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江戸の災禍


   **


 江戸は夏を迎えていた。


 島原の乱が終結した後の、三代将軍家光の治世。


 もう世の中にいくさは起こらない、そんな予感をさせる江戸の夏である。


「――うまいな」


 國松は江戸城から程近い茶屋の店先で、床几に腰かけて団子を堪能していた。


「そうでありましょう」


 國松の隣には七郎が座していた。隻眼の異相を持つ七郎は、団子を頬張っていた。


 少々行儀が悪いが、だからこそ美味しそうに見えるのだろう。通りで足を止め、茶屋に入る者もいた。


「全てがまるで夢のようであるな」


「左様で」


 國松と七郎は、揃って青空を見上げた。


 両者共に屍山血河の修羅場を越えてきた。


 その先に得た天下泰平の安らぎに、満たされる思いがあった。


 茶屋の老婆が運んできた茶を飲み、七郎は一服つく。國松には看板娘のおりんが茶を運んだ。


「ど、どうぞ」


「うむ」


 おりんが盆に乗せて運んできた茶を受け取り、國松は茶を一口すすった。


 たったそれだけだが、妙齢のおりんは頬を紅潮させていた。


 七郎は嫉妬のあまり舌を噛み切らんばかりであったが、その時、通りで騒ぎが起こった。


「なんだ」


 七郎が國松と共に通りを眺めれば、武士と浪人が言い争いをしている。どうやら、通りすがりに肩がぶつかったらしい。


「きゃあ」


「抜いたぞ」


 野次馬から声が上がった。浪人が刀を抜いたのだ。武士は泡を食った様子で逃げ腰になった。


「いかんな、止めよ七郎」


「は」


 七郎は床几から立ち上がり、浪人の前に立ちふさがった。颯爽とした身のこなしに、茶屋の老婆とおりんは目をむいた。武士は、その間に通りを駆けて逃げ出していた。


「おいおい」


 七郎は逃げ出した武士の背中を見送り苦笑した。


 誰にも他人を責める権利はない。


 相手の立場になってみなければ、わからない事は山ほどある。


 それはわかっているのだが、言わずにはいられない。


「うらやましいもんだ……」


 七郎は苦笑した。彼はやるべき事から逃げられなかった。


 いや、女性の念の故に、彼は逃げること許されなかったのだ。


 死という概念はあっても、敗北はない。


 それが女性から教えられた、七郎の信念であった。


「何がわかる! 貴様もか貴様もかあー!」


 浪人が七郎に斬りつけ、更に横に薙いだ。なかなかの太刀筋だ、七郎の着流しの胸元が斬り裂かれた。


「いい顔だ」


 國松は床几に腰かけたまま不敵に笑った。七郎は窮地にありながら怯まない。


 七郎は一瞬の勝機を狙う鷹の目をしていた――


「くわ!」


 烈火の気迫と共に七郎は踏みこんだ。刀を振り上げた浪人の懐に飛びこみ、七郎は対手の右手首をつかんだ。


 瞬間、七郎の体は独楽のように回転した。


 同時に浪人は背中から大地に叩きつけられている。


 刹那の間に閃いたのは、「無刀取り」の技の一つだった。





 その後、浪人は國松によって染物屋の風磨へ連れていかれた。


「飯を食わせてやろう」


 國松は浪人に食事を与えた。浪人は感激し、國松のために命がけで働くことになった。


「へえ~……」


 と、茶屋の看板娘おりんは七郎に感心していた。


「ただの冷飯食いじゃないんだね~」


 おりんの言葉に刺はあるが、それも照れ隠しである。七郎は、おりんと旅芸人一座の公演に行く約束を取りつけた。


 それにしても、と七郎は思う。


 江戸に再び災禍が起きるのではないか。そんな予感がある。


 見上げた太陽は、なぜか陽気に見えた。

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