銀は成らずして好手あり
**
十兵衛は父の宗矩を相手に将棋を指していた。
「これもまた世の真理を現しているかもしれぬ」
宗矩は一人言のようにつぶやいた。
「どのようにでありますか」
隻眼の十兵衛は宗矩に問う。
「上様は王将」
父はパチリ、と駒を盤上に置いた。
「そして伊豆殿や局殿が王将の側近たる金将」
「……父上はいずこに」
「わしのごときなど…… さて、國松様と風魔の忍び、更に江戸城御庭番が飛車と角」
「左様でございますか」
十兵衛も知る國松と風魔の忍びは、江戸城近くの九段にて染物屋を営んでいる。
普段は染物屋の彼らだが、その実態は、江戸の治安を守るために命を懸ける実戦部隊だ。
國松は染物屋の大旦那にして、風魔の強大なる統率者である。
あとは与力が桂馬、同心が香車、岡っ引きが歩のようなものだと宗矩は言う。
「人間を駒に例えますか」
十兵衛の言葉は僅かに怒気を帯びていた。
幕府隠密として命を懸けてきた十兵衛は、宗矩の言葉が引っかかる。
父の宗矩は、人間を何だと思っているのか。
「わしは天の指す駒の一つにしか過ぎぬ。わしの代わりは十兵衛、そして左門と又十郎だ」
宗矩の言は十兵衛には理解しがたい。父たる宗矩は、三代将軍家光の治世を支えた一柱ではないか。
それが駒の一つでしかないとは。
「昨日の敵は今日の友…… また、歩といえど敵陣深く斬りこめば、金と成る…… 将棋とは不思議なものよ。十兵衛、銀は成らずして好手ありという。お前は銀将だ」
「なんですと?」
「――王手、そして詰みだ」
「……恐れ入りました」
十兵衛は宗矩に降参した。宗矩は飛車角抜きで十兵衛に勝利した。
十兵衛が宗矩に将棋で勝つには、金将も抜いてもらう必要があるだろう。
「己の使命を全うするのだ、十兵衛よ。お前は何をする者だ」
十兵衛は宗矩の部屋を辞した。
そして自室にて瞑想する。
己の使命とは何か。
人は運命という盤上の駒の一つにしか過ぎぬかもしれぬ。
が、命を懸けて何を成す?
(……俺は人々を守るのだ)
十兵衛の脳裏に閃く刃――
紫電一閃の光景は、様々な死地をくぐり抜けた証だ。
だが刀槍の刃よりも厄介なのは、人間の邪な心であった。
それを知りつつ尚、十兵衛の脳裏には江戸で見かけた幼児らの姿が思い浮かぶ。
(強くなれよ、優しくなれよ)
瞑想する十兵衛の口元が優しく歪む。父の宗矩もまた同じ気持ちだったのではないか。
(死しては仏法天道の守護者たらん)
そう願わずにはいられない十兵衛であった。
そして彼は妖しい気配を感じて、庭に裸足で飛び出した。
「おお――」
十兵衛は見た。
夜空にかかる巨大な蜘蛛の巣を。
巣の表面に蠢く魔性を。
それは丸みを帯びた女性のようだ。
その魔性は巣の表面から、十兵衛の頭上へと飛びかかった。
「面白い!」
十兵衛は叫んで、空中からの魔性の蹴りを避けた。
そして庭の植木へと駆けた。魔性は十兵衛の後を追う。
「はああ!」
烈火の気迫と共に、十兵衛は木の幹を蹴った反動で魔性へと襲いかかった。
十兵衛の繰り出した三角蹴りが、魔性に炸裂した――




