第三話 激白!キヤマケンタの輝かしき栄光!
「やっぱ帰ろっかな…。」
体中にまとわりついた肉の重りを揺らしながら、一歩ずつ大地を踏み抜くように歩を進める。牛歩という表現はまさしくこのような状況を指すのであろう。傍から見れば、屋形をひく牛そのものである。
なにせ梅雨が終わった直後の夏真っ盛りである。ふんだんに水気を帯びた空気が、私の毛穴から抽出される諸々の汁と混ざりあい非常に不快である。
―――諸々の汁。字面は最悪だが、しかしそれにまつわる私の記憶は蒸留水の如く澄んでいる。
それは遡ること20年前、私の一家はこの元気モリモリ町に移り住んだ。父が立ち上げた、冬に開く海の家事業が大失敗したため、闇夜の中はるばる逃げてきたのである。
以前の小学校で過酷ないじめを受けていた私にとって、これは人生の再スタートとも呼べるチャンスであった。自身の吃音症を隠し通すため、新たな学校ではあらゆる会話を手話で遂行した。つまり、聾者として振る舞ったのだ。私の演技は完璧であった。誰もが信じ込み、彼らは教師から強制された「かりそめ」の慈悲をもって私に接した。…ただ一人を除いて。
それは褐色の肌を持つ、過度に痩せ細った女であった。彼女に対する私の第一印象は決して良いものではない。私とは対極の体型を持つ彼女に対し、異形の念を覚えた。それと同時に、このグロテスクなシルエットに対し憐れみを抱いた。
その痩せた身が引き寄せた災いだろう。その女は、かつての私と同様に、心なき者達の鬱憤を晴らすためだけのズタ袋として生かされていた。
彼女はその意味において、私の写し鏡であった。だからこそ、あの時とっさに体が動いたのだ。
私の大嫌いな体育の時間、その日はサッカーだった。聾者として振る舞う私は、場外のVIP席にて、うだるような暑さの中で授業の終わりを告げる鐘の音を、いまかいまかと待っていた。
冷えた茶を口内に注ぎ込みながら、ふとあの女のことが脳裏に浮かび、校内を見渡した。
彼女はいつものように孤立していた。無視も憂さ晴らしの一貫である。
授業も終わりが近づき、私の心が躍る最中、事態は一変した。
一人棒立つトゥンニめがけて、ノーマーシーな剛速球がさく裂した。
その衝撃に耐えきれず大きく吹き飛んだトゥンニはそのままゴールポストにダイブした。
「ごめんあそばせ。手が滑りましたわん♥」
「マカオ様、ハンドです。審判がイエローカードを出しています。」
「いやぁん♥♥♥」
唐突の暴力に私は戸惑いを隠せなかった。か細い彼女に対するあからさまな身体的攻撃はこれが初めてだったのだ。
突然の暴行に、私のココロは冷静さを欠き、身にまとった肉のスーツは一線を越えた暴徒に対し怒りでわなわなと震えていた。
しかし、当時の私は腰抜けであった。
この怒りは正真正銘のものであったのだが、実行には移せなかった。私は奴らの報復を恐れたのだ。ここで私が身を挺してかばうことにより、過去のいじめが再起することを何よりも恐れ保身に走ったのだ。
(この世は残酷なのだ。弱者が虐げられるのは自然の摂理であり、矮小な存在であるニンゲンが覆すことが出来ない絶対のルールなのだ。弱者は強者の陰に隠れうまく立ち回ることでしか、生を獲得することが出来ないのだ………。)
自身に沸き起こる罪悪感を麻痺させるため、あらゆる手段を講じて、目の前の非情を鵜呑みにしようとした。
(許せ、異国の民よ………。私に出来ることは我が内できゃつらを蔑み、おぞましき呪詛を唱えることだけだ………。)
仕方なかったのだ。
「それは俺のボールだ。お前は何をしている!?」
刹那、響き渡る少年の怒号。ネットに刺さったままのトゥンニを除き、そこにいた誰もがその声の主のもとに首を向けた。
「ダッダッダッダッダッダ!!!!」
その少年は紅潮した面で、少女を吹き飛ばした主犯のもとに大股で駆けつける。
「なぜ、何もしていない彼女に俺のボールをぶつけたのだ?故意であろう!?」
それが、私とチエとのファーストコンタクトであった。彼は私とは別のクラスに在籍していたのだ。
「なぁに?みない顔ね♥♥」
「我が名はチエ!貴様たちの一連の悪行をしかとみた!言い逃れは出来んぞ!?」
彼のからだを見ると随所に切り傷が出来ている。どうやら、暴行の瞬間を見た彼は自身のクラスから窓を突き破り急行したようだ。
「なんで血だらけなのぉ?それから貴方女の子のような名前なのね♥♥」
「だから何だという!?貴様のような下種にこの名の真意はわかるまい!」
両者の口論はますます激化していく。私は突然の来客に度肝を抜かれていた。
主犯格に加担する徒党もその少年にヤジを飛ばす。
「そもそもお前のボールじゃねぇだろ!学校の備品だぞぉ!」
「そうですわ♥どうしてそんなくだらない ウ ソ をつくのかしら?♥」
その少年の勢いは、数の力で徐々に圧倒されていくように見えた。
「う、嘘ではない!そ、そ、それはまごうことなく私のボールだ!買ったばかりで名前を書くのを忘れていただけだ!?」
「ん〜♥その割にはひどく年季が入っているわねぇ♥」
「あッ♥」
暴徒の代表は何かに気付いたようだ。
「あなた、もしかしてあの娘が好きなのね?物好きね♥♥♥」
激情した少年の顔は更に赤みを帯びた。
「カー――ッ!///」
図星であろう。彼の心の内は見た目、そして彼自身の発声により明らかとなった。
「彼女を好きになって何が悪い!?!?!?」
するとその瞬間、その少年は数歩下がり自身の胸の前で手を交差させ、大きく前へ飛び込み、悪漢の首めがけ重ねた二枚刃をぶつけた。
「ッスッパァアアアアアン!!!!」
交差した二枚の手刀をぶつけると同時に、少年は男の首を掻き切るように一気に両腕を開いた。
その後この動作を高速で繰り返し、連続で切りかかった。
彼の青白い細腕で繰り出される流れるような連撃は、私に蟷螂を彷彿させた。
「ズバババババババババババババ!!!」
両腕の鎌は止まることを知らないようだ。その一方的で無慈悲な斬撃に私は悪漢に対し憐れみを覚えたほどであった。
手刀の連撃を受け続ける男は微動だにしない。鬼神の如き連撃に為す術が無いのだろう。勝負の結末は誰から見ても明らかであろう。
「自分の!!(ズバババ)犯した罪を!!(ズバババ)特と味わいやがれ!!!(ズバババ)」
少年の魂からの叫びだ。涙を流しながら訴えている。
「そして!!(ズバババ)彼女に!!(ズバババ)あやまr(ッズb)」
「くどいんだよ。」
少年の連撃の雨は突如として止み、悪漢の頭上に彼の体が浮いた。
連撃を喰らい続けた男が、チエの胸倉をつかみ軽々持ち上げていた。
「黙ってりゃ好きかってやりやがって。俺がホントの手刀ってのを教えてやる。」
片腕でチエを持ち上げたまま、男は空いたもう一方の腕を後部に引き、鋭い手刀の構えをつくる。
それは邪悪な殺気に満ちた槍そのものであった。
決着は一瞬であった。
気がつくと、既にその手刀の先端はチエの喉元に埋まっており、少し遅れて辺りにズンという鈍い音が静かに響いた。後には奇妙な静けさだけが残った。
「勝負ありましたな。」
悪漢の取り巻きの一人が静寂を切って言う。
「………楽勝だったわん♥」
そして戦闘の終わりを告げる鐘が鳴った。男は突き立てた手刀を引き抜く。
「………あなた、チエと言ったわね♥ あなたの連撃はまだまだね♥」
不動の人形と化したチエを無造作に地に放る。
「でも素晴らしい戦闘精神だったわ♥♥ そこだけは褒めてあげる♥」
強者の絶対的な力を目の当たりにした一同の表情は畏怖に満ちたものであった。その時、皆この世の根幹となる摂理を思い出した。そう、この世界は強者の楽園であることを。
「…マカオ様、そろそろお時間です。着替える時間が無くなってしまいます。」
彼の傍らに立つ、知的な面立ちの女が言う。
「あらいけない♥ 帰りましょ♥♥」
男の背に続き、クラスの一同は帰路に就いた。
戦場跡に残ったのは私と、無造作に捨てられた少年と、ゴールポスト内で横たわるトゥンニであった。
あっけにとられ続けた私は、全てが終わった後で我に戻った。
「………そうだ、彼女を助けなければ。」
ふらふらと立ち上がり、校庭の真ん中でうつぶせになった少年をわき目に、ゴールポストへ向かう。
周囲を確認し、無抵抗に横たわる女の胸に耳を当てる。
―――よかった。まだ生きている。
女を優しく揺すり起こす。うつろな目をした女は徐々に意識を取り戻し始める。
「………アナタハ、オナジクラスノ…。」
「お、俺はキヤマケンタ。まだ、し、しゃべっちゃだめだ、君はさっきまで意識を失っていたんだ。」
「………!? アナタシャベレタノ?」
油断した。一連の騒動を知らぬ女を目前にし、私は普段聾者として振る舞っていることを忘れていた。
「み、皆にはだ、黙ってて。こ、これから君を保健室につれてくよ。」
「ホケンシツ………?」
女は私の言葉を疑問に思い、体を起こした。そして、苦悶の表情を顔に浮かべた。しばらくして悟ったようだ。
「ワタシ、アイツラニヤラレタンダ………。」
「け、けがをしてるから、む、無理に動いちゃだめだ。っぼ、僕が君を背負っていくよ…。」
「アリガトウ…。………私ヲフキトバシタヤツラハ…?」
「だ、大丈夫だよ。っも、もういないよ。」
私は校庭で倒れている少年を一瞥して、女の顔を覗き込んで、こう言った。
「僕 が 君 を 守 っ た ん だ 。」
女は暫く私の眼を見つめていた。心に深くのしかかった重責に耐えつつ、私も彼女の純朴な瞳を見つめ返した。すると次第に、彼女の眼差しは揺らぎだし、それは一筋の涙となってこぼれた。
「………アリガトウ。本当二アリガトウ。」
私は何も言わず、彼女を背中に抱える。彼女は驚くほどに軽かった。そして、その軽さは、先刻少年を一瞥した際に生まれた不快な重責をも軽めてくれるような気がした。
私の背中に彼女は顔を埋める。思わず、私は少しだけ前のめりになってしまった。沸き立つ興奮を感じながら、自身の体臭を卑下されることを恐れ、よりいっそう冷や汗をかいた。
「ケンタクンノ背中、トテモ懐カシイ匂イガスル………。」
思いがけない返答に私のココロは軽くなった。認められたことによる高揚感は私の中に残った、あの少年に対する罪悪感を完全に浄化した。
私が彼女を救ったのだ。この発言に対し微塵の違和感も覚えない。保健室に向かう途中、あの少年はもう視野には居なかった。