慶安夜話(※番外編の完結編)
蘭丸と黒夜叉は狭い店内で追いかけっこをしていた。黒夜叉は子作りしようとはりきっているのだ。
その様子を店の外から、ガールズバーの看板の陰から見つめる麗人はペネロープだった。
「蘭丸様……!」
ペネロープはハンカチを噛みちぎった。彼女は「慶安夜話」では「ねね」というキャラクターだった。漫画家さんでもAというキャラクターが、別の作品に登場するのはよくある事だ。スターシステムというものである。
「さようなら、蘭丸様……!」
ペネロープは涙をこらえ、ガールズバーに戻っていった。
そして店内の様子を見つめるのは、もう一人いた。立ち飲み店の店先で、ビールと焼き鳥を味わいながら黒夜叉に殺意の眼差しを向けているのは、アナスタシアであった。
彼女もまた「慶安夜話」では「せつな」というキャラクターであり、蘭丸に思いを寄せていた。
「……お幸せにね!」
アナスタシアは立ち飲み屋を去った。
誰にも寂寥というものがある。
過去、現在、未来。
この時の流れは無情であるが、同時にたまらなく愛おしい。
思い出があるから人間だ。受け継がれていく思いは永遠だ。
男と女は永遠に追いかけっこをしているーー
**
「さて、わしらは遊ぶとするか」
小次郎は剣道場にいた。十兵衛もいた。二人とも小太刀を手にしていた。真剣である。
「そうですなあ」
十兵衛はのんきに笑った。手にしている小太刀は真剣であるが、気にしている様子はない。
「巌流の技は元々小太刀の技だからな」
小次郎は小太刀を抜く。不敵に笑っていた。蘭丸とよく似た端正な顔立ちに長い黒髪。だが小次郎は蘭丸とは正反対であった。
「なるほど。小生は剣は不得手ゆえ無作法を御免くだされ」
十兵衛も小太刀を抜いた。彼は長い刀を好まない。幼少時に右目を失った十兵衛は、距離感が合わぬために剣の修行は早々とあきらめた。
その代わりに学んだのは、先師の上泉信綱から祖父、父へと受け継がれた無刀取りの妙技である。後世における柔道の原型の一つ、と称すれば理解しやすいだろうか。
視力に不安のある十兵衛は立ち合いの中で組み合い、崩し、投げ倒し、そして勝利してきた。
柔よく剛を制すーー
その道は、十兵衛を正しい方向へ導いた。
かつては父の宗矩と恩師の小野忠明に導かれた十兵衛は、今度は蘭丸を導く側に成ったのだ。
「んっふっふっふ、天下一兵法の佐々木巌流…… これで死ぬるは誉れですな」
「バカな、目の前の敵を乗り越えてこそ男だ…… さあ見せてみろ、無刀取りを」
道場に二人の剣気が満ちた。
次の瞬間には小次郎が打ちこんでいる。
「イヤアアア!」
発狂したような小次郎の気迫。二度三度と打ちこまれた小太刀は、受け止めた十兵衛の小太刀をへし折っていた。
十兵衛危うしと見えた瞬間には、彼は小太刀を手放し小次郎の右手側に回りこんでいた。
「ぬう!?」
小次郎は十兵衛に足を払われ、背中から道場の床に倒された。刹那の間に閃いたのは、十兵衛の無刀取りーー
後世の柔道における小外刈りによく似た技であった。
「……見事だ!」
立ち上がった小次郎は笑っているが、目は笑っていない。
「貴殿が本気ではないからですよ」
言った十兵衛は冷や汗をかいていた。共に本気ならば結果はどうだったか。
「……まあいい。わしは未来が楽しみだ」
「そうですな、未来にも現れるでしょう。我らの意を受け継ぐ者が」
小次郎と十兵衛、両者は同時に道場の上座を見た。二本の掛け軸が下げられていた。
香取大明神。鹿島大明神。
武道の神である経津主大神、剣と雷の神である武甕槌大神に導かれた者が、必ずや未来にも現れるはずだ。




