プロローグ・遺される君たちへ
──俺はあと数分で死ぬ。
揺れる機内で、輝川龍造は唇をギュッと噛み締めた。
恐怖、悔しさ、怒り……。様々な感情が胸中で膨れ上がり、目には涙が滲む。
数分前、機体後方で大きな爆発音が聞こえた。それから、この機体は完全に制御を失っている。上空数千メートルで、上下左右に乱暴に揺れている。
ギュッギュッ──。機体が苦しそうに何度も軋み、空中分解という言葉が脳裏をかすめる。
ピコン、ピコン──。異常事態を知らせる警報音が鼓膜を痛ぶる。
「マスクを強く引いて、つけてください! ベルトを閉めてください!」
微笑みを絶やさず最高のホスピタリティに徹していたキャビンアテンダントは、今や鬼の形相だ。乗客を案じているというより、この極限の恐怖を少しでも和らげようと、自らを鼓舞するように叫び続けていた。
まさに阿鼻叫喚。乗客の叫び声が警報音を掻き消すほどに膨張し、恐怖心を一層煽る。
──どうしてだ。どうして今日ではなくてはならぬ。俺は……まだ……死にたくない。
涙が頬を伝う。
──俺が消えた世界……。俺がいなくなったシャインは、これからどうなるんだ?
その時、何故か網膜に浮かんだのは遺される者たちの顔だった。ハッと我に返る。
──何を泣いている? 泣いている暇なんてない。俺はシャインのトップだろう? 最期にやるべきことがまだある。
龍造は決意を固めるように、奥歯をグッと噛み締める。頭上から垂れ下がる酸素マスクを左手で強く顔に押し当てる。一方の右手ではスマートフォンを強く握り締めていた。
──何としても、このメッセージを完成させる!
龍造は新規メール作成を何とか開くと、右の親指で必死に文字を紡いでいく。機体が乱高下し、何度も打ち間違える。シートベルトが恰幅の良い腹に食い込んで、息もうまくできない。食べたものを戻しそうになる衝動も必死に堪えた。
〈まことみらいをたのむ〉
──何とか完成した。
しかし、意図せず暗号めいた文章になった。もはや漢字に変換する余裕はない。今打てるのは、これが精一杯だった。
機内にはWi-Fiサービスがある。
──この制御を失った機体で、果たして有効なのかは分からない。だが、何とか届いてくれ!
親指に力を込め、メールの送信ボタンを押す。
──人生最期の仕事を終えた。
龍造は目を瞑る。六十五年の人生が走馬灯のように胸に去来する。
高校卒業後、海辺の街で手作りパン工房「モグモグ」を開いた。あの時、隣には佳子がいた。その後は順調に店舗を拡大した。株式上場まで果たし、社名もシャインベーカリーに変更した。子宝にも恵まれて、本当に良い人生だったと思う。
ふわり──。その時だった。龍造の体を縛っていた力がふっと解ける。内臓が浮くような感覚に、ハッと目を開ける。
時が……止まっていた。
──いや……違う。
まるでスローモーション。窓から右翼が遥か下にあるのが見えた。
──機体がゆっくり右に傾いている?
そう認識してからは早かった。
「うぐっ」
思わず声が漏れる。機体が右翼を下にして、垂直に急降下し始めたのだ。機体左側に、龍造の体が引っ張られる。経験したこともないような強力なGだ。シートベルトをしていなければ、吹っ飛んでいただろう。
──苦しい。息ができない。
それは精神と肉体を凌駕するほどの急降下だった。徐々に意識も薄れていく。その中で、龍造が視界の端でかろうじて捉えたもの。それは窓の外の光だった。
──光の道?
どこか懐かしさを感じさせた。
──そうだ。モグモグを海辺の街で開いたあの日。佳子と共に海岸で見たあの光の道だ。
視界が白じむ。
──佳子の記憶は、未来へ続く道だ。誠、お前にとっては苦難の道となるだろう。だが、強く生きろ。お前なら、きっと大丈夫だ。
龍造はスッと笑みを浮かべる。それから、まどろむように意識を失った。
数秒後──。海面を二分していた夕日の光の道に向かって、龍造を乗せた機体が凄まじい轟音とともに突っ込み、大破した。