のろまなニールと森の王
『のろまなニール』
人里はなれた地に「獣王の森」と呼ばれる場所がありました。そこは獣王というおそろしい化け物が住むといわれ、人はめったに足を踏み入れませんでした。
ある日のことです、土地勘のない旅人が獣王の森の奥深くに迷い込んでしまいました。森はどこも薄暗く、湿った空気がよどみ、物音ひとつ聞こえずひっそりとしています。生き物の気配がまるで感じられず、旅人は不安な気持ちを抑えながら森の出口をもとめ急ぎ足で進んでいきました。そのときです、とつぜん巨大な獣が草むらの中から飛び出して旅人の行く手をふさぎました。真っ黒な全身の毛を逆立て二本足で立ち、その目は緋色に輝き、大きくひらいた口の中には太く鋭い牙がならんでいます。
「ひいっ。ば、ばけもの」
驚いた旅人は荷物を放り出すと獣に背を向け駆け出しました。しかし、獣はひと跳ねすると旅人をうえから押さえつけてしまいました。地面に押さえつけられてしまった旅人は手足をばたばたとさせて逃げようともがきましたが、頭からぺろりと食われてしまいました。獣が立ち去ったあとには旅人の荷物だけが転がっていました。
森からいちばん近くの村にはニールという少年が住んでいました。ニールはなにをするにもゆっくりとしていましたから、村のみなから「のろまなニール」と呼ばれていました。ですがニールは気にせずに、いつもにこにことしていました。仕事についていけずに怒られてしまったり、からかわれたりしたときにはしょんぼりとしてしまいますが、それでも次の日にはいつも通りの笑顔でいました。ですから村の人たちはニールが好きでしたし、ニールもみんなが好きでした。
ある日ニールはパン屋のおばさんに頼まれてキノコを採りに出かけました。キノコのパイをつくるから沢山採ってきておくれとおばさんは言いました。おおきなかごを担いで夢中でキノコを探していると、見覚えのない場所に来てしまったことに気がつきました。そこは日の差さぬうっそうとした森のなかでした。薄気味の悪さもありましたが、これだけ薄暗くじめじめとしていればきっと大きなキノコがたくさん生えているに違いないと、ニールは夢中でキノコを探しました。
すると、向こうの方でがさがさと物音がしたと思うと、つぎの瞬間ニールの目の前に大きな獣が立ちふさがりました。見上げるほどの巨体で恐ろしい姿をしています。あまりにも驚いてしまったニールは声も出せずに獣を見つめたまま呆然と立ち尽くしていました。すると獣は大きく膨らませていた体をすこし縮ませて言いました。
「おや、おまえは逃げないのか。おれの姿をみても怖がらないとは珍しい奴だな。おもしろい、ちょっと付き合え」
そしてニールを脇に抱えると、ものすごい勢いで駆けていきました。
ニールが連れていかれたのはちいさなお城でした。森のなかに切り拓かれた広い土地に建っているそのお城はこじんまりとしているけれど豪華な造りで、手入れがされたりっぱな庭園には噴水もあります。獣は正門でニールをおろしました。ニールはお城をながめ、思わずほうとため息をもらしました。
「どうだ、わが城は気に入ってもらえたかな。ずいぶんとひさしぶりの来客だ、丁重にもてなすとしよう。さあ、おれについてこい」
獣はすたすたとお城にむかっていきます。ニールも慌ててついていきました。
お城のなかは外からみた以上に豪華でした。壁という壁にはさまざまな絵画や、武具や宝飾品が飾られ、天井には巨大なシャンデリアがつられています。ですが空気はじめっとかび臭く、しんと静まり返っていて人の気配は感じられませんでした。おおきなテーブルが置かれた部屋に入り、ニールは食堂だと思いました。きょろきょろと部屋のようすを眺めていると獣が言いました。
「せっかく客を招いたというのに肝心のごちそうが無いな。よし、ひとっ走りして狩ってくるとしよう。それまでそこに座って待っていろ」
そしてすごい勢いでお城のそとへ出ていってしまいました。言われたとおりに席に着いたニールは、落ち着かないようすできょろきょろと部屋をながめていました。すると、なんだか視線を感じます。だれかに見つめられているような気がするのです。ニールは立ち上がると声をかけてみました。
「ねえ、だれ。だれかいるの」
けれど応えはありません。ニールの声の反響が消えると、城内はまたしんと静まりました。ニールはおおきなテーブルのまわりをうろうろと二周まわって、やっと視線がどこからきているのか分かりました。それは壁に飾られたおおきな肖像画で、若くうつくしい女性が描かれていました。つやつやとした豪華なドレスを着て王冠をつけています。ニールはこんなに美しいひとを見たことがありませんでした。ですがその女性はとても悲しそうな表情に見えます。うっとりと、だけど少しふしぎな気持ちを抱きながらその絵を見つめていました。そのとき、ちいさなものが落ちてきてニールの足元に転がりました。拾ってみるとそれは赤い宝石がついた金の指輪でした。宝石は小鳥のたまごくらいの大きさがあります。ニールは指輪をてのひらにのせて眺めていましたが、ふと不安な気持ちになりました。もし獣が帰ってきてこの指輪をみたらどうしよう。盗もうとしたと怒ってしまうのではないだろうか。ニールは慌てて指輪を隠す場所をさがしました。そして部屋のすみに置かれた台のうえに宝石箱があるのを見つけました。宝石箱を開けようとしましたが固く閉まっていて開きませんでした。手に取ってしらべてみると、正面にまるいくぼみがあります。なんとなしに指輪の宝石をくぼみにはめてみると、音もなく自動的にふたが開きました。
そのときです、とてつもなくおおきな叫び声が城内に響きました。それは獣の咆哮のようにも聞こえます。その音はびりびりとお城の空気を揺らしていましたが、鳴りはじめと同じように突然とまりました。ふたたび静寂につつまれ、恐ろしくなってしまったニールはたまらずに走って部屋を出ていきました。
正面玄関の重い扉をあけると、庭園のむこうの正門に人影がみえました。ニールは慌てて扉の陰に身を隠し、そっとようすを覗きました。その人影は獣の巨大なすがたではなく、ふつうの人間のおおきさに見えます。目を凝らして見ていると、やっとその正体がわかりました。それはニールのお父さんでした。
「おとうさん」
ニールは駆け出しました。
「ああニール。やっぱり森に入っていたのか。無事でよかった」
「どうしてここに」
「木こりのじいさんが、おまえが森のほうに向かったと言っていたから、もしやと思い探しに来たんだ。あれほど獣王の森に入ってはいけないと教えたろう」
「ごめんなさい。ぼく気がつかなかったんだ。そうか、ここがあの森なんだ」
「やれやれ。とにかく何もなくてよかったよ。それにしてもこの城は……」
そのとき大きな地震がおきました。立っているのがやっとなひどい揺れです。
「ここは危ない。はやく向こうへ」
ふたりが正門をくぐり森の木立へむかったそのときです。背後で轟音をたててお城が崩れていきます。揺れが収まったときにはお城はがれきの山となってしまいました。ふたりはとにかくその場を離れることにしました。
帰り道の途中でお父さんは立ち止まり何かをさがしていました。
「おかしいな、この辺だったはずだが」
「どうしたの。なにを探してるの」
「いやな、来る途中でのことだが、とつぜん木の陰からでかい獣が現れてな、こちらに飛びかかってこようとしたんだよ。だが、あわやというところでその獣はばったりと倒れ、そのまま死んでしまったんだ。全身真っ黒な毛に包まれた化け物のように大きなおおかみだったな。せっかくだから帰りに拾っていこうと場所を覚えておいたんだが。だれかに持っていかれてしまったようだ。もったいないことをした」
家についたふたりはお母さんがいれてくれたお茶をのんでやっとひと息つきました。そしてお父さんは、獣王の森にまつわる話を聞かせてくれました。
「これは私がおまえくらいの頃におじいさんから聞いた話なんだが……」
『森の王』
昔むかし、どれだけ昔かわからないくらい遠い昔、森のなかに城があった。それはその周辺の土地を治める王の居城だった。王は自然を、とくに樹木を愛する王妃のために城を森のなかに建てた。その城は民の負担を減らすために小規模につくられたが意匠は優雅であった。王はうつくしい王妃を心より愛し、王妃もまた王を愛した。そしてふたりは民を愛し、民はふたりを敬愛していた。ちいさいが豊かでうつくしい王国であった。
ところがあるとき悲劇が王国を襲った。
ある日、うららかな日差しの中で王妃は庭園の手入れをしていた。それは王妃の趣味であり、王が執務で忙しい時や狩猟に出かけて留守のときなどはよく見られる風景であった。その日も王妃は熱心に薔薇の剪定に励んでいた。すると茂みのなかから一匹の蛇が出てきた。温かな日差しに誘われたのかもしれない。だが薔薇の花に夢中になっていた王妃はそれに気付かずに踏んでしまった。驚いた蛇は反射的に王妃の足に噛みついた。運が悪いことにその蛇は猛毒をもっていたのだ。王妃はその場に崩れ落ちるように倒れた。そして、王が見守るなか三日三晩の高熱にうなされ、そのまま天に召されてしまった。
王は深い悲しみに包まれ、一年のあいだ城に閉じこもった。そしてちょうど一年が過ぎたその日にお触れを出した。
『亡き王妃を弔うための霊廟を建築するため税の徴収を行う』
だがそれもまた間が悪かった。その年は考えられぬほど天候が荒れ、作物は例年にないほどの不作となり、森や野山からも獣たちは姿を消してしまっていた。民たちには税を納められるだけの余裕はなかった。一向に集まらぬ霊廟建築の予算に、王は激しく腹をたてた。民に裏切られたと感じたのだ。そして、その時を境に王は変わった。税を納めぬ者は容赦なく牢に放り込んだ。そして見せしめとして首をはねた。異を唱える家臣たちも同様にした。人々は王を怖れ、彼を獣王と呼んだ。それにより王の残虐性は増していき、王と人々の溝は深まっていくばかりであった。
ある日のことだ、王は家来を引き連れて狩りに出かけた。森の中を馬で駆けキツネやウサギを狩るのだ。すると王は森の奥で大きなオオカミを見つけた。オオカミは大樹の根元で眠っていた。
「見ろ、なんという大きさだ。それにあの漆黒の毛並みの美しいことよ。なんとしても捕らえてやるぞ」
だが帯同していた大臣が、恐るおそるといった様子でそれを諫めた。
「おお、わが君よ。どうかそれだけはおやめ下さい。あれは伝説に聞くこの森の主に違いありません。もしも殺したとあれば恐ろしい災いが降りかかるでしょう。どうかお考え直しを」
しかし王は聞く耳を持たなかった。
「なにをばからしい。森の主だと。いまや私がこの森の主だ。お前のような臆病者がいるとつきが落ちる。私の目の前から消え失せろ」
そう言うと、馬から降りて弓を構え、そうっとオオカミに近づいて行った。そして十分な距離まで近づくと額に一矢、続けざまに心臓に一矢を放った。オオカミは起きる間もなく動かなくなった。
王は獲物を自分の馬に載せ、意気揚々と家路についた。鞍の後ろで巨大なオオカミはだらんと二つ折りのようにぶら下がり、その頭と尾は地面に着いてしまいそうなほどだった。とつぜん、王の馬が立ち止まり鋭くいなないた。と同時に木陰から矢が飛来し、王の首を貫いた。王はずるりと馬から落ち、とっさに掴んだオオカミの死体がその上に被さるように落ちた。家来の数人は矢を放った犯人を追い、残りは王のもとに駆け寄った。だが、彼らの目に映ったのは信じられないような異変であった。血だまりに浮かぶ王の体と、それを覆うように載っているオオカミの死体がゆっくりと融合していき、やがてそれはひとつの巨大な生き物へと姿を変えた。ひくひくと四肢を動かし始め、痙攣していた瞼が開くと緋色に輝く瞳がぎょろぎょろと動きだし、漆黒の体毛が波立った。獣は立ち上がると短く唸り声をあげ、つぎの瞬間に家来たちは残らず血の池に浮かぶ肉片となった。獣は森の中に消え去り、人々は森から離れていった。そこはいつしか獣王の森と呼ばれるようになり、踏み入る者は居なくなった。
『ニールと森』
何日か過ぎて、ニールはふたたび森に出かけました。どうしてもお城のことが気になってしかたがなかったからです。記憶をたよりに道をたどっていくと森にたどりつくことが出来ました。ですが、森のようすはまるでちがっていて、ところどころ温かそうな木漏れ日が野の花を照らし、その上をちょうやみつばちが舞っています。奥の方からは小鳥の鳴き声が響き、草むらではりすやうさぎが顔をのぞかしています。そよかぜが通り抜けると、ここちよい森のかおりが鼻孔をくすぐります。あまりにも雰囲気がちがっているので、ニールは不安な気持ちをいだきながら森のおくへと進んでいきました。しばらく歩くとひらけた場所につきました。お城はがれきすらも残ってはいませんでしたが、唯一のこっていた正門と、いまでは一面の花畑とすがたを変えてしまった庭園のなごりが、あのお城が建っていた場所であることをしめしていました。ニールはしばらくのあいだ花畑をながめていましたが、帰ろうと踵を返しました。すると木立の間から一匹のちいさな子どものおおかみが姿を現しました。子どものおおかみはちらりとニールを見ましたが、足早に森のなかへと消えていってしまいました。