オルヘン家の異分子
リウィアが抜け出した後のオルヘン家は、静かだった。
だがその静けさは、夜半を過ぎて壊される。
オルヘン家を今預かっているラモーナとその実娘カトリンが帰宅したからである。
彼女たちは隣の領主が開いたパーティーに招かれて参加していたのだが、気分を荒らげて帰ってきた。
そのことに館の使用人たちは〝またか〟という顔をしたが、荒ぶる彼女たちに好き勝手させ、とにかく自分たちに被害が出ないようにだけ気をつける……それがオルヘン伯爵家では日常化していた。
そもそもここで今働く使用人たちの殆どが、ラモーナの愛人・グレッグが連れてきた人間であった。
町の給仕かと思うような品のない言動が目立つ彼らは日中、人の目がなければ仕事もサボり放題だ。
時に面倒な仕事……主にラモーナが癇癪を起こして物を壊したり、カトリンがドレスの直しを命じてきた際などはリウィアに押しつけて楽をするような連中であった。
「ちょっと、リウィアはどこよ!?」
どうせこの後もリウィアのところに行って憂さ晴らしに鞭打ちでもするだろうから、その後はグレッグに頼んでご機嫌取りをしてもらって――そんな風に考えていた使用人は憤怒の形相でこちらに向かってくるラモーナにぎょっとする。
その後ろではカトリンも行儀悪く爪を噛みイライラした様子を見せているではないか。
「リ、リウィアですか? え? 日中仕事をしていたとこは見かけましたが、俺は生憎夜番で……この時間はいつも部屋にいるんじゃないスかね……?」
「いないからアンタに聞いてんのよ、役立たずね!」
本当に使えない、ラモーナはそう吐き捨てて踵を返す。
今日のパーティーだけではない。
ここのところ、何もかもが上手く行かなくてラモーナはイライラしっぱなしだった。
オルヘン伯爵家の後添えとして入り、愛人を自身の執事として雇ったまでは良かった。
お人好しな夫とその娘は、こちらが上辺だけいい人を演じればあっさりと信じて懐に入れてくれるような間抜けだったから、簡単な話だったのに。
(いつまで経ってもあたしのことを平民で運がいいだけの女と見下しやがって……!!)
ラモーナは、ひどくプライドの高い女だった。
自分は高貴な人間であると信じ生きてきた女であった。
だから今日もパーティーで生粋の貴族夫人から苦言を呈され、苛立ちを抑えるのにどれほど苦労したことか。
『もうじきそちらも跡取りの娘さんが成人でしょう? そろそろ貴女もそれに向けてしっかりなさったら? いつまでもそんな艶やかな格好をして……実の娘さんも嗜みを学んだ方がよろしくてよ』
「……ッ、なんなのよ、なんなのよなんなのよ! 人の苦労も知らないで!!」
元々ラモーナはとある貴族家の男が、奉公に来ていた商人の娘に手をつけたことによって生まれた子供だった。
その男の正妻はラモーナの母が無事に出産できるまで面倒を見てはくれたし、遊んだだけだから責任はないと言い張る男と違って慰謝料と養育費をラモーナの母親に渡してくれたそうだが、奉公先の主人と懇ろになった者を雇い続けることはできないとして解雇した。
そのせいで、母親は傷物扱いとなり――ラモーナは、その元凶として位置づけられたのである。
暮らしは不自由しなかったものの、精神的にはどれほど屈辱を味わったことか。
(せめてあたしを養女として引き取ってくれていたら……母親はともかく、あたしには貴族の血が流れているんだから!)
ラモーナは、幼いながらに正妻を恨んだ。父親を恨んだ。
自分にも尊い血が流れているのに、愛人の座にしがみついてでも手に入れることができない弱い実母のことも恨んだ。
幸いにも実母の父親、つまりラモーナの祖父の商売は安定していた。
慰謝料や養育費、そして祖父からの援助もあってラモーナは何不自由ない生活を送り続けたのである。
だが地元では『貴族に遊ばれた末にできた娘』として蔑んだ目を向けられ、身持ちの悪い女の娘だからお前も遊んでやろうかなどと言う下卑た言葉を投げかけてくる連中がいて、それがラモーナには許せなかった。
だからラモーナは早々に結婚相手を見つけ、出て行くことを選んだ。
母親は最後まで彼女の身を案じたが、ラモーナは振り返らなかった。
ラモーナの選んだ夫は、三十才以上年上だった。
先妻に先立たれたが、すでに成人した息子もいるやり手の商人だ。
夫は彼女の美貌に惚れ込んで、とにかくチヤホヤしてくれた。
若く可愛い新妻の我が儘をいくらでも聞いて、彼女に思うまま贅沢な暮らしをさせてくれた。
そうして生まれたのがカトリンだ。
しかし幸せは長く続かない。
夫は遠方への買い付け先で愛人を複数囲っていた。それは構わなかった。
腹立たしくはあったが、それでも自分の元へ戻ってくるのだ。
自分は実父の正妻と違って鷹揚な態度を取っている、そう思うことでラモーナは自分の矜持を保っていたのである。
ところが夫がその愛人たちに刺されて亡くなって、風向きが一気に悪い方へと変わる。
夫の店はあっという間に実務を手伝っていた息子たちのうちの一人が継ぎ、残されたラモーナとカトリンにはそれなりに多くの財産が残されて放り出されたのである。
だが贅沢に生きてきたラモーナは、自分で働くという考えがなかった。
実家を頼ろうにも、すでにラモーナの祖父は他界している。
気弱な母を頼ることは彼女にとって屈辱であったため、選択肢になかった。
生活水準を下げられないラモーナが幼いカトリンを抱えながら、とある町でグレッグと出会い、恋に落ちたのである。
あくまでお互いに、利用し合える相手として――だったけれども。
そして付き合いが半年ほどになろう頃、グレッグがオルヘン伯爵家の後添えになってはどうか、と持ちかけてきたのであった。
正直パッとしない男だったし、長子だとかいう娘がいるということも気に入らなかった。
ラモーナは自分の容姿に自信があったし、愛娘のカトリンも自分に似て器量よしだ。
それなのにリウィア・オルヘンはただ由緒正しき貴族家の長子というだけで大事にされているということが気に入らない。
だが、伯爵家の後添えとして貴族扱いされることは魅力的だったからこそそこは呑み込んで入り込んだのだ。
夫と義理の娘に尽くす賢母として周囲に溶け込み、伯爵夫人としての地位を高めた。
これもグレッグの入れ知恵だった。
気に入らないとはいえリウィアをぞんざいに扱えば、ラモーナの立場が悪くなる。
優しくしておけば後々まで利用できるよう懐柔もできるし、自分に従順な駒にもなることだろうと言われればその通りだと思ったからである。
しかし予想外の二人目の夫の死は、ラモーナとグレッグの計画を狂わせる。
伯爵は後添えであるラモーナに貴族夫人としての仕事はほぼ求めず、良き母として二人の娘たちの面倒を見てくれることだけでいいと言ってくれていた。
品位維持費として渡される伯爵家の財産を好きなように使っていたし、時にはもっと必要だからと経理に言って使い込んだこともある。
それゆえに、仕事をする人間がいなくなったオルヘン伯爵家の財政が悪化するのはあっという間だった。
ラモーナも、カトリンも、そして彼女らを自由にさせていたグレッグも、生活水準を下げることをしなかったからである。
夫がいなくなれば良き妻の仮面を被ることも面倒になり、グレッグと話し合って『次期伯爵だから仕事をして当然』とリウィアに伯爵家の運営を押しつけた。
それでリウィアが潰れたとしても気にすることはない。
父親を亡くしたことでリウィアは心の病にかかり、家から出られなくなった……と言えば周囲は同情し、納得もしてくれた。
その間もオルヘン伯爵家のためにと社交を欠かさないラモーナには賞賛の声すらあった。
だがそれも最初の一年、二年だ。
すぐに彼女が散財していること、いつパーティーに誘っても参加すること、オルヘン伯爵家の使用人の質が落ちたこと……そうしたことが貴族間で広まれば、立場はあっという間に崩れ去る。
それでもラモーナにはリウィアがいた。
気に入らない娘ではあるが、あれがいればオルヘン伯爵家は将来的に自分たちがまだまだいいように使えるのだ。
(まだ心が折れてなかったの?)
自分たちに従順な男を婚約者にあてがい、リウィアが成人後も自分たちに尽くすようあれほど面倒を見てやったというのにまさか逃げ出したのか。
「グレッグ、グレッグはどこなの!」
「グ、グレッグ様はまだお戻りではなくて……」
「なんですって!?」
「ひっ」
怒りのままに叫ぶラモーナに、近くにいたメイドが恐る恐る声をかけるがそれは余計に火に油を注ぐだけであった。
何もかもが気に入らないラモーナが手近にあった花瓶をなぎ払う。
いつの間にか、カトリンはそこにいなかった。部屋に戻ったのかもしれない。
「ああーーーーーもう腹が立つわねえ! 早くリウィアを連れ戻しなさい!!」
どうせどこにも行けやしないのだ。
ラモーナはリウィアから尊厳を奪い、学びを奪い、閉じ込めたのだ。
知り合いもほぼいないし、彼女を気にかけていたという母方の親族とは絶縁状態に持っていった。頼れる相手もいないのだ。
(金も持たせていないのだから、逃げ出したところでどこかで野垂れ死ぬか売られているか……なんて馬鹿な子なんだろう)
どこにも逃げ場も、頼れる相手もいないというのに。
大人しくここで搾取されていれば良かったものを。
(あと少しでオルヘン家を手に入れられるのに!)
貧しい暮らしも、貴族というステータスを失うことも、ラモーナは望まない。
自分に相応しいものを手に入れただけなのだから。




