配した馬車が玄関前に来ていた。行き先を告げる。実家の住所を言わなくてよいことが、唇の動きで分かった。

 御者が扉を閉め、馬車が動き出した。


 私は膝の上に書類入れを置き、手袋を外した。

 掌に、爪の小さな跡がついていた。

 その指を一本ずつ伸ばした。

 窓の外で、見覚えのある屋敷の並びが後ろへ流れていった。


 *


 披露宴から二か月後、ベルナールの事務所で、私は最後の精算報告を受け取った。


「これで、流用された九千金貨の返還がすべて完了しました」


 ロシュフォール家から三千金貨。

 父から六千金貨。

 それぞれの入金日と、受領の記録が並んでいた。


 先に確保した三千金貨からは、転居の費用や家賃を支払った。だから今の口座に一万二千金貨がそのまま残っているわけではない。

 私は支出をつけている自分の帳面と照らし合わせ、最後の欄へ線を引いた。


「はい。確認いたしました」


 父は別邸を四千金貨で売った。

 返還について書面で協議を始めると、父はまず分割を求めた。ベルナールが資金の準備方法と期限を確認し、父は私有の資産を売って補填する旨に署名した。

 入金が済むまで、私は届いた報告を一通ずつ保管した。最終の受領欄へ署名するとき、父からの約束ではなく、口座へ入った金額を確かめた。


 継母が自分の宝飾品を売り、二千金貨を父へ渡した。

 精算書の裏に添えられた売却資金の内訳を読むと、何度も家族で夏を過ごした別邸の住所があった。私が帳簿を持って同行し、妹が湖へ遊びに行っていた場所だった。


「本邸や領地の運営費とは分けて、返還されたことも確認しております」


 ベルナールが説明した。

 私は頷いた。家の使用人の賃金まで削らせないという、精算時の希望も書面に残っていた。


 継母から届いた手紙には、宝飾品を売るよう父に迫られたことが書かれていた。

 父が家族のために協力しろと言ったのだという。

 私はその一文を読み、手紙を折った。


 セシルの首飾りも売られた。

 返還が終わった後に、縮小した生活の費用へ充てたと、妹の手紙で知った。彼女は品の買い戻しと、ジュリアンへ口添えすることを求めていた。


 妹との婚約は、両家の協議の末に解消された。

 エドガー伯爵から事務所へ届いた説明では、資金の出所の虚偽に加え、確認の間も父母が私の承諾を得ようと要求を続けたことが、信頼を損なったとされていた。


 ジュリアン自身からも手紙が来た。

 父から家業の大きな取引と資金判断を任されなくなったと、書いてあった。


『君なら、父に説明できると思う。』


 その次には、私の大切さが分かったと続いていた。

 封筒には、私の返事を待つ旨も添えられていた。

 私は返事を書かなかった。


 父の手紙は、以前より短くなっていた。

 家の帳簿が滞っている。戻って整理しろ。家族なのだから、もう十分だろう。

 どの行にも、私の新しい暮らしを尋ねる言葉はなかった。


 私は父にだけ、必要な連絡は事務所を通してほしいと通知した。帰宅して帳簿を整理する依頼も断った。

 継母と妹への金銭援助はしなかった。

 ジュリアンとの面会にも、返事をしなかった。


「今後の書類は、こちらへお届けします」


 ベルナールが、私の新しい住所を確認した。

 自分で選んだ町名と、番地が書かれている。


「よろしくお願いいたします」


 私は精算報告へ署名し、控えを受け取った。

 原本の保管について最後の説明を聞く。必要な費用の支払いも済ませた。

 母の遺言の写しは、また別の封筒に収めた。


 事務所を出ると、昼の鐘が鳴り始めた。

 いつもの帰り道の角で、私は手紙の束を鞄の奥へしまった。

 今日の夕食に何を買うか、そちらのことを考えながら歩いた。


 *


 新しい住まいの窓には、薄い緑色のカーテンを掛けた。

 朝、開くと、向かいの屋根の上を鳥が二羽並んで渡っていく。

 私は湯を沸かし、その日の天気を見てから服を選ぶ。着たい服を選ぶだけなのに、引き出しの前に立つ時間が、以前より楽しかった。


 机は窓の横に置いた。

 少しずつ買い揃えたものの中では、最も高かった。店で天板を撫で、引き出しを開け、迷った末に決めた。

 納品の日には、大家が階段の下で運搬を手伝ってくれた。


「気に入ったものを選べた?」

「はい。長く使います」


 そう答えてから、私は自分の言葉に頷いた。


 母の財産は、将来のために残す分と、暮らしのために使う分に分けていた。

 給料の記録も、自分の帳面につけている。家賃、食費、衣服、本。項目の一番下には「楽しみ」と書いた欄を作った。

 最初にそこへ記入したのは、机の上に置いた、小さな陶器の花瓶の代金だった。


 書店の仕事には、もう慣れた。

 午前は伝票と帳簿を確認し、午後は印刷所から届く請求を整理する。ノエルが仕入れへ出るときには、注文の受付もする。

 彼が店を出る前に行き先と戻る予定を教えてくれることに、私はしばらく驚いていた。

 自分が尋ねなくても、必要なことを知らせてもらえた。


 ある日、閉店前の帳簿に一つだけ不明な項目が残った。

 私はそれを調べるため、棚から別の簿冊を出そうとした。


「明日、続きをお願いできますか」


 ノエルが言った。

 手元の時計は、契約した終業時刻を示していた。


「でも、あと一つですから」

「その一つを確かめるにも、仕入れ先への照会が必要でしょう。明日の朝に書面を出しましょう」


 彼は帳簿を閉じる前に、確認が必要な箇所へ紙を挟んだ。

 私は借りたペンを洗い、仕事の引き出しへ戻した。

 その夜、家で帳簿を開くことはなかった。


 最初の給料を受け取った日には、明細を読んでから署名した。

 自分の名前の下に、働いた日数と約束どおりの額があった。

 ノエルは、私が袋を持ち上げるのを待った。


「何か、記載で分からないところはありますか」

「ありません。ありがとうございます」

「こちらこそ。伝票が探しやすくなって、とても助かっています」


 私はその言葉を、店を出た後も思い出していた。

 帰り道にある菓子店へ入り、硝子のケースの前に立った。

 杏の焼き菓子が並んでいた。

 蜜の艶が、実家で見たものと同じだった。


「こちらを二つ、お願いします」


 店員は何も尋ねず、二つを紙に包んだ。

 私は代金を支払い、その包みを両手で受け取った。

 家へ帰って一つを食べると、杏の酸味の後に、焼いた生地の香ばしさが広がった。

 もう一つをどうしようか考え、私は明日の鞄に入れた。


 翌日の休憩時間、ノエルへ差し出すと、彼は少し驚いた。


「いただいても?」

「はい。初めて給料をいただいたので、買ってみました。私が好きな味だったので」


 言いながら、頬が熱くなった。

 彼は包みを開き、ひと口食べてから笑った。


「おいしい。あの角の店ですか」

「ええ」

「覚えておきます」


 彼は紙を丁寧に畳み、自分の机の端に置いた。

 私は茶杯を両手で持った。休憩の終わりの鐘が鳴るまで、二人で窓の外を見ていた。


 精算が終わった週の金曜日、店を閉める前に、ノエルが私を呼び止めた。

 手には仕事の書類を持っていなかった。


「次の休日に、散歩にお誘いしてもよいでしょうか」


 私は、店の扉に掛けた閉店の札を見た。

 それから彼を見た。


「私と、ですか」

「はい。リディアさんと」


 彼は少しだけ笑った。その指が、いつも丁寧に扱う本の背を一度なぞった。


「もちろん、ご予定があれば、また別の機会に」

「行きたいです」


 言葉が先に出た。

 彼の手が本から離れた。


「よかった。行ってみたい場所はありますか」


 私は、この町へ来てから地図につけた印を思い出した。

 庭園、川沿いの道、小さな市場。ひとりで少しずつ歩いた場所と、まだ歩いていない場所がある。


「川沿いの花市へ。夕方まで開いているそうなのですが、まだ行ったことがなくて」

「では、午前の混んでいない時間に。途中に、あの杏の菓子を売っている店もあります」 「覚えていてくださったのですね」

「好きな味だと教えていただいたので」


 私は頷いた。

 紙へ集合する場所と時間を書き、自分の予定帳に挟んだ。明日までに済ませる仕事の欄とは、別のページだった。


 その晩、台所で野菜を刻んだ。

 鍋を火に掛けると、部屋へよい匂いが広がった。窓を少し開け、夕方の空気を入れる。

 ひとり分の皿と匙を並べた。

 食事を始める前に、母のブローチを机の小箱へ戻した。普段の仕事にはつけていなかったが、精算報告を受け取る日には、胸元へ留めていた。


 小箱の下には、母の遺言の写しがある。

 私はその封筒の角を揃えた。

 自分の望む暮らしを、選べるように。

 窓辺の机、温かな食事、働いた給料、休日の約束。私は部屋の中をゆっくり見回した。


 食事を終えてから、鍵を確かめた。

 扉の内側に自分でつけた鉤へ、鍵を掛ける。朝になれば、また自分でそれを持って出かける。

 帰ってくる場所も、出かけていく先も、今は私が決めていた。


 予定帳を開き、休日の約束の横へ、小さく花瓶の絵を描いた。

 窓の外には、晴れた夜の星が見えた。


 明日は、私の好きな花を買おう。

 

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☆現在、2作品連載中です☆

不器用な辺境伯と、もう我慢したくない妻の、夫婦再恋愛ファンタジー。
『離婚寸前の辺境伯夫妻は、なぜか毎晩入れ替わる』

誰かに選ばれるためだけでなく、自分の行きたい場所へ。 靴作りから始まる、仕事と恋の物語。
『王都の靴職人は、シンデレラを帰らせたい』
― 新着の感想 ―
異母妹に乗り替えた男に分別を語られたくないな(,,・д・)
家族を名乗る薄汚い盗人はよくいるよなぁ
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