始まりは逃走から
新作投下です!
本日は初回~5話まで、明日からは19時に更新です。よろしくお願いいたします。
(……逃げよう)
ぐいっと手の甲で鼻血を拭う。
先程義母に杖で殴られたせいだ。
誰も心配なんてしてくれない。
鼻血を出してみっともないってせせら笑った義妹も、その傍らで彼女の肩を抱きながら目をこちらに向けもしない自称婚約者も。
私を守れるのは、私だけ。
私はぐっと拳を握る。
ボロボロの室内に、私が未練を持つようなものは一つとしてないのだ。
唯一残されたのはオルヘン伯爵家の長女リウィアとしての名前だけ。
(本音を言えば、この思い出の詰まった屋敷をあいつらの好き勝手にさせたままになんかしたくない)
それでも、このままここにいたら、私の命も、貞操も、何もかもが危うい。
私はギュッとそんな未練を忘れるよう、強く強く瞼を閉じて――次に目を開いた時にはもう、振り返らなかった。
私の不幸は、両親の死から始まった。
六歳の時に母が病に倒れ、その四年後、十歳の時に父が再婚した。
再婚相手には連れ子がいて、その時はそれなりに仲良く暮らせていたと思う。
けれどその二年後、私が十二歳になったばかりの頃だったろうか。
父が領地内の視察中に事故に遭い、帰らぬ人となってから……私の扱いはすっかり変わってしまったのだ。
義母は彼女の実子だけを可愛がる。
私はメイド扱いだ。
気づけば使用人の数は一人、また一人減っていった。
自分たちが贅沢できないから、余計な使用人を雇っているのは無駄だって。
その分、私が働けと言われた。
(でも、もうそれもおしまいよ)
この国、ユノス王国での成人は二十歳。
つまり私が成人するまで、あと半年。
義母が可愛くもない私をずっと手元に置いて、外に出そうとしなかったのは私に爵位継承権があるからだ。
執務や雑事をやらされて、令嬢として学ぶべきことや社交デビューは一切していない私は成人する時も義母の手を借りなければならない状況に追い込まれている。
けれど、逆を言えば今こそと思うのだ。
(今日が最後のチャンス……)
これを逃したら、次はいつになるかわからない。
残り半年という限られた期間の間に、同じ幸運があと何度あるか。
義母と義妹はどこかのパーティーへ。
義母の愛人である執事のグレッグは予定があるとかで出かけた。
私に大量の仕事と雑務を言い渡す時の、あの三人の見下す表情を思い出すと足が震える。
逃げ出すためにずっと計画していた。
オルヘン家の印章でもある指輪は義母に奪われたままだけれど、このままでは義母が連れてきた婚約者と結婚させられ、これまでと同じ奴隷同然の生活が待っていることは明らかだ。
結婚式は成人したらすぐという話だけど、逃がさないように既成事実を作るべきかなんて話をしているのを聞いて逃げる決意が固まった。
(でも、もし……もし、見つかったら? 連れ戻されたら……)
また鞭で叩かれる? ご飯を抜かれるどころか、泥を口の中に入れられる?
今はまだ館の中でならある程度の自由は許されていても、それすら許されなくなるかもしれない?
あの人たちならやりかねない。
そうした経験が、私を竦ませる。
だけど……だけどもうこんな生活はごめんだ。
(諦めちゃだめよね)
私はもう大人なのだ。
あの人たちに対抗するこのチャンスを、ずっと諦めずにいたのだ。
今は何も持ち出せない。
私は私が『リウィア・オルヘン』である証明を、何も持っていないのだ。
何を持ち出しても、私の……オルヘン家の財産だから私が私のものだと証明することなんてできない。
(悔しい)
両親と暮らした家を離れる。
十二歳からずっと、閉じ込められてきたことを思えばいい思い出なんてないに等しいけど――
「いつか取り戻すわ」
決意を新たに、何もない物置部屋で私は誓う。
私は、決して、諦めない。




