“筆を折れ”と言われましたが、わたくしは“キャンバス”に想いを描きましたわ
王立美術館の荘厳な正面階段を、伯爵令嬢──サンディ・マールダードは緊張に震える足取りで上っていた。
「ここに……わたくしの絵が……」
王宮主催の絵画コンクール。彼女の応募作が初めて展示される日だった。
応募作は一週間、美術館に展示され、その期間中に行われる一般投票によって優秀作が選ばれる。最優秀作に選ばれれば、美術館に飾られるだけでなく、高値で取引され、宮廷画家への道も開かれる。
サンディの胸の内では期待と不安がせめぎ合う。これまで絵を見せたのは、両親と兄だけ。大勢の目に晒されるのは初めてだった。
展示室の奥、自分の作品を見つけた瞬間、サンディの青い瞳は大きく見開かれる。
「わぁ……」
心臓が高鳴り、応募してよかったと、素直に思えた。
──だが、その喜びは長く続かなかった。
「まあ……これはなんて粗雑な絵でしょう」
展示室に響き渡る刺々しい声。観客たちが一斉にそちらを振り向く。
絢爛な真紅のドレスに身を包み、長い金髪をゆるやかに巻き上げた侯爵令嬢──カタリナ・フォンテーヌが、サンディの絵の前に立っていた。
「ご覧くださいませ。この雑な筆致、輪郭も曖昧で、描こうとしたものさえ判然といたしませんわ。王立美術館にふさわしいのは、もっと精緻で規範に則った作品でしょう」
サンディは小さく唇を噛んだ。胸の奥で反論の声が渦巻いたが、幼いころから「社交の場での無作法は令嬢にあるまじきこと」と言い聞かされてきた。だから彼女はただ拳を握りしめ、沈黙を選んだ。
「この絵は自由すぎますの。技術も未熟、形も崩れて……まるで子どもの落書きですわ」
観客の間からくすくすと笑い声が漏れる。
カタリナはあえて声を響かせ、人々を自らの作品へと誘導していった。
「まぁ、これがカタリナ嬢の新作だそうよ」
「なんて美しい……色彩も構図も完璧だわ」
「今回も間違いなく、一位は彼女だろう」
飾られていたのは、天を仰ぐ聖女を描いた荘厳な大作。衣のひだ一つひとつまで緻密に描かれ、全体は金とも銀ともつかぬ幻想的な輝きを放っている。
観客たちは感嘆の声を上げ、次々と投票札を入れていく。
その光景を見つめながら、サンディの胸には焼けつくような悔しさが広がっていった。
──そして一週間後。
王立美術館のエントランスに掲げられた結果には、カタリナ・フォンテーヌの名の横に『356票』と誇らしげな数字が記されていた。他の常連画家たちも軒並み百票を超えている。
サンディは震える指で最下段を探す。
『サンディ・マールダード 1票』
その数字を見た瞬間、胸が締めつけられるように痛んだ。
◇
コンクールが終わってからというもの、サンディは毎日のように王立美術館に足を運んでいた。
展示作品をじっと観察し、そこから学んだことを自分の絵に反映させる。
(どれも似たような構図や色使いばかり……。でも、こういう作風が評価されるのかしら……)
そんな思案に沈んでいたとき、不意に背後から声をかけられた。
「サンディ嬢……お一人ですかな?」
振り返った先に、背の高い青年が立っていた。
茶色の髪に、琥珀色の瞳──公爵家の嫡男、ジョルジュ・グロース。
王立美術館の管理はもともとグロース家の管轄だったが、現在は実質的にジョルジュがその権限を掌握していた。
「ジ、ジョルジュ様……」
思わず声が震える。サンディにとって、彼は苦手な相手だった。
ジョルジュはにこやかに歩み寄り、声を落として囁く。
「先のコンクールの結果をご覧になったでしょう? 君の絵は、残念ながら最下位でしたな」
サンディの胸に、鋭い痛みが走った。言葉が出てこない。
「だからこそ、私は再び提案するのです。絵の道など諦め、私の隣に立つ未来を選ぶべきだと。私と婚約し、すぐにでも公爵家の嫁としての準備を始めるべきです」
「……わ、わたくしは……」
サンディは目を伏せ、両手をぎゅっと握りしめた。
絵を描くことは、彼女のすべてだった。幼いころから筆を持ち、色を重ねることで初めて心を表現できると知った。それを否定されることは、存在そのものを否定されるに等しい。
「何度も申し上げました……お断りいたします」
小さくもはっきりとそう告げると、ジョルジュの眉がぴくりと動いた。
「……また拒むのですか。だが、私との婚約こそが君が幸せになる唯一の道。絵を描いても誰も認めない、誰も幸せにならない。それでもなお、筆を握るつもりか?」
サンディの胸を抉るような言葉。けれど、彼女は懸命に声を絞り出す。
「……おやめください。わたくしは半年後のコンクールに向けて、新しい作品を描いております。わたくしは絵を描くことが好きなのです」
ジョルジュは一瞬、口元に冷たい笑みを浮かべた。
「ふ……そうですか。では半年後が楽しみですな。もっとも、無駄な努力だったと気づくだけでしょうが」
そう吐き捨てるように言い残し、背を向けて去っていった。
残されたサンディは、ぎゅっと拳を握りしめる。
(次のコンクールこそ……必ず、多くの方々から評価を得てみせますわ!)
◇
半年後。
サンディは必死に筆を重ね、一枚の絵を仕上げて再びコンクールに挑んだ。
しかし、結果はあまりにも無情だった。
『サンディ・マールダード 0票』
その数字を目にした瞬間、胸にのしかかったのは敗北ではなく、まるで存在そのものを否定されたかのような、冷たく重苦しい絶望だった。
打ちひしがれたサンディは、美術館近くの池のほとりに立ち尽くしていた。
「やはり無駄な努力だったようですな」
背後から落ち着いた声が響く。振り返らずとも、ジョルジュだと分かった。
サンディは胸の奥に渦巻く悲しみを必死に押し隠し、顔を伏せたまま動かない。
「君には絵を描く才能はない。諦めて筆を折り、私と婚約なさい。そうすれば美術館の管理を任せても良い。私の妻になれば、好きな絵に囲まれて暮らせるのですよ」
胸を抉るような言葉に、サンディはかすれる声を絞り出した。
「わ、わたくしは……絵が……絵を描くことが……」
ジョルジュは目を細め、口元をわずかに歪める。
「……ふっ、まあいいでしょう。返事はいつでも結構。もっとも、君が選ぶ未来は一つしかないのですが……」
そう言い残し、ジョルジュは去っていった。
(わたくしは絵を描くことが好きなはず……。けれど……先ほどは、すぐに答えられなかった。本当に好きなのか、わからなくなっている……。胸が苦しい……)
そのとき──
パキッ。
木陰から枝の折れる音がした。
「誰……?」
サンディが振り返ると、そこから一人の青年が現れた。金色の髪に青い瞳、端正な顔立ちをしている。
「あ、す、すみません! 聞き耳を立てるつもりはなかったんです」
慌てて謝る青年。
「……僕は絵が好きで、この美術館は僕にとって大好きな場所です。けれど……悲しそうなあなたを見かけて、つい追いかけて来てしまいました」
真っ直ぐな眼差しに、サンディは息を呑んだ。
「嘘をついたり、ごまかしたりなさらないのですね」
「もちろんです! 僕は嘘が嫌いですから。正直が一番です!」
その言葉に、サンディはふっと笑みを浮かべた。
「……ふふ。よろしければ……お話を聞いていただけますか?」
「もちろんです。あ、怪しい者ではありません! 美術館の方に確かめてもらっても構いませんから!」
「大丈夫ですわ。ありがとうございます。……わたくし、久し振りに笑った気がします」
サンディはこれまでのことを、少しずつ語り始めた。
「初めてのコンクールでは最下位……。二度目のコンクールでは、票すら一つも入らなかった……。わたくし……苦しかったのです。誰からも認められない絵を描き続けることが……」
語り終えると、青年は静かに問いかけた。
「あなたは……何のために、誰のために絵を描いているのですか?」
その一言に、サンディははっとした。
コンクールに挑んで以来、評価を得ることばかりを考え、いつの間にか自由に描く楽しさを忘れていたのだ。
「わ、わたくしは……」
答えを探そうとしたその瞬間、青年はサンディの手を取った。
「せっかくですから、僕の馬車で行きましょう。もうひとつの大好きな場所へ」
「あ、あの……お待ちください……!」
サンディの制止も聞かず、青年はぐいぐいと彼女を引っ張っていった。
◇
馬車にたどり着くと、御者台に座っていた老紳士が問いかけた。
「そちらのお方は?」
青年が振り返り、柔らかな笑みを浮かべる。
「そういえば、まだお名前を伺っていませんでしたね。僕はフィンと申します。あなたは?」
「わたくしは……サンディ。サンディ・マールダードです」
「サンディって……」
その名を口にした瞬間、フィンの青い瞳がわずかに揺れる。
「マールダード伯爵家のご令嬢であられますな、でん……フィン様。サンディ様、私はヨハネスと申します」
老紳士が恭しく告げた。
「ああ、でも……。ヨハネス、少し調べて欲しいことがある」
フィンはそう言い、ヨハネスに耳打ちをした。
──その後。
三人の乗った馬車は森の奥に広がる湖へと到着する。
「ここは……」
サンディは思わず息をのんだ。
目の前に広がるのはヴィレル湖。
昼下がりの光を受けて水面は透き通るような青にきらめき、雲を映してゆらゆらと揺れていた。
「わたくし……何度か訪れたことがあります」
「そうですか。ここは観光名所ですからね。季節や時間によって湖面の色が変わって見えます。放浪の画家たちも、よく訪れる場所ですよ」
湖を眺めていたフィンが振り返り言った。
「よし……僕たちも放浪の画家になりましょう」
いたずらっぽく微笑むと、彼はキャンバスを二台並べた。湖畔に並んだ白い布が、陽射しを受けてまぶしく輝く。
フィンは湖を見つめ、静かに筆をとった。
「僕は絵が上手じゃないし、誰からも評価されたことがない。ヨハネスにもよく笑われます。でも……描いているときが一番幸せなんです」
そう言って、空に浮かぶ雲を指さす。
「あの雲……ほら、ドラゴンに見えませんか?」
「え?」
「うん、僕の絵にはドラゴンを登場させよう。白くて優しい、空を泳ぐドラゴンです」
サンディは目を丸くする。
「そんな……おかしな絵、見たことありませんわ」
「ええ、だからいいんです。絵にルールなんてありません。心が感じたままを描けばいい。楽しく描ければ、それでいいんです」
その真っ直ぐな言葉に、サンディの胸の奥に温かなものが広がっていく。気づけば、自然と笑みがこぼれていた。
「そうですわね……。わたくしも描きます。湖の上で舞う妖精を……。誰も見たことがなくても、わたくしが見てみたいものを」
二人は顔を見合わせ、青空の下で微笑み合った。
◇
それからの日々、サンディは毎日のように、フィンと共にヴィレル湖を訪れた。
フィンは飽きることなくキャンバスを広げ、湖や森、空に浮かぶ雲を題材に絵を描き続ける。サンディもまた、その隣で筆を取り、心の赴くままに色をのせていった。
ある日は、風に揺れる湖面を描き
ある日は、森の小径に差し込む光を写し
またある日は、白い雲をさまざまな動物に見立てて筆を走らせた。
「ほら、今日の雲は大きな兎ですわ!」
「いいですね! じゃあ僕はその兎の背中に乗る小人を描きます!」
そんなやり取りをしながら、笑い合う時間が過ぎていく。
サンディはふと気づく。筆を握っているとき、今までにないほど心が軽く、楽しい。評価など気にすることなく、ただ「描きたいから描く」という純粋な喜びが胸を満たしていた。
そして、視線の先にいつもいるのはフィンだった。
夢中で描くときの真剣な横顔。
描き終えたあと、少し照れたように笑う笑顔。
どれもこれも、胸の奥をほんのり温かくする。
(どうしてかしら……。フィン様と一緒にいると、胸がこんなに高鳴るなんて……)
不思議でならなかった。
ただ、彼と並んで絵を描くこのひとときが、かけがえのない宝物のように思える──その事実だけを、大切に抱きしめていた。
◇
ある日。
ヴィレル湖に、異国の年老いた放浪画家が姿を現した。サンディもフィンもすぐに打ち解け、共に湖畔に腰を下ろす。
「以前に来たのは……半年ほど前かな。だいたい半年に一度くらいは、この国を訪れるんだ」
そう言う画家に、フィンが尋ねる。
「毎回、この湖に来られるんですか?」
「いや、ここに足を運ぶのは初めてだ」
「では……なぜ、この国に?」
問いかけに、画家はわずかに視線を揺らし、笑みを作った。
「ワシの絵を、この国では高値で買ってくれるのだよ」
そう答えたものの、どこか話を逸らすようにして、腰の袋から小瓶を取り出した。
「君たちも絵を学んでいるのだろう? なら、特別にこれをあげよう」
瓶の中には、光を受けて宝石のように輝く絵の具が収められていた。金とも銀ともつかぬ、幻想的な輝きを放っている。
「これは、ワシの家に代々伝わる特別な絵の具だ。ひと目で分かる独特の光沢があるだろう?」
サンディもフィンも、思わず息をのむ。
「……こんな絵の具、誰にでも作れるんですか?」
フィンが問いかける。
「いや、この岩石はワシの家の近くでしか採れん。作り方を知っていても、材料がなければどうにもならない」
「じゃあ……この絵の具を、誰かに渡したことは?」
「ない。君たちが初めてだよ」
画家はそう強調した。
「なるほど……」
フィンはそう答えたあと、考え込むように口を閉ざした。
──数日後。
「今度のコンクールに応募なさらないのですか?」
「……正直、迷っているんです。いまはただ、楽しく描けることが幸せで。けれど、応募してまた評価されなかったらと思うと……」
「そうですか……」
フィンは少し考え込むように言葉を選び、やがて真っ直ぐにサンディを見た。
「でも、あなたの絵には、人を楽しい気持ちにさせる力があります。僕のように、心から良いと感じる人が必ずいるはずです。その人たちのためにも、ぜひ応募してほしい。一週間でも王立美術館に飾られるべきだと思います」
珍しく熱を帯びた口調に、サンディは思わず口もとをほころばせた。
「それに……もしかしたら、時代がまだ、あなたの作品に追いついていないだけかもしれません。ほら、死後に評価される画家もいますから」
その真顔に、サンディはプッと吹き出してしまう。
「できれば、生きているうちに評価されたいものですわね」
二人は顔を見合わせ、同時に笑い合いながら、自然と筆を取った。
(初めてのコンクールでの一票……。あれはきっと、わたくしの絵から楽しさを感じ取ってくださったから。たった一人でも、わたくしの絵を喜んでくれる方がいるのなら──わたくしはコンクールに応募します。たとえ、評価が得られなくても)
そう胸に誓い、サンディはキャンバスに向かった。
◇
荘厳な雰囲気に包まれた、半年に一度の絵画コンクール会場。
壁一面に並ぶ応募作の中で、ひときわ人々を惹きつけていたのは──サンディの絵だった。
やわらかな木漏れ日が小径を照らし、湖は鏡のようにきらめく。その前景には優雅に踊る男女の姿。まるで絵の中から音楽が流れ出すかのようで、見る者の心をそっと包み込み、気づけば誰もが微笑んでいた。
そこへ、絢爛なドレスをまとったカタリナが現れる。注目を浴びることを知り尽くしたように一歩進み出ると、わざとらしくため息を漏らし、声を張り上げた。
「まあ……これが出品作? なんてひどいこと。構図は稚拙、色彩は子どもの落書き同然。観客の皆さまも、こんなものを見せられては迷惑でしょう」
張りつめる空気。サンディの胸がざわめく。だが、今回は沈黙しなかった。
「なぜ、わたくしの作品ばかり非難なさるのです?」
澄んだ声が会場に響く。
「わたくしの才能が怖いから? それとも……自由な作風が羨ましいからですか?」
「なっ──!」
カタリナの頬が紅潮する。
「馬鹿げた言い掛かりはやめてくださる? 私は正しい評価をしているだけです! こんな素人じみた作品を応募するなんて、どうかしていますわ!」
サンディは落ち着いた微笑を浮かべたまま告げた。
「観客の皆さまは画家ではありません。だからこそ、飾らぬ心で絵を楽しめるのです。技術や構図を知らなければ鑑賞してはならない──そんな決まりはどこにもございません」
一拍置き、真っ直ぐに視線を向ける。
「それに……他人の作品を貶めることは、ご自身の価値を下げることになる──お気づきではありませんの?」
凛とした声が響き、観客の間にざわめきが広がった。
やがて、一人の子どもがサンディの絵を指差す。
「ねえ、見て! 光ってる!」
人々の視線が一斉に注がれる。サンディの絵が、命を宿したかのように金とも銀ともつかぬ幻想的な光を放っていた。
「これって……カタリナ嬢の絵と同じ……」
観客の一人が小さく呟く。
「ど……どうして……?」
カタリナの声が震える。その問いに、サンディが静かに答える。
「その絵の具は、この国では誰ひとりとして作り出せず、決して手に入るはずのない特別なもの……。それが、なぜ──カタリナ様の作品にも用いられているのですか?」
そのとき──会場の扉が開き、フィンとあの放浪の画家が姿を現す。
「こ、これは……」
画家は、カタリナが「自作」として応募した一枚の前で立ち尽くす。
「……ワシの絵だ。かつてこの国で高値で売ったものだ……」
会場は騒然となった。
フィンが一歩前に出る。
「この方は証人です。カタリナ嬢は買い取った作品を、自作と偽って応募していたのです」
「そ、そんな……!」
カタリナの顔が青ざめる。
サンディの絵が放つ光と、放浪画家の証言。その二つが重なったとき、彼女の偽りは完全に暴かれた。
観客の視線が一斉にカタリナへ注がれる。
「ち、違うの……! 私は必死にいろんな作風に挑戦したのに、評価されるのはいつも同じような構図ばかり……。努力する意味がなくなるでしょう!? 私は悪くない! 悪いのは観客よ! あなたたちが私の作品を評価しないから、こんなことになったのよ!!」
悲鳴にも似た叫びが、静まり返った会場に虚しく響いた。
サンディは一歩踏み出し、静かに告げる。
「評価を追い求めることや技術を磨くこと、それ自体は大切かもしれません。けれど──絵を描くということは、本来もっと自由で、楽しいはずです。カタリナ様……あなたも初めて筆を取ったときは、そうではなかったのですか」
その穏やかな声に、カタリナの顔がみるみる歪む。無理に笑みを繕おうとしても口もとが引きつり、化粧の下からにじんだ涙が頬を伝う。
「わ……私は……っ」
かろうじて絞り出した声は嗚咽に呑み込まれ、気高き令嬢の姿はもはやない。観客の前で子どものように取り乱し、みっともなく泣き崩れるのだった。
──そのとき。
重厚な足音が階段を上がってきた。
王立美術館の管理を任される、公爵家の嫡男──ジョルジュ・グロースである。
「騒ぎは何事だ……」
低く響く声。ジョルジュは会場を一望し、泣き崩れるカタリナに視線を止めた。
「皆さん、落ち着いてください。混乱は望ましくありません」
あくまで冷静を装う声色だったが、その奥には自己保身の響きが混じっていた。
そのとき、フィンが前へ進み出る。
落ち着いた声音に、揺るぎない光を宿した瞳。
「ジョルジュ様。カタリナ嬢の不正は暴かれました。しかし、まだ明らかになっていないもう一つの不正があります。それは──あなたに関するものです」
「なっ……何を言う、貴様!」
ジョルジュの顔がこわばる。
フィンは一枚の紙を掲げ、はっきりと言い放った。
「ヨハネスがあっさりと手に入れてくれました。改竄前の集計結果です。前回も前々回も、サンディ嬢には多くの票が入っていました。だが、あなたの手によって操作され、最下位にされたのです」
観客が一斉に息を呑む。鋭い視線がジョルジュに突き刺さった。
「不正の目的は明白です。サンディ嬢に絵の道を諦めさせ、カタリナ嬢の作品の価値を上げるため。事実、カタリナ嬢の“作品”は他国の美術商や貴族に高値で売られていた」
「ま、待て! そんな証拠、信じられるものか……!」
ジョルジュの声は震え、顔面は蒼白になる。
フィンは淡々と続けた。
「僕は前回、サンディ嬢に投票しました。しかし、最終的に“0票”。その不自然さに気づき、ヨハネスへ調査を依頼しました。──おそらく彼女を打ちのめすために“0”にしたのでしょう。だが、それこそが不正の疑いを持つきっかけとなりました」
会場は騒然となり、ジョルジュのこめかみに冷や汗が伝う。
そしてフィンは、堂々と告げた。
「王の勅命により、今後、美術館の管理はこの僕が担います」
「はあ? なぜだ……! どこの馬の骨とも知れぬ貴様が……!」
必死に叫ぶジョルジュに、フィンは冷ややかに言葉を返す。
「公爵家の嫡男ともあろう者が、この国の王子の顔を忘れたのですか」
その一言に、ジョルジュは凍りついた。
「……まさか……王子……フィンセント王子……!」
会場にざわめきが走る。──フィンの正体、それはこの国の第三王子、フィンセントであった。
サンディは驚きに息を呑む。
カタリナは涙に濡れたまま、言葉を失っていた。
フィンセントは揺るぎない眼差しで、ジョルジュとカタリナを射抜くように見据えた。
「絵とは、描く者も見る者も、自由に楽しむもの。そこに私利私欲も、不正も不要です。これ以上、芸術を愚弄することは断じて許さない」
「う……うあぁぁぁ……!」
ジョルジュは絶叫し、力尽きたように膝から崩れ落ちた。
かつて尊大に人を見下していた面影は消え失せ、そこにあるのは、卑小で哀れな敗者の残骸だけだった。
みっともなく泣き叫ぶジョルジュの隣で、カタリナも顔を覆い、震える声で嗚咽を漏らす。
その惨めな姿は人々の前に容赦なくさらされ、二人の栄光は無残にも剥ぎ取られていった。
これが、己の欲で芸術を汚した者の末路。同情の余地などひとかけらも残されてはいなかった。
◇
一週間後。
フィンセントとサンディは、再びヴィレル湖を訪れていた。
「コンクール……残念でしたね」
湖面を眺めながら、フィンセントが静かに口を開く。
「いいえ、十分ですわ」
サンディは小さく微笑んで答える。
「あの絵なら、一位を取れると思ったんですけど」
「うふふ……二位でも嬉しいのです。あの絵は、わたくしの今の想いを込めたもの……。それを多くの方に受け止めていただけて、それだけで幸せですわ」
頬を淡く染めながら語るサンディ。その横顔に、フィンセントも自然と微笑みを返した。
「そういえば……あの絵に描かれていた二人は……」
期待をにじませた問いかけに、サンディは耳まで真っ赤になる。
「そ、それは……」
視線を逸らし、指先をもじもじと動かしながら、やがて勇気を振り絞って告げる。
「わたくし……と、フィンセント様……ですわ」
その一言に、フィンセントの瞳が穏やかに細められる。
「……嬉しいです」
そう囁いて、彼はサンディをそっと抱き寄せた。
(乗り越えるべき壁は幾つもあるでしょう。けれど──わたくしは、フィンセント様と共に未来を描いていきます)
ヴィレル湖の水面は、黄金の光を受けてきらめき、寄り添う二人を静かに映し出していた。
過去の私が抱いた想いも、葛藤も、この物語の中に織り込みました。
物語を描き、読み、感想を共有し合う──それらすべてが楽しいものであることを願って、この作品を書かせていただきました。
最後までお読みいただきありがとうございます。
誤字・脱字、誤用などあれば、誤字報告いただけると幸いです。