悪魔の花嫁~愛~
「悪魔の花嫁」シリーズ、最後の作品です。
不快になったり胸くそと思える描写がありますので、苦手な方はお読みにならないようご注意下さい。
夫か子ども、どちらかの命しか助けることができない場合、あなたはどちらを助けますか?
そう質問されれば、大方の母親が苦渋しつつも『子ども』と答えるだろう。いや、苦渋することなく即決する母親もいるに違いない。
しかし私の母は違う。
「愚問ね、旦那様に決まっているでしょう? 子どもは旦那様が生きている限り産むことができるけれど、旦那様はただお一人。そんな御方の命が消えてしまえば子どもを産む以前、世界が終わるもの」
父を崇拝しているように愛している母にとって、『個』は父だけであり、それ以外は十把一絡げに等しい。私たちも父と同じ『個』なのだが……。しかも母の愛する『旦那様』との愛の結晶。それを失うのはいいのか。……ああ、だから産み直すのか。
どうも母は『愛し方』が人と違う気がしてならない。一体どんな子ども時代を送れば、こうなるのか。
そうやって母に対し疑問を抱くのは、きっと私に半分人間の血が流れているから。
自分の感覚が周囲と異なっていることは自覚している。そして生粋の人間である母の方が、私より言動が悪魔らしいことも。
「昔、異国の物語を読んでね。少女を幼い頃から自分好みの女に育てる男の物語だった」
それに影響され作り上げた自分好みの女こそ、母だと父は言う。
「まあ、それでは私は旦那様好みの女なのね」
それを聞くと手を組み、嬉しそうに瞳を輝かす母。
いつまで経っても互いへの愛情を失わないのは夫婦像として羨ましいが、そこは生粋の悪魔の父。母の愛情が変わっていないか調べるため、わざと若く美しい悪魔の女と密会することがある。
それを聞きつければ鬼の形相となった母は武器を掴み、密会場所へ向かう。そして私たち兄弟は全員で母の後を面白半分、残り半分は後始末のために追いかけることも恒例となっている。
「人の男に手を出してんじゃないわよ‼ 旦那様は私だけのものよ‼」
武器を振り上げ、相手の女を滅多打ちにする様子を父は微笑んで見ているだけ。棍棒が血に染まっていく。やがて反抗できなくなった相手が気絶すると、やっと母の手から棍棒が落ちる。
そして恐れ怯える目を父に向け、消えそうなか細い声を出す。
「だ、旦那様……。わ、私……。私……。捨てられますの……? それとも私に飽きられましたの……? 私、そうしたら……。私……。どうすれば……」
母は異常なまでに父からの愛情が失われることを恐れている。父がどういう異国の話を読み母がこのような性格になったのかは知らないが、結果に満足した父が母を抱き寄せる。
「君の美しさに目が眩む男が大勢いる。私より他の男が気になっているのではないかと心配になり、つい君を試してしまった」
「杞憂です、旦那様! 私が生涯愛するのは旦那様だけです!」
抱き合う二人の横に倒れている女悪魔の足首を掴むと兄二人が引きずり、姉がその間に棍棒を回収する。その様子を、棒つきキャンディーを舐めながら眺める。今日は酸味が強い透明なキャンディー。酸っぱいというより刺すような痛い刺激を与えてくれ、それがクセになる美味しいキャンディーだ。
ずり……。ずり……。めった打ちにされ暴行の痕が生々しく血を流し、気絶している女悪魔はピクリとも動かない。そのまま部屋から引きずり出すと、両親を残して扉を閉める。
「こいつ、誰だっけ?」
「お父様から名前を聞いている、住所も」
キャンディーを舐めながらメモを取り出す。ずりずり。兄弟で協力し合い、体中から血を流し引きずられる跡を残しながら、女を自宅まで運ぶ。
途中で目を覚ましそうになれば姉が棍棒で殴り、それを見て妹二人は愉快そうに手を叩いたり指さしたりして笑う。そして女悪魔を自宅の玄関先まで運ぶと、後は知らないとばかりに彼女を捨て去る。
いつもこうだ。母が手にする武器は父が事前に玄関脇に用意しているもの。それも相手の女悪魔に有効な武器ばかり。
それを手に母は乗りこみ女悪魔を倒すと、そのまま父と二人きりの時間を過ごす。その間に兄弟で女悪魔を自宅前まで引きずる。まだ魔法が上手に使えない私たちは、フィジカルに運ぶしか手がない。
悪魔社会では理想の夫婦かもしれないが、私には歪んでいるように見える。母が父からの愛が失われることを異常に怯えることもそう。きっと父がそうなるよう仕向けたに違いない。
生粋の悪魔の父は、母がそんな人となったことに良心の呵責を持ち合わせていない。
父により歪んだ母。それなのに二人は幸せそう。愛ってなんだろう。答えが出ないまま、キャンディーを噛み砕く。
さらに母は父の魔法により、若い年齢の姿を保っている。子を産むためと、武器を使いこなし女悪魔に立ち向かわせるためだ。それでも母はいつか人間として寿命を迎え死す。その日を心待ちにしている母は、やはり人間としておかしいと思う。なぜ母が死を心待ちにしているかというと……。
「旦那様と約束しているの。私が死んだら魂を食らってくれると。今でも心一つ堅く結ばれている私たちだけれど、魂を食らっていただければ文字通り一つの生命体になれるの。素敵でしょう? これこそ究極の愛よ!」
とんでもない話だが、母はその日が訪れることを心底楽しみにし、うっとりとしている。
初恋がまだの私は、そうですかとしか言いようがない。
悪魔社会で生活を始めた当初は馬鹿にされることも多かった母だが、言動が普通の人間と大きくかけ離れており、夫を侮辱する者には傘の先で目を突き、口を縫いつけ躊躇なく制裁を加える。おかげで今や本当に人間か疑われているほどだ。
だけど娘の私が悪魔の思考から外れている面が多いので、母は人間で間違いない。
スタイルも良く顔も美しい母は、父が仕事で家を留守にする間も美を保つための手を抜かない。
「醜くなって旦那様に幻滅されたら、世界の破滅だもの!」
そんなことで世界は破滅しないが言っても無駄なので、突っ込むかわりにキャンディーを噛み砕く。
母にとって世界は父。ある意味、悪魔の父が世界を統べる神とも呼べる存在。
……神と悪魔、人間ってなんだろう。たまに分からなくなる。
とにかく母は必死に父の心を繋ぎ止めようと、日々の服装にも頭を悩ませている。
「……この透けているレースのドレス、なに?」
「ウエディングドレスよ。旦那様が私のために作って下さった究極の逸品なの。美しいでしょう?」
自慢そうに言われるが、ただの破廉恥な衣装にしか見えない。
「でも今日は肌が露出していないドレスだよね。なんで?」
「飽きられないためよ。いつも胸元を強調したり、背中を大きく開かせ見せたりしていれば、いつか見飽きる可能性があるでしょう? だからたまには隠して焦らすことも大切なのよ」
力説されるが理解できない。しかしそれは私だけで、他の姉妹は感心して頷きウエディングドレスを褒めている。
兄弟の中で一人、私と違う意味で異端児がいる。それは末の弟。弟は今、父のために自分磨きしている母を見つめ歯ぎしりをしている。
◇◇◇◇◇
「旦那様、聞いて下さいな! 今日の授業参観で作文が発表されましたの。それを聞いて私、感動いたしましたわ。ほら、旦那様もお読みになって」
父の膝の上に座り、弟の作文に夫婦で目を通す。
母は父の膝の上がお気に入りで、よくそこに座る。父も拒まないが、子ども達に見せていい姿と言えるだろうか。そんなことを今日も思っていると、父が弟の作文を朗読し始めた。
「僕の母上は人間です。しかしそこらの悪魔よりよほど立派な悪魔のような人間で、父が絡めば悪魔王にさえ立ち向かう人です。この間も父に道を尋ねた女悪魔を見かけるなり蹴っ飛ばし、ハイヒールで顔をぐちゃぐちゃにしていました。僕はそんな母上が大好きです。母上以上に素晴らしい女性を知りません。だから僕の将来の夢は、父を殺して母上を手に入れることです。今は父に夢中になっている母上ですが、きっと僕の方が素晴らしい悪魔だといつか気がつくでしょう。今はまだ父に敵わないので戦いを挑みませんが、その時が訪れれば父に決闘を申しこみ必ず母上を手に入れ、二人の子どもを沢山作ります」
人間社会では近親での婚姻は禁止されているが、この悪魔社会では違う。兄妹で結婚することも許されており、弟が望むように親子で再婚することも可能だ。
「素晴らしいでしょう? まだ幼いのに傲慢、強欲。性欲も感じるこの文章!」
「ああ、立派な作文だ。将来が楽しみだな」
父も満足そうに頷く。
「それなのに人間の血が半分流れているのに近親相姦とは忌まわしい、なんて言う馬鹿がいたから笑ってやりましたの。悪魔ならば当然の考え。お宅は生粋の悪魔のくせして親子ともども、その領域に達していないようですね。恥ずかしくないのかしら。どんな悪魔なのか顔を見たいものだわ。あら、ここにあったわねと」
その時を思い出し、ころころと笑う母。
ここでその悪魔がなにかを言い返していたら、母は暴れただろう。そういう人だ。暴れなかったということは、相手が言い返すとまずいと本能で察したからか……。単純に母が危険人物だと思い出したのか。とにかく命拾いしたようだ。
こんな感じで、一応母は母なりに私たち子どもへなんらかの『情』は持っている。それがひどく人間としては歪み、父へ向ける愛情の足元にも及ばないだけのこと。
「はっはっはっ、君の言う通りだ。そして……。青臭い餓鬼に、私はまだ負けんよ」
魔法で弟の作文を燃やす父。
父も父で母を誰にも譲る気はない。もし弟が決闘を申しこんだら自分の子どもだろうと本気で戦い、殺すのもためらわないだろう。
「旦那様が負けるなんてあり得ませんわ。ましてや私が旦那様以外の男に目を向けるなんて、それこそ天地がひっくり返ってもあり得ませんもの。私の心は生涯、旦那様だけのもの……」
そう言うと母は幸せそうに父の胸にしなだれ、父は優しそうに背を撫でる。
すっかり見飽きた光景ではあるが、このやり取りを平気で子ども達の前で見せつけるのはどうなのか。やはり母は人間として狂っている。
幸せそうな両親の姿に弟は歯ぎしりし、悔しそうにテーブルクロスを握り締め殺意をこめた眼差しを父に向けている。父はそれに気がつくと勝ち誇った笑みを浮かべ、ますます弟の怒りを買う。
そんな母には双子の妹がいるらしく、なぜ叔母ではなく母を選んだのかと父に問うと……。
「馬鹿な赤ん坊など要らぬ」
意味は分からないが即答だった。
大半の悪魔は人間に召喚されなければ人間社会へ行くことができない。高名な悪魔は人に憑りつくため行き来できるが、それ以外の低能な悪魔は世界を行き来できる力を持っていない。しかし半分人間の血が流れている私たち兄弟は例外で、血のおかげで人間社会と行き来することが可能。
今日は父の命令で、兄弟全員で叔母のもとへ向かった。
「……あれが叔母様」
母を老けさせ、世間を憎んでいるように下から睨むような眼差し。第一印象は非常に悪い。
家事は全て老いた両親にやらせ、自分は部屋に閉じこもりきり。いつか王子様が現れると信じている哀れな中年女。それが叔母だった。
「確かに父上の趣味ではなさそうだ」
「だが姿を若くすれば母上に似た見た目になるだろう。母上を諦めてこっちにすればどうだ?」
長男が面白がって末の弟に言うが、彼は忌々しげに唾を吐く。
「あんな女、母上の足元にも及ばない」
母が父こそ世界だと思っているように、弟にとって母こそ世界。そんな母が人間としての寿命を全うすればどうなるか。それこそ世界の破滅だと絶望し、死を選ぶかもしれない。
「それで? 本当にやるの?」
今日は少し苦味のある灰色の棒つきキャンディーを舐めながら尋ねる。
「父上のご所望だ」
「面白そうだし、いいじゃないか」
兄二人は愉快そうに、どこか期待した眼差しを叔母に向けている。そして長男が父から教えこまれた魔法を使い、叔母の目の前へ一冊の書物を落とす。
その書物に書かれているのは、悪魔を呼び出し契約が交わせる方法。
最近人間社会では、ある布教師姉弟が悪魔を呼び出すことを止めようと各地で必死に訴えており、そのせいか悪魔を呼び出す人間が減ってきている。人間の魂を食らう機会が減っているこの状況は、人間の魂が好物の悪魔にとって頭の痛い問題。
しかも姉弟とその父親である大司教は、悪魔召喚に関する書物を見つけては焼いて処分しているので、余計に目障りな奴らと悪魔社会では評されている。
だから二つの世界を行き来できる私たち兄弟は悪魔王に命じられ、悪魔の力にすがりそうな人間に書物を与えている。
叔母には頃合だから書物を渡してこいと、父に命じられた。それを利用するかは本人次第。でも田舎暮らしを嫌い、またドレスを着て華やかな世界へ戻ることを夢見ている彼女なら……。利用する可能性は高そうだ。
果たして叔母は父の望み通り悪魔を呼び出した。それが自分の姉を連れ去った悪魔と知らず、彼女は願いを口にする。
「私は以前のような贅沢ができる暮らしに戻りたい! こんな村で貧乏な生活はもう嫌‼ お金持ちの生活に戻りたい‼」
「その願い承知した。代償は……。後で伝えよう」
ハットを深く被りうつむき、叔母からよく顔が見えないまま父は笑みを浮かべる。
代償ももちろんだが、死後その魂を悪魔に食われると知りながら願いを望む人間。『生きている』時さえ良ければ、死後はどうでもいいと考える愚か者が多い生き物だ。
「リューナ⁉」
「なにをしている! 部屋を開けなさい‼」
異変を感じたのか、祖父母が叔母の部屋へ飛びこんだが遅かった。彼女は父に連れ去られた後。部屋の床に落ちているのは悪魔を召喚する術が書かれた書物。それを拾い上げた祖父母は、なにが起きたのか察したようだ。
ただ叔母がなにを悪魔に望んだのかまでは知る由もない。だが見当はついているだろう。何年経っても村へ馴染もうとせず、以前の暮らしを望んでいるばかりだったから。
ガリッ。
棒つきキャンディーに噛みつきながら二人の後ろに立つと、音に驚いた二人が振り返る。
「お前たちの娘は今の生活が嫌だと言い、以前のような贅沢な暮らしを望んだ。だから我々はその願いを叶えた。安心するがいい、生活に困らない裕福な家へ送った。どうせ家事も出来ぬ女だ。お前たちが死し一人となれば、すぐ餓死するだろう。それに比べれば良いと思わぬか?」
そう言って真っ赤な血の色をしたキャンディーを舐め、どこか鉄臭い濃厚な味を堪能する。
「……ルジー?」
母に似ていると言われる私を見て、祖母が母の名を呼ぶ。
「私はルジーではない。私はリューナの願いを叶えた悪魔の代理人。本来ならこうしたことは行わないが、血縁者のよしみでリューナがどうなるかを教えてやっただけ。我々は二度と会うことはないだろう。……布教師の言葉を忘れるな。我々悪魔は人間の欲につけこみ、人の魂を食らう者。良いな、けして忘れるなかれ」
「ま、待ってくれ! 君は……!」
祖父母が引き止めるのを無視し、姿を消し悪魔社会へ帰る。
……不必要なことまで喋ってしまったが、父から託された言葉は二人に伝えた。
これから祖父母がどう暮らしていくのかは分からない。
だけど母と違い、叔母は自身が望んで悪魔と契約を結んだから、あなたたちの責任ではない。だからどうか気に病まないでほしい。それでも祖父母は気に病み、娘を二人とも悪魔に奪われた運命を……。悪魔を呪うだろう。
その呪いは神への憎しみに変わり、悪魔の糧となることもある。
やはり父は立派な悪魔だ。
私が一番人間臭いと分かっていて、こんな役目を押しつけるのだから。
◇◇◇◇◇
老人の悪魔に連れて来られたのは、どんよりとした暗い雲に覆われたどこかで、村ではないことは分かる。ひんやりとした空気の中、目の前には大きな屋敷。
確かに私が望んだように大きく、見るだけで金持ちの屋敷だと知れる。しかし壁一面には黒っぽい初めて見る植物の蔓が這い、庭は枯れ木ばかり。その枯れ木は計算され配置されており、わざと枯らしていると分かる。そんな枯れ木の枝にカラスのように黒い大きな鳥が止まり、ギャーギャーやかましく鳴いている。
ひどく不気味に思え、そのせいか空気が冷たさだけでなく重くも感じる。
「……ここ、どこ?」
絞り出した声は自然と震えていた。それは寒さからなのか、それとも……。
「君が望んだ生活ができる場所だ」
……確かに大きな屋敷だけれど、きらびやかな屋敷を想像していたので戸惑う。
それでも悪魔の後を追いかければ、悪魔は手の骨を模ったドアのノッカーを叩く。
……気持ち悪い。いくら贅沢な暮らしができるとはいえ枯れ木といい、こんなノッカーを使う趣味の悪い屋敷で生活するなんて……。耐えられる自信がない。
「私、別の屋敷がいいわ。もっと明るい場所に建つ家が良い」
「願いにそんなことは含まれていなかった。追加は受けつけないと書物に記されていただろう?」
読んだ覚えがあるので黙る。
ノッカーを叩いただけで開いた扉の向こうには、誰の姿もなかった。どうやって扉が開いたの? 気味が悪く扉をくぐることを躊躇していると、目には見えないなにかが腕を引っ張り、開かれた扉の向こうへと引きずりこんだ。
壁も天井も家具も、なにもかも真っ赤な造りのフロア。濃淡はあるが全て同色なので頭が狂いそう。それに……。なに、この臭い。悪臭に思わず鼻を手で覆う。
「約束通り妻にちょっかいを出すのを止めてもらおう。この娘はこの娘で自分勝手な生き物。これからお前の望む女に調教するがよい」
悪魔は部屋の奥に向かってそんなことを言う。
意味が分からない。なにを言っているの? 調教? 私が自分勝手? なんて失礼な悪魔なの?
「その女の魂も譲ってくれる約束、忘れてはいないな?」
低くしゃがれ、潰れたような男の声が奥から聞こえてくる。
「こんな女の魂はいらぬ。私がこの女の魂を食らえば妻が嫌がる」
「譲渡成立だ」
そうして部屋の奥から現れたのは、体が緑色でイボが全身にある醜い生き物だった。
カエルを巨大化させたような姿。腹は何段にも重なっており、なぜかイボからねっとりと粘膜が垂れている。
悲鳴をあげる前に腰が抜けた。
「ようこそ我が屋敷へ。この屋敷が今日から君の住処だ。俺は金持ちだから不自由はさせないと誓おう」
化け物は長く赤い舌を見せ、舌なめずりをする。真っ赤な目は私を値踏みしているように全身を舐め回しており、不快が走る。
見れば尻尾も生えている。明らかに人間ではない!
べちゃり……。べちゃり……。粘膜により濡れた足音を立て近づいてくる。化け物が一歩近づいてくるたび、異臭が強くなる。
「あ……。あ、ああ……っ」
腰を抜かしたまま逃げようと尻をずらすと、背中になにかが当たる。怖々振り向きながら見上げれば、呼び出した悪魔が私の後ろに立ち行く手を塞いでいた。
目に涙を溜め、首を横に振る。
「ち、ちが……っ。こんなの、私が望んだ願いじゃ……」
「なにが違うのかね? そいつは金持ちで、ここで暮らせば贅沢な生活が送れるというのに。金持ちの生活に戻りたいと言ったのはお前だろう? それとも私が願いを聞き違えたとでも言うのか⁉」
殺気を身にまとった悪魔が巨大に見え、意識を手放しかける。その時、ざらりとした生暖かく気持ち悪い感触が首筋に走った。いつの間にかそばまで来た化け物が、首筋を舐めたのだ。
「……ひっ」
「老けている見た目が気に入らない、若返らせてやろう」
醜い化け物がべちゃん! と湿った手を打ち鳴らせば、お姉様と別れた頃のような若い姿となる。
白い肌、艶やかな髪。これは一体……? 美しかったころに戻れたのは嬉しいけれど……。
「容体はどうだね?」
「見れば分かるだろう、まだ治っていない。お前の妻は加減を知らんのか。人妻と知りながら襲おうとした俺も悪いが、あの女、護身用の短剣で尻尾を斬るし全身に酸性の液体をぶっかけてくるし……。まったくもって、いい女だ」
にちゃあ。化け物の顔が笑みとともに横に伸びる。
「お前みたいな輩がいるから、護身用の道具を常に持たせている。とにかく約束通り、これで二度と妻に言い寄るなよ?」
「もちろんだとも。見た目も双子なだけあり俺の好みだ、実にいい」
頭を回転させる。答えが見えているはずなのに鈍くなっており、そこになかなか辿りつけない。いや、答えを知ることを本能が拒否している。
「これからはご近所だが……。本当に約束通り、この女を一生屋敷に閉じこめてくれるのだろうな?」
「もちろんだとも。下手に外へ出し、お前の妻に殺されるのはごめんだ」
なんですって⁉ この化け物の屋敷に一生閉じこめられる⁉
「い、嫌よ! こ、こんな場所で‼ こんな化け物と、いっ、一生暮らすなんて‼」
「お前の妻はあんなに堂々としていたのに、こいつ怯えているぞ。つまらんな、双子だから姉のように豪胆な女だと期待していたのに」
「あ、姉? お、お姉様のこと? なんであんたみたいな化け物がお姉様を知っているのよ⁉」
「私の妻だからだ」
呼び出した悪魔がにこやかに答える。瞬間、頭が急速に回転する。
ご近所。妻。悪魔。化け物。つまりここは……。
「あ、ああ……っ」
悪魔の世界に連れて来られたのだと理解する。だから本能が答えを知ることを拒否していたのだ。
「豪胆な女が良ければ調教すればいい。それでも気に入らなければ、とっとと肉体と魂を食らえばいい。お前の嫁だ、お前の自由にしろ。さて願いの代償だが……。もう分かっているな?」
ぐいっ。髪の毛を乱暴に掴まれ、顔を近づけると老人の姿をした悪魔は言う。
「この屋敷で一生過ごすことだ」
そう言うと髪の毛から手を離し、お姉様の夫と自称する悪魔は軽やかな足取りで屋敷を去った。
「さあ花嫁殿、さっそく俺と契りを交わそうか」
は、花嫁⁉ 私が⁉ こんな醜い人の姿をしていない化け物の⁉ こんな見た目の奴なら、まだあの年老いた悪魔の方がマシだわ‼
血走った目で化け物が私の体を抱きしめ、べろべろと顔を舐め接吻してきた。悪臭が口から流れこみ、吐きそうになる。粘膜が体にべっとりとつき、気持ち悪い。
違う、違う! 私が望んでいたのはこんな……! こんな生活ではない‼ 人間の世界で貴族として生き、甘く優しい世界を望んでいたのに……!
助けて! 誰か助けて‼ 何度叫んでも誰も助けてくれない。神や天使に祈っても無駄だった。
……なぜ悪魔を呼び出してしまったのだろう……。
緑色の粘液にまみれた裸のまま、ぼんやりと真っ赤な天井を見つめる。
これなら村で貧乏な暮らしをしていた方がましだった……。
きちんとお父様の言う通り反省し、お母様の手伝いをし、村人にも歩み寄り……。
そうすれば人として、幸せを掴んでいたかもしれない……。
「美しい、やはりお前は美しい。最高だ、この白い肌。柔らかい胸。まさに理想の花嫁だ。後は性格を矯正すれば……」
何度も私を抱いた化け物に褒められても、嬉しくない。
ざらりとした舌で舐められ、薄い唇で肌を吸われる。
抵抗する気力も湧かず、ただ涙が頬を伝った。
お読み下さりありがとうございます。
「悪魔の花嫁」を書いていて、人間サイドの続編を書こうと思っている中、悪魔サイドの続編を読みたいと感想を頂き、三部作となりました。
それで当初考えていたその後と、リューナは大きく変わりました。
マリーは予定通りのその後となりました。
母親は廃人同様になる予定でしたが、こちらも変更。
リューナは当初、ワガママ娘なのでろくでもない男(人間)との結婚エンドを考えていました。
しかし「悪魔の花嫁」というタイトルと併せて考えると、この三部作で良かったと、自分の中ではなっています。
想像以上に多くの方から読まれた「悪魔の花嫁」は、これで完結です。
三部作として書けたのは、読んで下さった皆さまのおかげです。
ありがとうございました。
◇◇◇◇◇
感想について
受付を行い内容には目を通しますが、お返事は今回は控えさせて頂きますのでご了承下さい。
また事前連絡なく、感想の受付を終了することもございますので、そちらも併せてご了承下さいませ。
◇◇◇◇◇
誤字報告について
現在全作品の見直しを行っているので、受付停止中です。