第2話 お世話係の初仕事
放課後。
星川に連れられ、彼女が住むマンションの一室の前まで来た。
もう既に場違い感がすごい。ただの廊下がバカみたいに綺麗だし、天井が無駄に高いし、俺が住んでいた安いボロアパートがニワトリ小屋に思えてくる。
「来て早々申し訳ないのですが、瀬田君にはお仕事をしてもらいます」
「お、お仕事?」
鍵を開けながら、星川は言った。
聞き返すと、「はい」と頷いてドアノブを捻る。
凜の言葉を思い返す。
一億円分の拷問。実際にそんなことをされるかどうかはわからないが、大金を払うからにはまともな仕事ではないだろう。
「ゴミ掃除です」
瞬間、嫌な妄想が脳内を駆け巡った。
殺人と書いてゴミ掃除、死体処理と書いてゴミ掃除。いくらでも変換のしようがある。
……だが。
扉を開け玄関が視界に入ると、俺の肩からふっと力が抜けた。
何だこれ。
積み上げられた段ボール。放置されたごみ袋。脱ぎ散らかされた靴。奥の部屋へと続く廊下には、服や画材道具のようなものが散乱し足の踏み場もない。
汚部屋……というやつか、これが。
「……これ、空き巣に入られたあと、とかじゃないよな?」
「失礼ですね。このマンションのセキュリティは完璧です」
「そこを疑ってるわけじゃねえよ! この部屋が酷過ぎるから聞いてるんだ!」
「ええ、まあ、確かにちょっと汚れてますね」
「ちょっと!? 不良が溜まり場にしてる野球部の部室と同じくらい汚いぞここは!」
「二週間前に掃除してもらったので、今はまだマシな方ですよ。私の生活力の低さを甘く見ないでください」
えっへんと無表情のまま豊満な胸を張った。
いやいや、どういう状況だ。
やばい仕事を任されると踏んで来たらこのざま。安心しようにも、あまりにも汚過ぎて反応に困る。生まれて初めて女子の部屋に入ったのにまったく嬉しくない。
「へっぶしっ!」
星川の大きなくしゃみが響き渡った。
垂れた鼻水を見て、俺はポケットティッシュを取り出して彼女に渡す。
「用意がいいですね」
「道で配ってたら貰うくせが付いてるからな」
昨日に引き続き、体調が優れないらしい。
こんな不衛生な部屋で暮らしていたら誰だって身体を壊すだろう。
「では、お願いします。掃除道具はそのへんから発掘してください」
「……了解」
突っ込むのも疲れた。
◆
玄関と廊下とリビングダイニングの掃除だけで三時間かかった。
洗濯機を回すという文化がないのか、大量の服や下着を発見した。
最初はブラジャーやショーツにドキドキしていたが、発見数が二桁になる頃にはむしろもう出て来ないでくれと祈る始末。更には財布まで見つかり、星川がこれまでどうやって生きて来たのか不安になる。
「お疲れ様です。夕飯にしましょう」
星川は冷蔵庫から取り出したそれを、ぽんとダイニングテーブルに置いた。
か、カロ〇ーメイト……。
ジャンクフードやエナジードリンクなどのゴミが大量に見つかったことから予想はしていたが、食生活もまともではないようだ。
「すごい手際ですね。雇って正解でした」
「清掃のバイトもしてたしな。残りの部屋と細かいとこは休みの日にやるよ」
テーブルに向かい合って座り、キンキンに冷えたカロリーメ〇トの封を切った。
これを三分割して一日しのいでいた時期を思い出す。俺がどれだけ節制していても、両親は平気でお腹いっぱい食べていたわけだが……。
「バイトといえば、大丈夫なんですか? 噂によると、瀬田君はバイトを十個掛け持ちしているそうですけど。今日シフトは?」
「流石にそんなに掛け持ちしてないけど、まあ心配しなくていいよ。完全にフリーになったから」
俺の朝は、新聞配達から始まる。
しかし今朝営業所に向かうと、俺は退職したことになっていた。父さんと母さんが来て、代理で辞めさせ給料を持って行ったらしい。
まさかと思い他のバイト先に連絡を取ると、全てに手が回っていた。
息子が病気を患って治療のため今すぐお金がいる、とか。
息子が暴力事件を起こして相手にお金を払わなければならない、とか。
その場で俺の給料を受け取るため、あれこれと嘘をついていたらしい。
……もう本当に、一周まわって尊敬してしまう。
「それより、星川の親御さんって何やってるんだ? 俺なんかに一億も出すなんて普通じゃないだろ」
「親は関係ありません。私が自分で稼いだお金なので」
「……は?」
「画家をやってるんです。あ、学校の皆さんには内緒にしておいてくださいね。顔も名前も国籍も、一切伏せて活動しているので」
あちこちに画材道具が散らかっており、壁に何枚も絵がかかっていることから、そういう趣味があるのだと思っていた。
が、しかし……。
画家をやっている? それで一億稼いだ?
突飛な話に頭が追いつかない。
「じゃ、じゃあ、星川の描いた絵は何万とかで売れるってことか?」
「桁が二つ三つ足りませんが、そういうことです」
「……いやでも、どうして俺を」
訝し気に眉を寄せると、星川は一枚の絵を指差した。
様々な色の絵の具で適当に線を引いたような、絵というより試し描きのようなそれは、一段綺麗な額に収められている。
「小学校の図工で描いたものです。覚えてませんか?」
言われて思い出した。
自画像を描く時間。
星川が提出したのが、あの輪郭も目も鼻も口もない色と線の集合体だった。
「変とか気持ち悪いとかたくさん言われて、先生にも描き直すよう説得されました。でも、瀬田君だけが綺麗だって言ってくれたんです。あなたがいたから、今の私があるんですよ」
「そんな大袈裟な」
「初めてだったんです、瀬田君が。親も友達も、私の絵を褒めてくれた人はいませんでした。私が見て聞いて感じたものを、おかしいって切り捨てる人ばっかりだったんです」
「瀬田君の一言にどれだけ救われたことか」と星川は続けて、平坦な表情に僅かな黄色の感情をにじませた。
あの時、星川は俺の斜め前に座り一生懸命に描いていた。楽しそうに嬉しそうに。
だから、単純に気に入らなかったのだ。完成したものに対し、ああだこうだとケチをつける連中が。
それに、今見ても思う。星川の絵は確かに綺麗だ。
何百万何千万もの価値があるかは、正直よくわからないが。
「額が額なので、資金提供ではなく無利子無担保での貸し付けという形になってしまったのは申し訳ないですが……。でも、私のそばにいる限り衣食住で苦労はさせません。これからたくさん瀬田君に頼ると思うので、あなたも私に頼ってください」
鉄のように一つの形を保ったまま動かない口元が、少しだけ解れて笑みを作る。
それがあまりにも儚くて、美して。冷え固まっていた彼女への疑念が、じわじわと溶けてゆくのを感じた。
◆
「ふぅー」
自室として与えられた七畳ほどの部屋。
セミダブルのベッドに寝転がり息をつく。
「絵を褒めたから、ねえ」
星川がそんなことをいつまでも覚えているとは思わなかった。
律儀な奴というか、変な奴というか。
何にしても、危ない仕事を任せられるわけではないようで安心した。
「……」
それにしてもこのマットレス、犯罪的にふかふかだ。
俺が使ってた体育のマットみたいな布団とは大違い。
きっと高いんだろうな、これ。
………………。…………。……。
やばい、少し泣きそうになってきた。
ガス代も水道代も気にせず、初めてあんなに長時間風呂に入った。
シャンプーやボディーソープを、初めて水で薄めずに使った。
風呂上がりにアイスを食べてもいいなんて、そんな日が来るとは思っていなかった。
掛け布団は羽毛で温かいし、枕はいい匂いがするし、部屋は散らかっているが虫が湧きそうな気配はない。
それにもう、明日のお金の計算をして、両親の使い込みに怒って、先々の不安に震えなくて済むんだ。
こんな生活を続けるためなら、俺は死んだって構わない。
……いや、死んだらダメだな。星川に一億を返済しないといけないし。
「ん?」
ガシャガシャと扉の向こうからすごい音がした。
な、何だ? 食器でも割ったのか?
部屋を出ると、キッチンの冷蔵庫が開きっぱなしになっており……
「ほ、星川」
「はい」
「何してるんだ……?」
「ちょっと失敗しました」
見ると、星川がキッチンの床にうつ伏せで倒れていた。
それだけなら大惨事なのだが、上半身が大量のエナジードリンクに埋まっており、その光景は非常に間抜けである。冷蔵庫の半分がエナジードリンクで占められていたため、一本取り出そうとして瓦解したのだろう。
ひとまず冷蔵庫を閉めて、星川を引っ張り出した。
……何か顔が赤いな。
ズルズルと鼻をすすっており、翡翠の瞳はどこか虚ろ。「ちょっと触るぞ」と額に触れると、
「おい、熱があるぞ」
「ええ、まあ」
「まあって、お前なぁ……」
「体調が悪いので、エナジードリンクを飲もうかと」
「……」
バカなのかこいつは。
「あ、あのな、こんなの飲んだって治らないんだぞ。むしろ身体にはよくないし」
「瀬田君、もしや英語弱者ですか。ダメですね、今は多言語の時代ですよ」
「は?」
「エナジーとは、英語で元気や活力を指します。つまりエナジードリンクは、人体を回復する万能飲料なんです」
「そんなわけあるか!」
この紋所が目に入らぬかと格さんが印籠を見せつけるが如く、エナジードリンク片手に得意げな星川。
ダメだこいつ、早くなんとかしないと。
「星川は頭いいんじゃないのか。成分表見ろよ、どこにそんなことが書いてあるんだ」
「目に見えるものだけが、世界の真実ではないんですよ」
「少なくとも成分表は嘘つかねえよ!」
「まあまあ、とりあえず一本だけ」
プシュッと開けたそれを取り上げると、眉を寄せて子供のような情けない表情を浮かべた。
か、可愛い。何だこの生き物。
エナジードリンクくらい与えたくなってしまうが、寸でのところで理性が勝った。「ダメだ」と星川の手が届かない冷蔵庫の上に置く。
日常的に摂取して中毒になっているのだろう。体調的にも、流石に与えていいわけがない。
「熱さまシートはあるか?」
「私の部屋にあります」
「じゃあそれ貼って寝てろ。スポーツドリンクとか適当に買って来るから」
「今から? そろそろ日付が変わりますよ」
「コンビニなら開いてるし大抵のものは揃うぞ」
「そうではなく……」
星川の背中を押して、彼女の部屋の前まで連れて行く。
ドアノブに手をかけて、チラリとこちらを見た。翡翠色の双眼をぱちりと瞬かせて、「本当にいいんですか?」と申し訳なさそうに首を傾げる。
「せっかく俺を雇ったんだから、こういう時に使わないともったいないだろ」
出掛けてる間にエナドリ飲むなよと念押しして、ぽんと部屋に押し込めた。
みょうちきりんなことを言ったり、深夜の外出を心配したり。常識があるのかないのか、よくわからないやつだ。
……前までは夜中に出掛けても、どこのバイトでいくら貰えるのかくらいしか聞かれなかったから、心配されてちょっと嬉しいけども。
「あの」
ギィと扉が開き、星川が顔を出す。
「……ありがとうございます。い、いってらっしゃい」
桜色の唇でそう紡いで、すっと部屋に引っ込んだ。
昨日までの俺に言ってやりたい。次のお前の職場は、買い出しに行くだけで感謝されて見送りの挨拶までして貰えるところだって。
お読みいただきありがとうございます。
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