"好き"ですと言わない練習会
「じゃあ、今日もやる?」
放課後のファミレス。
ドリンクバーの前で立ち止まったまま、彼女はそう言った。
「やるって何を」
「好きですって言わない練習」
もう三回目だ。
正式名称はまだ決まっていないが、僕の中ではすでに儀式に分類されている。
「前回、君が負けたからね」
「負けてない。あれは“好き”じゃなくて“好ましい”だった」
「苦しい言い訳だな」
席に戻る。
向かいに座った彼女は、メニューも開かずに背筋を伸ばした。
「ルール確認ね」
「はいはい」
彼女が指を折る。
「一、好き・愛してる・それに準ずる単語は禁止」
「二、目を見て三秒以上黙ったら負け」
「三、言いそうになったら話題を変える」
「四、負けた方が次のドリンク奢り」
「五は?」
「五は……言わなくても分かるでしょ」
分からないが、追及しない。
この練習会は、そういう“聞かない力”で成り立っている。
⸻
最初は、ただの冗談だった。
「告白したら、なんか終わりそうじゃない?」
彼女がそう言ったのは、半年くらい前だ。
夜の帰り道。駅前の自販機の明かりの下。
「終わりって?」
「今の関係が」
今の関係。
週に二、三回会って、連絡は毎日。
映画もご飯も二人きり。
手は繋ぐけど、キスはしない。
誰がどう見ても恋人だが、
僕らは一度も「付き合おう」と言っていない。
「言葉にしたら、責任が発生するでしょ」
「責任?」
「幸せにしなきゃ、とか。将来、とか」
彼女は笑っていた。
冗談みたいに。
「だからさ、言わない練習しよ」
それが始まりだった。
⸻
「じゃあ、始めよっか」
彼女がストローを咥えながら言う。
「最近どう?」
「最近?」
いきなり雑談から入るのが、彼女の戦法だ。
油断させて、うっかり言わせる。
「そうだな……平和かな」
「へえ。誰のおかげ?」
「世界の」
「私じゃないの?」
「……世界の」
彼女がニヤッとする。
「今、言いかけた」
「言ってない」
「顔に出てた」
「顔はノーカウント」
「じゃあ、これは?」
彼女はテーブル越しに身を乗り出した。
距離が近い。
香水じゃない、彼女自身の匂い。
「昨日の夜、あなたのこと考えてたんだけど」
危ない。
危険物質が運ばれてきている。
「夢?」
「現実」
三秒ルール。
沈黙は負け。
「……僕も、月のこと考えてた」
「月?」
「うん。昨日、やたら明るかったから」
「話題変えすぎ!」
彼女が笑って、机を叩いた。
「今のは回避成功でしょ」
「ずるいなあ」
でも、その目は楽しそうだった。
⸻
途中から、練習会はエスカレートした。
「遠回し選手権」
「好意を示さずに最大限好意を伝える大会」
「第三者に誤解させたら勝ち」
隣の席のカップルが、何度もこちらを見ている。
「それでね、最近思うんだけど」
彼女が言う。
「あなたといると、帰る時間が分からなくなる」
「時計を見ればいい」
「そういう意味じゃない」
また一歩、踏み込んでくる。
「一緒にいるのが、自然すぎて」
「……」
「ほら、言いそう」
「言わない」
「言って」
「言わない」
二人して笑う。
この時間が続けばいい。
続いてしまえばいい。
だから言わない。
⸻
「ねえ」
彼女が急に真面目な声になる。
「もしさ」
「うん」
「誰かに告白されたら、どうする?」
不意打ち。
「その人のこと、どう思ってるかによる」
「ふーん」
「で、君は?」
「私はね」
彼女は一拍置いた。
「今の関係を壊す可能性があるなら、断る」
それはもう、ほとんど答えだった。
「でもさ」
彼女は続ける。
「それって、ずるいとも思うんだよね」
「何が?」
「この状態」
「曖昧なまま、居心地のいいところだけ取ってる感じ」
胸が痛む。
「それでも、今は」
彼女は言葉を探すように、視線を落とした。
「今は、まだ……」
三秒。
沈黙。
僕は口を開いた。
「今は、まだ早い?」
彼女が顔を上げる。
「……それ」
彼女は笑った。
「それ、ずるい」
「何が?」
「正解みたいな言い方」
⸻
会計の時間。
「今日は引き分けかな」
「そうだね」
ドリンクは割り勘。
それも、暗黙のルールだ。
店を出ると、外はもう暗い。
駅までの道。
並んで歩く。
「ねえ」
彼女が言う。
「これ、いつまでやる?」
「さあ」
「期限決める?」
「決めたら、終わりが見える」
彼女は少し考えてから言った。
「じゃあ、終わりが見えるまででいい」
それも、ずるい言い方だ。
⸻
駅の改札前。
いつもの場所で立ち止まる。
「今日も、言わなかったね」
「うん」
彼女は少しだけ、残念そうに笑った。
「でもさ」
「うん」
「これは何なんだろうね」
答えは、もう分かっている。
でも、言葉にしない。
僕は少し考えるふりをしてから言った。
「これは――」
彼女が息を呑む。
「失いたくないって気持ちの、保留です」
彼女は一瞬、固まって。
それから、吹き出した。
「それ、反則じゃない?」
「好きって言ってない」
「言ってないけど……」
笑いながら、目の端が少しだけ赤い。
「また、やろうね」
「うん」
改札を通る前に、彼女が振り返る。
「次は負けないから」
「僕も」
電車の音に、言葉が溶ける。
好きですとは、言わなかった。
でも、そのまま、帰る気もしなかった。
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