二、ふらり火(後編)
「ふらり火!?」
俺のその声は大絶叫によりかき消される。
体に巻き付いている炎によって瞬く間に炭化している店員か、あるいはそれを行っている化け物か、どちらであってもそれらを間近で見る羽目になった五人はギリギリだった精神の臨界を迎えてしまったようだった。
おばちゃんトリオは、絶叫するのもいれば、その場でへたり込む、あるいは気絶して倒れてしまう。
ヤンキーカップルは我先に逃げ出そうとするオスにメスが縋り付き動きが止まってしまっている。
「くそ!」
俺は咄嗟に角から飛び出し、目の前の光景に呆然としている女の子をすくうように抱える。
店内から出ようとしていたふらり火は、一歩前に出る度に纏う炎を大きくしていた。
なにをしようとしているのかは明白であり、間に合わない五人を見捨てることしかできない。
T字路を越えるその瞬間、背後で爆炎が巻き起こる。
間に合わない!
熱と強烈な風に吹き飛ばされ背どころか全身を焼かれる感覚を覚えながら、それでもなんとか体勢を整え着地する。
「うぇえええええっ!」
「大丈夫! 大丈夫だから!」
思い出したかのように泣き出す女の子にそう言いながら、眉を顰めかける。
全身を焼かれたかと思うほどの熱さを確かに感じた。
なのに普通に走れる。
意識を僅かに身体へ向けると感じ取れる感覚はいつも通り。いや。それどころかさっきより調子が良くなってないか?
おかしなことはそれ以外にもある。
腕に抱えている女の子を確認しても、彼女のどこにも燃えている形跡がなかった。
着ている服は可愛らしいワンピースで、それにすら焦げ目一つない。
勿論、抱えながら走っているので目の届かない場所はあるけど、そんな些細な規模ではなかったはず。
そもそも俺自身の感覚からも自分の衣服に異常を感じていない。
たとえ焼け落ちていなくても、焦げる燃えるなどすれば背中にそれを感じないのは不自然だからな。
首だけ回して後ろを確認すれば、両脇に並ぶ店はディスプレイが溶け、服や雑誌など燃えやすいものは燃えていた。
そんな状態になっていてもスプリンクラーは動かない。
夢……ではないな。
身体から訴えかける感覚が眠っていることを否定する。
これは現実だと分からせながら、まるで現実とはいえない状況にジジイ直伝の呼吸法が無ければどうなっていたか。
もっとも、だからといって……
T字路からゆっくりと犬の頭が顔を出す。
ここから先どうすればいい!?
このまま前に進むとほどなくして出口の階段が現れる。
つまり、行き止まりだ。
出られないと言っていた言葉を信じるのならだが。
見捨てざるを得なかった人達のことを思い浮かべた時、己に対する怒りが沸き起こる。
あんな非現実的な化け物、いや。妖怪が実在するなんて想定するはずもなく、例えできていたとしてもそんなのを倒せる術なんて知らない。
架空の話ならいくらでもあるだろうが、少なくとも俺が手に入れた術の中にあるはずもなかった。
なのに、思ってしまう。
何故助けられなかったのかと。
馬鹿じゃないだろうか!? 今そんなことを思っている場合じゃないだろうが! そんなことをしているぐらいなら生き残る手段を考えろ!
自分のおかしな心に叱咤しながら、進行方向上にあるであろう物を探す。
あった!
壁に貼り付けられている赤い箱。それの前に一瞬だけ立ち止まり、女の子を左手のみで抱え直し、中に入っている消火器を取り出す。
「ちょっと我慢な」
女の子に一言断ってから全身を回転させ始める。
この場で一つ幸いなことがあるとすれば、地下街であるということだ。
向こうは人の二倍の大きさに加え、鳥の体。
翼を広げて飛ぶことも出来ず、一歩一歩歩いてこちらに近付くしかできない。
勿論、いきなり唐揚げ店から出てきたことを考えれば別の移動手段を持っているかもしれないが、そこまで考えていたら呼吸法があっても心が折れてしまうだろう。
今はただこれが効くことを!
十分に遠心力を付けさせた消火器を投げ付ける。
勢いよく飛ぶ赤い筒はふらり火の顔に当たる――直前で喰われてしまう。
が、それが狙いだ。
強靭な顎なのか一瞬で噛み砕かれる消火器から白い粉末が吹き出し、ふらり火は苦しそうに上半身を振り回し始めた。
よし! 今の内に!
更に前へと走り、探す。
どこかに消火ポンプがある消火栓設備があるはず。
消火器が効果あるのならきっと水を使えば!
そう願うように思っていると、階段の手前にそれらしき赤い扉を見付ける。
後ろはまだ悶えていた。
これなら十分間に合う。
そう安堵した瞬間、嫌な予感に襲われて急停止した。
消火栓設備まで後一歩。そんな距離だが……
「お姉ちゃん?」
いつの間にか泣き止んでいた女の子が不思議そうに俺を見る。
いや、お兄ちゃんだからね。
反射的にそう思いながらまだ空けていた右手を前に差し出すと、なにもない空間のはずなのに硬質的な感触を感じた。
足に踏ん張りを入れても、びくともしないほどの見えない壁。
記憶が確かなら、向こうの出入り口では階段手前までは大丈夫だったはず。
もし、ここも最初はそうだったとしたら……
あしゆびがタイル床を進む音が聞こえる。
それが大きくなると共に、前に突き出している手が押され始めた。
この空間があのふらり火によって作られているのであれば、その範囲も自由自在ってことか!?
その限りなく事実に近いであろう仮定に、俺はぞっとする。
もはや脱出する手段も、倒す手段もなにもない。
諦めるなと頭が折れそうな心を叱咤するが、炎を纏った相手に対して生身の人間ができることなどあるはずもなかった。
せめて……
俺はゆっくりと振り返り、女の子がふらり火を見ないようにさせる。
少しでも怖い思いをさせないように……
そんなことしかできない自分に、爆炎を浴びた時以上の熱さを感じる。
許せない。こんな結末。許せるはずがない。非情を、非業を、絶望を許すな。あがらえ! あがらえ!
頭だけでなく心までもが己を燃やす激怒に応え出す。
それが無意味であると理解してはいても、納得は例え無駄であってもその瞬間まで止めない。
「お姉ちゃん。熱い。熱いよ」
女の子に訴えにもはや応えることもできないほど、俺は迫るふらり火に集中していた。
どこかに僅かでもいい! 可能性を感じさせるなにかを!
そう睨むように見ていたためか、後十歩というところでふらり火は立ち止まる。
交差する俺と犬の目。
だが、それは僅かな間だけだった。
「ガァアアアアアアアアア!」
耳をつんざく犬とも違う形容し難い不快な咆哮。
俺へと一気に飛び掛かり、開かれる巨大な口で噛み砕こうと迫る。
今だ!
飛び上がったことにより僅かに開いた下の隙間。
そこに滑り込み、噛みつきから逃れる。
しかし、ふらり火が作り出した炎の世界でそんなことをすればどうなるか。
再び身を焼くほどの熱さが俺達を襲う。
が、何故かそれによって燃えることはなかった。
すれ違う際にふらり火の炎に触れもしたのにだ。
やっぱり気のせいじゃなかったか。だが、なんでだ? いや。今はそんなことより、この僅かな可能性に賭ける!
そう思って立ち上がった瞬間、店を燃やしている炎が一斉に強くなり壁のようになった。
突然の変化に対応するより早くそれは瞬く間に形を変え、犬の頭と鳥の体を持つ化け物になる。
「お姉ちゃん! 消えたよ!」
女の子に教えられなくても俺は感じ取っていた。背後のふらり火の気配が消えたことに。
唐揚げ店からいきなり出てきたのは、つまり火から火へ移動できるってこと。
店員が火を消したと言っていたことを思い出せば、熱でもいいのかもしれない。
なんであっても、これでは例え燃えない謎の現象が起きていても……
間近に現れたことに加えて起き上がり直後。
もう俺にふらり火の噛みつきを避けることができない。
開かれた炎を纏うあぎとが閉じようと迫る。
「くそっがああああああああ!」
ただただ反攻せんと叫ぶが、避けようのない現実にそれすら許さ――
ない直前、なにかが割れる音がした。
それと共に飛び退くふらり火。
「な、なにが起きた?」
唖然とする俺の前に、それが降ってきた。
警戒するように頭を下に唸り声を上げているふらり火を視界の端に捉えながら、タイル床を砕き突き刺さっている物を見る。
一瞬、それがなんであるかわからなかった。
そんなものがこの場にあるなんて、ましてやそれは降ってくるなんて都合の良過ぎることを考えるはずもない。
一振りの刀。
それが鞘に納められた状態で突き刺さっている。
まるで抜けといわんばかりに。
そして、何故か俺はそれが最近よく見る刀と同じように思えた。
思えばあの刀達も、今起きていることと同じように非現実的な光景だった。
だから、もしかしたらという思いが湧き上がる。
荒唐無稽なそれでいて、あまりにも良過ぎるタイミングでの出現。
不審や不安も抑えられない。
だが、この手には自分以外の命があり、なにより頭と心が同時に訴えかけてきた。
可能性が僅かでもあるのならそれを使え!
己が命じるままに柄を握る。
その瞬間、周囲の炎が掻き消え、燃えるような熱さすら消えた。
打刀の間合いだけに起きた現象だったが、それだけで十分過ぎるほど理解できる。
これは対抗手段だと。
同時にこれの使い方も何故かわかった。
まるで握ったことによって刀自身が教えてくれたかのように。
「悪い。降ろすぞ」
「お、お姉ちゃん?」
戸惑っている女の子を抱くのを止め、自由になった左手も使って床に突き刺さった刀を鞘ごと抜く。
質感と重量は間違いなく本物の剣だ。
そう改めて確認しながら、右で柄を、左で鞘を持ちながら前面に構えた。
まるでそれが合図になったかのようにふらり火の炎が膨張し始める。
地下街を全て埋め尽くすほどの炎の波が僕達を飲み込もうと迫り、女の子が僕のズボンに縋り付き目を瞑った。
絶体絶命な状況。
なのに、俺は己に対する怒りに身を焦がすこともなく、それどころか――
「抜刀!」
ああ、女の子が目を瞑ってくれてよかった。きっと今、壮絶な顔をしているはずだ。
「『抜刀』」
俺の言葉に間髪を入れずに刀が渋いおっさんの声を発し、鞘から刀身が抜かれた。
自分の力だけでなく別の力もその瞬間に加わっていることを感じながら、縦に振られた一刃が襲い掛かる炎を割る。
その光景を自分の目と『新たな視界』から見ていた俺は驚くしかない。
もっとも、それを表に出す暇もなかった。
何故なら炎にまぎれて飛び掛かってきていたふらり火までは切り裂けなかったからだ。
ああ、だからこれがあるのか。
俺は納得しながら、『もう一つの身体』で拳を振るった。
突き出された赤い硬質の右拳。
それが犬の顔に突き刺さり、一瞬だけ宙に縫い留める。
間髪を入れずに振るう左拳を鳥の胴体に叩き込みふらり火を後ろに吹き飛ばした。
そして、ゆっくりとそれを前に歩かせる。
ふと思い出すのは、ジジイの道場にあった戦国武将が使っていた甲冑のレプリカ。
脇を通り抜けるそれは、まさに戦国甲冑を現代の技術で再現し、アニメなどで見る鋭角的なロボットのようにした姿をしていた。
全色赤でありながら特徴的な頭部の飾りはなく、なんの武器も持っていないシンプルな姿ではあっても俺の二倍・三メートル近い巨体は迫力と共に頼もしさを感じさせる。
やや前で止まらせたそれを、顔だけこちらに向けさせた。
自分が見える。
女の子にお姉ちゃんと間違われるほど中世的な顔付きが自分を見上げていた。
それでいて、激怒しているかのような総面が俺を見下ろしている。
抜刀と言い、刀が応えた瞬間、俺の意識は二つに割れた。
一つは俺の体のままに、もう一つはこの日本甲冑ロボット。いや、違う。これは、
『刀人』
何故か頭の中に浮かんだその単語が、俺のもう一つの体となったロボットの名前だと思った。
そして、刀人を呼び出すこの手に持つ刀は、
『刀人刀』
『混沌』を滅し切り裂く刀達。
……混沌? 妖怪じゃなくって?
浮かぶ言葉に一瞬頭が止まったが、それを深く考えるより前に『這妖』が……また知らない単語が出てきた。とにかく、ふらり火が立ち上がる。
炎を噴き出し自身の身を隠すと共に、炎が入って来ない刀の間合い以外が燃え上がった。
無効化範囲外にいる刀人は炎に晒されるが、特に熱さを感じなければ燃えることもなく、目はふらり火を見失うこともない。
これはまた不思議な光景だな。
思わずそう思ってしまうほど、もう一つの視界は人のそれとは違っていた。
視界が炎一色になっていても、しっかりとふらり火の動きが見える。
犬と鳥の体が球体に変化し、壁があるであろう位置を無視して移動し始めるのをその瞳は映す。
迂回して後ろに出ることがありありとわかり、俺はゆっくりと刀人を背後に移動させた。
多分、知らない知識は刀人刀が教えているのだろう。
何故なら、訴えかけてくるのを今強く感じるからだ。
己が身を守るために這妖の体を刀人でもって滅せよ。
そして――
待ち構えている刀人に向かってふらり火は飛び掛かる。
俺はジジイから実戦式抜刀術の一環として徒手空拳も教わっていた。
それは空手であり、柔術であり、ボクシングであり、と競技・流派とくにこだわりもなく教えられたため、狭い場所での戦い方も心得ている。
刀人は腰を落とし右手を救い上げるように打ち上げた。
アッパーカットが犬の顎に突き刺さり、それに抗う鳥の足が刀人を切り裂こうと迫る。
それを左腕による払い落としで受け流し、頭部と足に掛った別方向への力によってふらり火の体が僅かに捻じれた。
この状態の身体構造が物理的な制約を受けることは追われている段階でもわかっている。
勿論、僅かに出来た隙に過ぎない。
だが、それだけあれば十分だ。
何故なら攻撃が通じない・同じ体格ではないからこその脅威であって、同条件で俺が負けるはずもない!
振り上げた左手を手刀に変え、鳥の肩に叩き込む。
骨まで喰い込む一撃によって床に叩き付けられるふらり火。
反撃せんと動かそうとする前に右手で両足を掴み、持ち上げ天地を逆さにさせた。
後はただただ右手を握り、撃ち抜く! 撃ち抜く! 撃ち抜き続ける!
固められた拳が当たる度に、右羽が、左羽が、左耳が、右目が吹き飛び、散っていく。
血肉が舞う代わりに炎が散り、その体が現実のものではないことを示す。
幾度繰り返したのか僕もよくわからないほど滅多打ちにし続け、断末魔の叫びすら聞こえなくなった時、それはそこに現れた。
唯一無傷な鳥足からぶら下げられている肉片。
その丁度心臓部にあたるであろう場所にどろどろとした黒い球体が。
刀人刀は訴える。
核を斬れ!
俺は鞘を捨て、女の子が掴んでいる足を起点に上段に構える。
むき出しになった核に刀人の手を伸ばさせ、一気に引き抜くと無事だった部分が全て炎に変わる。
それで留めになったわけではなく、身体が焼失すると同時に核から染み出すように血肉が現れ始めた。
核を壊さない限り混沌は蘇り続ける。
右手に力を込めても黒い球はびくともしない。
刀人は這妖の体を滅せても、核は壊せない。
だから、刀人に核を俺の前に投げ込ませる。
唯一壊せるのは、刀人刀のみ!
「はっ!」
刃を裂帛の気合と共に振り下ろす。
床に剣先が届く前に止め、少し遅れて二つに割れた核が床に落ち粉々に砕けた。
俺は油断せずにそのまま黒い小さな結晶達が霞のように消えていくまで見続ける。
全てが消え、周りから炎がまるで幻だったかのように消えたのを確認してゆっくり息を吸う。
熱すらない空気を感じなら思わずつぶやいた。
「倒せたのか?」
その瞬間、視界が歪む。
身体の力が急速に抜けるのを感じながら、直前に感じていたのとは違う刀人刀の訴えを感じる。
核を切り裂きし後、即座に声出し納刀せよ。
「の、納刀」
床に捨てた鞘が俺の言葉と共に浮かび上がり、
「『納刀』」
再び聞こえた渋いおっさんの声と共に勝手に動いて刀身を収め始める。
二つあった意識が一つに戻り、後ろを振り向いてみると刀人の姿が上と下に現れている黒い線に挟まれるように消えていた。
どうやら鞘の納刀に合わせて動いているそれは完全に刀身が収められるのと同時に刀人と共に消える。
残されたのは刀人刀のみ。
だが、それも何故か俺の手からすり抜け、鞘ごと勝手に動き左腰にピタリとくっ付いた。
再び握ろうとしても触れることすらできず、見えているのにそこにない蜃気楼のような状態になってしまう。
ああ、だからあの人達は普段から身に付けるしかないのか。
思わず納得してしまうと共に、俺は力尽き前のめりに倒れてしまう。
「お姉ちゃん!? 大丈夫お姉ちゃん!」
だ、だから俺はお兄ちゃんだって――