"The Night We Held Hands and Ran -Part2-"
私は叫びそうになるのを堪えた。
彼は苦しげに身を起こそうとするが、右肩を押さえてうずくまる。その傍に、ノアが素早く駆け寄り、肩を支えて立たせた。
その時、職員の一人が一歩前に出て、感情のない目で告げる。
「部屋に、戻ってなさい」
その声音は柔らかだった。むしろ穏やかとすら言える。
けれど、だからこそ――余計に恐ろしかった。
胸の奥に、黒く冷たい杭が打ち込まれたように、ぞっとした。
まるで、機械のように、命令を執行することだけが存在理由だとでも言うかのように。
私は足がすくみそうになるのを、必死で堪えた。
逃げたら殺される。
立ち向かっても、消されるかもしれない。
でも。
――ここで止まったら、全部、終わる。
「……嫌だ。逃げるものか」
喉の奥から絞り出すように、私は言った。
その言葉と共に、全身に熱が走った。
拳をぎゅっと握る。爪が手のひらに食い込む。
顔にかかる髪をかき上げ、前を睨む。
職員の一人と目が合った――その瞬間だった。
職員の目が、ゆっくりと、だが確かに、回り始めた。
ぐるぐると、渦を巻くように瞳孔が乱れ、焦点を失い、次第に虚ろになっていく。
崩れていく意識。精神の崩壊が始まっていた。
それを見て、私はすかさず視線を後方へ走らせた。
他の職員たちが、一瞬たじろいだ。
混乱した気配が後方に走る。
今しかない。私は叫んだ。
「今だ、走って!」
私たちは一斉に身体を翻し、職員たちの横をすり抜けて駆け抜けた。
白いマントの裾が闇の中で翻り、靴音が床に打ちつけられる。
汗と血の匂い、焦燥の呼吸。目の前の闇が裂けて、ただ一本の光の道だけが伸びている。
「捕まえろっ! 脱走者だ!」
怒声が響いたのは、私たちがもう数メートル進んだ後だった。
職員たちの声が追ってくる。だが私は振り返らなかった。
もし今、後ろを見たら、足が止まってしまいそうで――。
だから、ただ前だけを見た。
息を乱しながら、仲間たちの背中を見つめながら、必死に走り続けた。
パタパタと、暗闇の廊下に五人分の足音が響く。
私たちは記録管理室を通り過ぎ、螺旋階段を目指していた。
途中、何人かの職員とすれ違ったが、私たちが羽織っている白いマントのおかげで、走り抜ければ気づかれることはなかった。
非常灯の薄暗い明かりの下、息をひそめて駆ける。
私は、隣を走るセリオの横顔をちらりと見る。
「――痛い?」
「……はっ?」
「ほっぺた。赤くなってる」
「あ、あー……まあ、ちょっと」
「ごめん。私がもっと早く気づいていれば……」
私が先頭を走っていれば、セリオは傷つかずに済んだかもしれない。
先に角を確認していれば、そもそも気づかれることもなかったかもしれない。
そんな取り返しのつかない後悔が、胸の中でぐるぐると渦巻いていた。
けれど、そんな私の言葉に対して、セリオは片眉をあげて引き攣った顔で私を一瞥する。
もちろん、走る足を止めることはない。
「キモイこと言うな」
「おい」
「そんなこと、普段は言わないだろ。俺がどうなろうが、それは俺の責任だ。お前が背負うことじゃない」
「……こけちまえ」
小さく呟いたが、彼には聞こえなかったようだった。
私たちの会話は、そこで終わった。
やがて、螺旋階段へと辿り着く。
ドン――。
血の底から湧き上がるような振動が、足元から伝わってきた。
その瞬間、ふらりと足元がぐらつく。
振動のせいじゃない。眩暈だった。
「大丈夫?」
アザリエルが私の背を支える。
あたたかい手が、そっと背中を押してくれる。
この感触が、どれだけ私の心細さをやわらげてくれたか――きっと、彼は知らない。
私は黙って頷いた。
時間がない。先を急がないといけない。
ミレナは、あの時からずっと眠ったままだ。
もしかしたら――という嫌な予感が、胸をかすめた。
でも、私は気づかないふりをした。
長く息の詰まるような螺旋階段を駆け上がり、ようやく先に光が見えた。
足元に響く靴音と、浅くなった呼吸。背中には汗が滲み、張り詰めた空気が肺を絞るようだった。
――もうすぐ。石橋はすぐそこ。
けれどその光は、救いの象徴というにはあまりにも冷たく、目の奥へと鋭く突き刺さる。
視界が開け、私たちはとうとう外へと飛び出した。青白い月の光が一面を照らし出し、静寂が包む――そう思ったのは一瞬のことだった。
「………なんで……」
ノアの声が掠れた息とともに漏れる。
私たちの目の前には、白衣を纏った職員たちが壁のように立ち塞がっていた。
左右にも背後にも、その数は十、二十と数えきれないほど。
あまりにも整然と、あまりにも早すぎる包囲。
咄嗟に集まったなどというレベルではない。
――まるで最初から、私たちの動きを読んでいたかのように。
ざわり、と心臓が裏返る音がした。
「アザリエルッ!」
怒声が空気を裂き、次の瞬間、セリオがアザリエルの胸倉を荒々しく掴んでいた。
鋭い目が、裏切りを告げる証拠を求めて揺れている。
「お前、やっぱり裏切ったのかよ!」