王牌リウ殺人事件:序章
放課後の教室は、甘ったるい喧騒に満ちていた。
ストーブの乾いた熱気と、誰かがこぼした消しゴムのカス、そして、恋愛という名の集団幻想。それらが混ざり合い、私の思考を鈍らせる。
「リウちゃんってさ、本当に完璧だよね! 頭いいし、可愛いし、おまけにあの王牌財閥のお嬢様だよ?」
「わかるー! まじで非の打ちどころがないっていうか、神様は不公平すぎ!」
「しかも、全然偉ぶらないし、いつもニコニコしてて優しいし……」
そんな声が、私の耳朶をくすぐる。
完璧? 非の打ちどころがない? 優しい?
笑止千万。
彼女たちは、私という人間を本当に見ているわけではない。ただ、私のラベルを読んでいるだけだ。王牌財閥の令嬢というステータス、整った容姿、学業成績の優秀さ。それら『記号』の集合体が、彼女たちの眼には『王牌リウ』として映っているに過ぎない。
私は静かに教科書を閉じ、隣の席でノートを広げているクラスメイト――藤崎さんのペンケースに目をやった。色とりどりの文房具がぎっしりと詰まっている。
「藤崎さん、その蛍光ペンの色、綺麗ね」
私はにこやかに話しかけた。
藤崎さんは、はっと顔を上げて、恐縮したように身体を強張らせる。
「え、あ、ありがとうございます……! 王牌さんにそう言ってもらえるなんて……!」
ああ、まただわ。この反応。
私が話しかけただけで、なぜそんなに恐縮するの? 私の言葉自体ではなく、私が「王牌リウ」であるという事実が、彼女の反応を規定している。そこに私の意思も、思想も、感情も介在する余地はない。
「みんなの話、聞こえてた? 王牌さんって、本当に愛されてるよね!」
別の女子が、興奮したように話しかけてきた。
「ええ、とても光栄だわ」
私は模範解答の笑顔を返す。心臓の奥が、氷のように冷たいままだ。
「……あの、王牌さん」
不意に、鈴の鳴るような声が鼓膜を揺らした。見ると、クラスの天使だか聖母だかと崇められている少女、愛川 光が、私の机の前に立っていた。背後の窓から差し込む西日が、彼女の輪郭を金色に縁取っている。非現実的なほど綺麗な光景だったが、それもただの光の散乱現象に過ぎない。
「なにかしら?」
愛川さんは少し困ったように眉を下げ、クラスの女子グループをちらりと見た。
「みんなの話、聞こえてた? なんだか、王牌さんだけ、すごくつまらなさそうだったから……」
「存在しないものについて語り合うのは、時間の無駄ですもの」
私は即答した。
「存在しないって……愛のこと?」
愛川さんは、信じられないものを見るような目で私を見つめた。その純粋な瞳は、何の疑いもなく『愛』の実在を信じている者のそれだ。
「ええ」
私は頷き、退屈しのぎに、この哀れな信者に世界の真理を説いてあげることにした。
「いいかしら、愛川さん。例えば、唐突に…そうね、猛烈にラーメンが食べたくなる感情があるとするわ。これを仮に『ラ情』と定義しましょう」
「らじょう……?」
「ええ、『ラ情』よ。さて、一部の人間がこう主張し始めたらどう思うかしら?『なぜ人間の心にはラ情があるのでしょう? ラーメンに対する単なる食欲と、ラ情はまったくの別物です。食欲は生存本能に根差した卑しいものですが、ラ情は魂を震わせる崇高な感情なのです』と。……滑稽だと思わない?」
愛川さんはきょとんとしている。比喩が理解できていないらしい。
「愛なんてものは、その『ラ情』と同じなのよ。生殖本能、承認欲求、孤独への恐怖、自己顕示欲。そういった、ありふれた感情や本能をごちゃ混ぜにして、詩人や小説家が『愛』という綺麗なラベルを貼っただけの似非科学。スピリチュアルな戯言に過ぎないわ」
「そ、そんなことないわ!」
愛川さんは慌てたように首を横に振った。
「人には、思いやりがあるもの! 誰かのために、自分を犠牲にできる気持ちが……それが愛じゃない!」
出たわね、自己犠牲の、一般論。反論としてはテンプレ中のテンプレだわ。
「自己犠牲なんて、より高度な自己満足よ。あるいは、将来的な見返りを期待した投資行動、もしくは『自分はこんなにも献身的だ』という優越感に浸るためのショー。最終的なリターンは、すべて自分自身に還ってくるの。純度百パーセントの利他行動など、この宇宙のどこにも存在しないわ」
私は窓の外に目をやった。グラウンドではサッカー部が泥にまみれ、校舎の裏では誰かが誰かの悪口を言っているでしょうね。世界はいつだってそうなの。
「この世の本質は、もっとシンプルよ。略奪、破壊、自己増殖、そして肥大化。ただそれだけ。植物は隣の木よりも高く伸びて光を略奪し、動物は他の命を破壊して喰らい、自らを増殖させる。人間社会も同じことですわ。法律とマナーという名の洗練された、小綺麗なルールの上で、富や名声や承認を奪い合っているに過ぎないの」
「……」
愛川さんは唇をきつく結び、俯いてしまった。論理で反論できないから、感情で抵抗しようとしている。でも、事実は感情では覆らないわ。
私は最後の一撃を放つことにした。
「もし……あなたの言う『愛』とやらが普遍的に存在するなら、説明してくださる? なぜ、何の得にもならないのに、自腹を切ってまで他人をいじめる人間がいるのかしら?」
「え……?」
「いじめのことよ。あれは金銭的な利益を生まないわ。むしろ、時間や労力というコストを支払って、ターゲットを精神的、肉体的に破壊する行為。あれこそ、人間の本性の一端なの。他者を支配し、破壊することそのものに快感を覚えるという、純粋な衝動。略奪と破壊の原理に基づいた、極めて合理的な行動よ。愛なんていうフワフワした幻想より、よほど説得力があると思わない?」
教室の喧騒が、嘘のように遠くに聞こえる。
愛川さんは何も言えずに、ただ、小さな拳を握りしめていた。その瞳が、わずかに潤んでいるように見えた。
「……王牌さんの言ってること……なんだかすごく、寂しいよ」
やっと絞り出したのは、そんな陳腐な感想だった。
「寂しいかどうかは、事実とは何の関係もないわ。なものはない。それだけのことですわ」
愛。
そんなもの、この世に存在しない。断言できるわ。
なぜなら、私はそれを、最も身近な存在から叩き込まれてきたから。
私の両親。世間からは理想的な夫婦として、私を慈しむ教育者として見られている。けれど、彼らの私への接し方は、まるで上質な美術品に対するものだった。
「リウ、もっと良い成績を取りなさい。それが、王牌家の娘としての価値だ」
「リウ、そのドレスは貴女の肌の色に合わないわ。私たちの顔に泥を塗る気?」
彼らは私を褒める時も、叱る時も、常に「王牌家の娘」という枠を通して見ていた。
一度、テストで満点を取れなかった日、私は父に「お前は、欠陥品だ」と言われた。その冷たい声は、今も私の鼓膜に張り付いている。
母は、私が気に入らない行動を取るたびに、私を何時間も鏡の前に立たせてこう言った。
「その顔をよく見なさい。これは、王牌家の顔よ。貴女個人のものじゃない。この顔に相応しい振る舞いをしなさい」
彼らの目に映っていたのは、私という一個の人間ではない。
彼らの『体面』を飾るための、精巧な人形。彼らの『期待』を完璧に演じるための、優秀な道具。
愛情? 抱擁? 温かい言葉?
そんなものは、一度も向けられたことがない。
私にとって『愛』とは、空腹時に急にラーメンが食べたくなるような、意味不明で非論理的な感情「ラ情」と同レベルの、非実在性崇高概念なのよ。
生殖本能を満たすための契約。社会的な承認を得るための儀式。自己の欠落を埋めるための、都合の良い幻想。
それらが複雑に絡み合い、最終的に『愛』という美しいラベルが貼られる。
私は冷めた目で、また恋愛話に花を咲かせ始めたクラスメイトたちを眺める。
「ねえ、リウちゃんはどんな人がタイプなの?」
「うーん……そうね。私を、私として見てくれる人かしら?」
私はにっこり笑って、そう答えた。
月日は流れ、私は名門大学を主席で卒業し、誰もが羨むようなキャリアを順調に歩んでいた。誰もが私を賞賛し、私の周りには常に人が溢れていた。
だけど、そのすべてが、偽物だった。
私を褒め称える声は、私の肩書や容姿、振る舞いに対するもの。私の内面、私の思想、私の魂の叫び――そのすべてを、彼らは知ろうともしない。知ったところで、理解できるはずもないわ。
ある夜、私は豪奢な自室で、一枚の絵を描き始めた。
衝動だった。
それは、言葉にならないほどの、底知れぬ恨みと悲しみだった。
愛という名の欺瞞に満ちた世界への、絶望的な怒り。
誰からも理解されず、ただ『記号』として扱われ続けた、私自身の魂の叫び。
キャンバスに描かれるのは、破壊された世界。
美しく着飾った人々が、互いを食い物にし、瓦礫の上で笑いあう。
空には、肥大化した自己増殖のシンボルが、醜悪に輝いている。
それは、私が見てきた世界の真実の姿だった。
筆を握る手が震えた。
私の心臓の奥底で、何かが激しく脈打ち始める。
この、誰にも理解されない、悍ましいほどの感情。
他者への憎悪。世界への絶望。そして、自分自身への虚無感。
もしかしたら、これこそが、かつて誰かが「愛」と呼んだものの、真の姿なのかもしれない。
人を狂気に駆り立て、世界を破壊するほどの、とてつもないエネルギー。
そうよ。
この世界は、愛などというまやかしで塗り固められているから、こんなにも醜いのよ。
ならば、私が壊してしまえばいい。
この感情を、この破壊衝動を、芸術という名の武器に変えましょう。
私の内側で暴れ狂う、この底知れぬ恨みと悲しみ、そしてそれに他ならない『愛』とやらを原動力に、私はこの世を根本から破壊する。
偽りの愛を信じ続ける人類に、真実の絶望を見せてあげる。
私は筆を置いた。
完成した絵は、どこか恐ろしく、そしてどこか、狂おしいほどに美しかった。
私の瞳には、初めて、感情の炎が宿っていた。
それが何色であるのか、私自身にもまだわからない。
ただ一つ確かなのは、その炎が、この偽りの世界を焼き尽くすまで、決して消えることはないということよ。
私の「破壊」は、ここから始まるの。