二
いわゆる、絶起というやつだったんだろう。
その日は恐ろしく天気が良かった。起床時間を盛大に間違えてしまったその日。何故か記憶に残っているその日。日付もよく覚えていないけど、窓から見えた外の景色だけは、昨日のことのように思い出せる。カーテンを開けたときの日差しは、思い出すだけで痛い。「差す」というより「刺す」で、「光」というより「怒り」で、そこに「居たい」なんて思えるはずもなく、ただ「痛」かった。「痛く」て、でも、「居たく」はなかった。
スマホのロック画面に映る僕の推しキャラだけがいつも通りで、その瞳の輝きが懐かしい。眠い目のまま見た彼女の小さな口が「まだ起きなくていいよー」と動いているように思えたのは、今こうして見ているものが過去でしかないからだろうか。彼女は子供の時にしか見えないトトロみたいなもので、制服を着ている僕にしか、本来の姿は見せないのかもしれない。
僕だけを見て、僕だけを許してくれる存在。いつもそこにいて、離れることなんてない存在。
その頭上に見える数字だけは、全然いつも通りではなかったのだけれど。
もう会えない彼女が、酷く懐かしい。
ただその事実に気付いたのも、ベッドを降り、階段を降り、まだ完全に開いていない目のまま顔を洗い、パンを齧って、五人分の食器を洗ってさあ学校の支度でもしようかという時だったから、習慣という無意識の中にまぜこぜになってしまって、自分でももう良く分からないのだ。
定刻通りのアラームの、一時間遅れの優雅な音楽で初めて正確な時間を認識した僕は、怒りというより、まだ一時間もあるじゃんラッキーくらいのことを考えていた気もする。
これすらも曖昧になってしまうのは、この後に来た電話くらいしか印象に残った出来事がなかったからだろうか。
ひび割れた音のアニソンが流れた。
二年前から変えていない着信音。名前を見なくとも分かる差出人。揺れる机に、画面を照らす光。
「……はい。もしもし」
「あ、出た。まだ起きてないと思ってたけど。今日は早起きだな」
「は?いきなり何?ていうか──」
スマホを通して聞こえるアイツの声には、朝でもちゃんと芯があって、こんな時間から聞くにしては、些か力に富みすぎていた。
朝に弱い僕としては、その空気が鬱陶しかったんだと思う。この時も多分、不機嫌だった。
「当たり前でしょ。学校まで四十分もかかるんだから。こんな時間まで寝てたら余裕で遅刻しちゃう」
「そうか?でも最近のお前遅刻ばっかじゃん。無断欠席するし。これからは優等生になる、って始業式そうそう宣言してたの、もう忘れたのか?」
「……そんなの知らない」
図星だった。
「それよりなんで電話なの。寝てると思うなら先ラインしてよ」
逸らし方強引すぎだろ、とつぶやいた後(僕もそう思う)、アイツは少し考えるような間を伴って、
「いや、したけど」
「え?」
あ、確かに。
そんな感じでビックリした覚えがある。
その日、僕をあんな早い時間に起こしたのは、紛れもなくアイツのメッセージ通知だったのだ。スマホの明るさは起床後すぐの目には強すぎて、そのまま閉じてしまっていて、忘れたまま過ごしてしまって。
だとしても、それからの間あんなにも長い時間スマホを触っていなかったなんて、やっぱり僕はどうかしていたのだろう。
陽気すぎる天気にあてられてしまったのかもしれない。登校前に散歩でもしようかな、なんて馬鹿らしいことをこの僕が考えついてしまったのも、この日だけだったように思う。休日は基本家から出ない僕だ。そんな僕が学校以外で能動的に外に出ようだなんて、ほとんど天変地異が起こったようなものである。
そんな言い訳がましいことばかり考える僕を置き去りにして、
「まあとにかく、俺が言いたいのは「「今日の宿題」でしょ」のことだけなんだが、まあ「「分かってる」わよ」のか」
「当たり前でしょ。何回目だと思ってるの」
まあまああれだよ、と言葉を濁すでもなくそう言ったアイツが要求してきたのは、先週の金曜日に出された数学の課題だった。
「頼む。今回は言い訳聞かねえから」
口頭で話しているだけなのに、アイツの両手を合わせた姿が鮮明に浮かんだ。それがまた様になりすぎていて、僕は少し吹き出してしまう。
「休み挟んでるのに何で終わってないの?学習しなよ」
「学習しないのはお前だろ。このやり取り何回目だと思ってんだ」
「確かに」
全然確かにではなかったんだけど、これまでを振り返るとなぜか納得してしまう。結局はそのまま、良くないなあと思いながらも、僕がコツコツ問題を解いたノートを写真にして、送信ボタンを押してしまった。
アイツは散々感謝の言葉を述べたあとで、
「別に今送んなくてよくね?後で教室で見してくれりゃいいのに。写真だと見づらいんだよなあ」
そんな何気ないことを告げる。
アイツに悪気なんてなかったんだろうけど、そんなことくらい分かっていたんだけど、僕の最奥が分かってくれない。黙ってくれない。
不機嫌だったんだ。たったそれだけ。
「何それ、冗談?」
「あ、いや、⋯⋯すまん」
画面の向こう側から、アイツが唾を飲み込んだ音が聞こえた気がした。
アイツが黙りこくってしまうと思ったよりも静かで、忘れている訳ではないけど、我が家に誰もいないのを再認識してしまう。アイツがうるさいことの裏返しなのだろうけど、そのことに少し、僕は救われていたのかもしれない。
「じゃ、ありがと」
「うん。また明日」
その後は特に何もなく、誰かの声がないとこんなにも静かなのかと、ほとんど会話の起こらないリビングルームで僕は一人、知った。
印象に残ったとは言ったものの、電話の内容はこれだけだ。この日のことをここまではっきり覚えている理由は、やっぱり分からない。