"The Silenced Names -Part2-"
誰に聞いても、彼のことを知らないという。
書類も記録も、彼の所属した部屋も、ベッドも、荷物も、何もかもがきれいに整っていた。彼という個人がこの世に存在していなかったみたいだ。それは、この場所で起こる“消去”の典型的な例になる。
ただ一人、
私だけは、彼を覚えていた。
「ですが、検診の時間が……」
「……体調が悪いの。放っておいて……」
彼が消えてから数日間。私はひどい倦怠感と高熱で寝込んでしまった。誰にも会いたくなかったし、R01のみんなにも会えていない。
私の突然の体調不良に、上層部の誰かは内心ほくそ笑んだだろう。
“あの子の異能がようやく壊れ始めた”と。でも別の何人かは逆に警戒していた。この暴走の兆候が、さらなる何かの前兆であることを。
なんだかよくわからない薬を注射され、左腕には紫色の痕が何本も並んだ。こんなもの、私には意味がないというのに。
“記録されない者”に、投薬など聞くはずがないのに。
この国は、どこまでも滑稽だ。
流石に何日もベッドの上から動かないのはまずいと本能的に思い、怠い体を奮い立たせて部屋を歩き回る。
そうだ。またあそこに行こう。
唐突にそう思った。
あの星の丘へ。
全部私の勘違いだったのかもしれない。今日も彼はあそこにいるかもしれない。
そんな甘い考えを抱えて、私は誰もいない部屋を抜け出した。
夜の草むら。
そこには、一通の手紙が落ちていた。
偽物の草むらの上に、それは存在していた。まるで私がくることを知っていたかのように、風に吹かれてわずかに揺れていた。
私は急いで駆け寄り、手紙を掴む。
触れた瞬間、指先がぴりりと痺れた。透けて見える紙、――これは“記憶の書”だ。
読み終えると、跡形もなく消えてしまうという、極めて稀少な伝達手段。
私は手を振るわせながら、手紙を広げる。そこに刻まれた筆跡は、間違いなく彼のものだった。読む前から、喉の奥に嗚咽がせり上がる。
” イリーシア・エトワールへ
突然こんな手紙を書いてしまってごめん。直接渡せる機会なかったし、もしものためと思って書いておいたんだ。
俺はきっともう、君たちの前には戻れない。
もしかしたら君がこれを読んでいても、俺のことなんか忘れてしまっているかもしれない。
でも、――君は覚えているだろう?
何を書けばいいのか、正直わからないけれど、何も言わずに消えてしまうと君は前を向いてくれないだろうから。
消えることは、しょうがないんだ、この世界はそういう仕組みなんだよ。
それと、逢瀬の意味調べたよ。随分とロマンチックな言葉なんだね ”
ぽたっと。
私の涙が手紙の上に染み込んだ。その瞬間、文字が静かに、ゆっくりと、溶けるように消えていく。けれど、最後の数行だけが、最後まで残っていた。
” でもね、イリーシア。
俺は君の、その相手ではないよ。君には別にいるだろう。本当の逢瀬の相手が――。
俺は、俺でしかないんだ。
覚えておいて、俺の名前は―――。 ”
風が吹いた。
一瞬だけ、紙がふわりと浮き、星の光に溶けるように消えていった。
残された私は、誰もいない丘の上で、夜空に向かって、震える声で泣き崩れた。風はもう何も運んでは来なかった。
ただ、“あの人”の温もりだけが、掌に残っていた。