この世界の行く末は――見られない
ブーブブブブブ……
こ、この羽音は……。
本能的に恐怖を感じた。
これは前世でも今生でも。例え女魔王であっても。
怖い。
そう明確に感じさせる音だった。
それはレオンも同じだったようで、私の腕からするりとジャンプし、あっという間に駆けだして行く。
追いかけたいが、今のこの状況。
迂闊には動けなかった。
代わりに音がする方向を見て、そのオレンジ色っぽい黄色と黒の模様を捉えた瞬間。
背筋が凍り付いた。
「レ、レダ……」
「落ち着きましょう、王女様。敵は一匹ではありません。どうやらこの近くに巣があるようですね」
前世において、動画サイトで見たことがあった。スズメバチの巣を。
異様なサイズとそこに群がるスズメバチの姿を思い出し、震撼することになる。
「王女様はこのマントをつけてください。奴らは黒に近い色に反応しますから。ゆっくり動きましょう」
レダのズボンはグレーだが、それは白に近い明るいグレーだった。
対する私は、ラズベリーレッドという濃い色のワンピースを着ている。
目立つ色ではあるし、黒に近いと言えば、近いかもしれない。
ゆっくり移動しながら、レダのマントを受け取り、肩から羽織った。
レオンが黒猫ではなくてよかったと思う。
沈んだ森の方へ向かったが、大丈夫だろうか……?
「刺激しないことが大事です。このまま後退して、森から出ましょう」
レダの声に我に返る。
今、この時。
レオンのことを探してくれとは、さすがに言えない。
まずは自分達の身の安全を、確保しなければならないだろう。
安全な場所へ移動できたら、エルフのミルトン、魔法使いのレウェリンに頼み、彼らの魔法や精霊の力で、レオンを見つけてもらおう。
こうして行きとは違うルートで、森から出ようとしたが。
「「あっ」」
二人揃って、間の抜けた声を出してしまう。
なぜなら移動したその先の木の根元に、スズメバチの巣があったからだ。
そこには、さっきの比ではない数のスズメバチが、群がっていた。
カチカチという音がする。
それは巣に、奴らの脚が当たる音だった。
「そうなると……行きに来た道に戻るしかないですね。あっちの方が数が少ないので」
その時。
なんだか不穏な声を聞いた気がした。
戻ろとしたその道の先に、クマの姿が見える。
まさかのスズメバチとクマによる挟み撃ち!
こんなの無理だ。
クマがこちらに来たら、スズメバチはクマを襲う。
必然的にレダと私は巻き込まれる。
「先にクマを倒し、血路を拓くしかないですね」
レダはそんなことを言っているが、クマを倒している最中に、スズメバチもやってくるだろう。
何か方法は……。
そこで思い出す。
私は女魔王だ。
魔術を使えばいい。
すぐに魔獣を二体召喚し、同時に撃退すれば。
そこで魔術を詠唱すると――。
使えるはずの魔術が使えない!?
もう魔力を抑えるペンダントはつけていないのに。
なぜ、使えない?
そこで首のチョーカーに、指が触れた。
このチョーカーには、魔法がかけられていると言われている。
これをつけていると居場所が分かるので、絶対に外さないようにと言われていた。外さない……というか、外せないと言われている。なぜならエルフが作った特殊な糸で作られているので、濡れない、破けない、外せないというのだ。
捕虜となり、解放された魔族には、魔力を抑えるチョーカーをつけると言っていた。もしや私のこのレースのチョーカーにも、居場所が分かるだけではなく、魔力を抑える魔法がかけられているのでは?
女の魔族に魔力はない。よって魔力を抑える魔法がかかっていても、関係がないだろう。影響は何もないだろう――ということで、私に知らされていなかったのでは!?
この森に入った時。
魔術さえ使えれば、クマなんてちょろいと思った。
その魔術が使えない今、丸腰だ。
「多分、三分でクマは倒せますが、スズメバチは襲ってくると思うのです。王女様はこのままこの崖を下りて、沈んだ森へ向かってください。水の中に入れば、襲ってこないはずです」
「レダは? スズメバチに刺されるぞ!」
「そうですね。ですが私のパーティには魔法使いがいますから。痛いですけど、死にはしません」
達観している……。
そもそも魔王討伐パーティに所属しているぐらいなのだ。そしてクマを素手で倒せるキャラなのだ、レダは。それにゲームの世界観では、アナフィラキシーさえ超越しているようだ。
ともかく言えること。
それは、女騎士レダは、スズメバチごときでは屈しない。
「では走らず、ゆっくり、動いてくださいね」
「分かった」
左右からスズメバチとクマが迫っているのに、ゆっくりしか動けないことほど、もどかしいことはない。
ブーブブブブブ……
すぐ耳元で羽音がして、気づけば私は……絶叫していた。
私の絶叫で、クマが動く。
私の方へというか、その手前にいるレダめがけて、クマが突進してきている。魔術が使えれば、なんてことないクマだった。魔術を使えば、クマなんかよりもっと恐ろしい魔物を召喚することだってできる。
だが、今はそれができない。
ブーブブブブブ……
ブーブブブブブ……ブーブブブブブ……ブーブブブブブ……
ものすごい数の羽音が聞こえ、クマとレダの方に目掛け、スズメバチが向かっている。
何匹かのスズメバチは私に気づき、こちらへも向かって来ていた。
足がすくみ、動けなくなる。
クマとレダが対峙し、その剣を抜いた時、スズメバチが迫っていた。
――神様、お願いします! 魔術を使えるようにしてください!
前世の私が祈りを捧げ、オデットが魔術を詠唱する。
「え……」
魔獣の召喚を詠唱したのに。
レダに迫ったスズメバチが氷に包まれ、ボテボテと落下していく。
さらにクマは突然、動きを止めている。
何が起きている!?
そう思ったところで、突然、足元に幾何学模様の円陣が、白い光を発して現れた。
これは魔法使いが使う、転移魔法の円陣では……?
「大丈夫か、オデット王女」
気づけば、私を自身の背に庇うようにして、セレストブルーの軍服に白いマント姿の勇者シリルが立っている。
さらにスズメバチの巣のそばには、いつもの白いローブ姿の魔法使いのレウェリンがいた。巣とそこにいたスズメバチは、凍り付いている。クマはレダに背を向け、移動を開始。代わりにレダのそばには、狩りの装いのエルフのミルトンがいた。
「スズメバチは、冬眠しているような状態じゃ。しばらく経てば、すぐに目を覚ます。今のうちに撤退するぞ」
レウェリンの言葉に、皆が助けに来てくれたのだと理解する。
エルフは、森の動物や鳥と、心を通わせることができると聞く。
きっとミルトンに説得され、クマは森の奥へと向かってくれたのだ。
魔術が使えず、一瞬、絶望的な気持ちになった。
だが、これで良かったのだろう。
私が使う魔術は、一方的だ。
魔獣を召喚すれば、スズメバチは巣ごと全滅。
クマだって同じだ。
だがレウェリンとミルトンは違う。
二人が使った力は、生かす力だ。
そうか、そうなのか。
魔族、そしてエルフと魔法使い。
殺すための力、そして生かすための力。
大きな違いがあった。
ある種の悟りを開いた瞬間、力が抜けた。
スズメバチとクマに挟み撃ちにあい、魔術が使えない焦りで、極度の緊張状態になっていたようだ。危険が去り、悟りを経て、脱力してしまった。
「!」
崩れ落ちそうになった私の体を、シリルが抱き上げてくれた。
軽々と私を抱き上げるシリルの逞しさに、前世の私がキュンと胸を高鳴らせた。
「突然、レディの体に触れる無礼を許してもらいたい」
「い、いや、構わん。……ありがとう」
すぐに降りるようとも考えた。だが足に力が入っていないと、自覚できた。
大人しくシリルに抱き上げてもらうしかない。
「王女様、どこか怪我をしましたか!?」
シリルが歩き出し、レダが駆け寄った。
「問題ない。……少し、驚いて、その……腰が抜けたようだ。恥ずかしい限りだが」
「! なるほど。でもそうですよね。王女様ともなれば、王宮にいる時間がほとんど。森の中に足を踏み入れることなんて、そんなにありませんよね。でもスズメバチもクマも、森では当たり前のようにいます。そこが彼らの住処ですから。そこに勝手に足を踏み入れているのですから、文句は言えません。私なんて、クマとイノシシと背後に毒蛇に囲まれたこともあります」
レダはあっけらかんとそう言って笑った。
そうか。
人間でさえ、そういう考え方ができるのか。
森はスズメバチやクマの住処。
そこへ勝手に足を踏み入れたのは自分達。襲撃されても文句は言えない……。
その通りだな。
だが魔族では、そんな考え方はできない。
森であろうと湖であろうと。
そこが暗黒の国アビサリーヌ領土内なら、それはすべて魔族のもの――という発想なのだから。
女魔王オデットだけだったら、ここでエルフ、魔法使い、人間が手を組んだ理由を理解して終了だろう。
だが私には前世記憶がある。
魔族という共通の敵がいたから、エルフ、魔法使い、人間は手を組んだ。
魔族がいたことで、生かす力を尊く感じ、共存という考えを人間はできていた。
だが魔族が失われることで、人間が次第に魔族のようになってしまう。
森を焼き払い、動物を狩り尽くし、エルフと森の動物達の住処を奪っていく。
魔法を人間の繁栄のために使おうとして、魔法使いは人間に愛想をつかす。
前世では、エルフも魔法使いも存在していなかった。
でも何億年もの歴史が、地球にはあるのだ。
絶滅した動植物がいたように。
その長い歴史のどこかに、エルフと魔法使いが存在していた時代は……あったのではないか?
「シリル」
突然、名を呼ばれた勇者は、無防備な表情を私に向ける。
「お前は善性が強い。そして真面目で誠実だ。長生きし、人間が誤った道を進まないようにして欲しい」
ヒロインであるフィオナに選ばれた攻略対象は、魔王討伐の成果と共に、長寿のギフトが与えられる。フィオナと結ばれた攻略対象は、エルフや魔法使いと同様、長寿を約束されるのだ。
きっとシリルが、ヒロインであるフィオナに選ばれる。
「なんだお嬢さん。お前さんの方が長生きじゃろうが。人間が誤った道を進むなら、お嬢さんが喝をいれればいいじゃろう」
レウェリンが快活に笑う。
確かに魔族はエルフや魔法使いと同じで、長寿だ。
基本的に殺されない限り、生き続ける。
若さも維持できた。
だが、私は……。
敗戦国の王女として。命を差し出す可能性もあった。
この世界の行く末は――見られないかもしれない。
だからこそ、人間の善性の象徴でもあるシリルに、希望を託したくなっていた。