夜行準急-2
老人がまたもおもむろに口を開いた。
「今日の月はなんだか寂しげじゃな。」
青年は別にそれで驚くでもなく、返す。
「曇りの日ばかりで、なかなか月が見えないもので…比べられるような美しい空の記憶がないんですよ。」
世界の分断からもうすぐ50年になる。
陰謀論者たちが元気よく騒ぎ、人々が仮想空間で笑い合っていたあの時代のことなど、皆とうに忘れてしまった。
最も、そこに笑顔がほとんどないという点では、分断前と大して変わらないのだが。
ふと老人は、青年を見て何かに気づき、
「…もしかして、“見える”のか?」と訊いた。
青年は、老人の隣の席から向き直り「…生まれつきの体質でね」と、そう答えた。
老人は少し安心した後、また訊いた。
「…儂の隣に居る女は、笑っているか?」
青年は少し考えたあと、こう答えた。
「…女とは言われないと気づかなかったですね。でも、ちゃんと笑っていますよ。」
老人の隣の席に居る女は、そう言われて少しムスッとした顔を見せた。
老人は笑った。
ひとしきり笑った後、こう言った。
「そうかそうか。ならたぶん、本当に視えておるのじゃろう。」
「わしはこんなに生きてもまだ視えるようにはならんでな、まだまだ生き続けなきゃならんらしいわい。」
そしてまた、少し静寂が流れた。
トラス橋の音はただうるさく反響して、夜半の空に叫んでは消えていく。
鵲が黒い星々に啼いている。
枯れた天の川に橋を架けるべく、仲間を呼んでいる。
世界は何も語らず、静かに眠っている。
老人は青年に尋ねる。
「お主、名は?」と。
「村雨廉、です。名前を変えなかったので、とっくの昔に死んだ事にされているでしょうけど。」
青年はそうこだわりのない調子で答える。
老人は少し納得した様子で、
「それで、金に困っているわけではなさそうなのに寝台車を使っとらんのか。」と呟いた。
少し間を空けて、青年は聞いた。
「貴方は…名前を捨てたんですか?」
列車は丁度、線路上の石か小動物かを撥ねた。
老人は、徐に話し始める。
「少し自分語りになるのじゃが…」
「…昔、世界が上と下に砕けるより前、愛した妻がいての。
名前すら思い出せんのに、あの太陽みたいな笑顔だけはよく覚えておる。
ちょうど、お主が儂の隣に見た女じゃ。
もしあやつが生きておったら、儂は名前を変えたがらなかったじゃろうな。
下に叩き落されて貧乏暮らしになり、碌なものも食べさせてやれずに結核で呆気なく死んでしもうた。
お主の理由は知らんが、儂も名前に執着できる何かを持ちたかったな…
お陰で“アルカン”という与えられた名前以外思い出せんくなってしもうた。」
そう語る老人の目には遠い過去の、鮮やかな世界が見えたように感じられた。
廉は今一度少し妹のことを思い返そうとして、言い表せない寂しさに襲われると気づきすぐにやめた。




