一章 灰色のふたり (1)
雨がさらさらと降っていた。
ユーリの着ている年季の入った服と、左肩に掛けていたぼろぼろのナップサックをしっとりと濡らし、重くさせる。肌に布がまとわりついて非常に不愉快な心地だ。空を見上げると、雲が厚く、当分止みそうにない。
雨宿りをしようにも近くに建物はなく、背の高い草むらばかりだ。視界が遮られる程ではないが、鬱陶しいことこの上ない。
そよ風が吹いた。雨の匂いに混じる、薄い鉄の匂い。どこかで争いがあったのだろうか。日常茶飯事の争いが。
警戒レベルを一段階引き上げる必要があるかもしれない。背負っている鉄パイプを確認し、辺りを見回す。
長く続く草むらに、崩壊している小さな建物。木材は腐食が進み、黒ずんでいる。その近くには、小さな看板が倒れていた。バス停、と書かれている。書物で知ったことだが、昔はバス、なるものが定期的に人を運搬していたらしい。
それは移動がさぞ、楽だったんだろうな、と思考し、今考えるべきことではなかったと頭を振る。
視界に入る範囲では危険は見当たらない。安全マージンは十分だろう。耳を澄ませる。雨の音だけが耳を打つ。甲高い機械音や、何か生き物の足音は混じっていない。一つ頷き、息を吐き出す。
警戒はいくら行っても足りないくらいだ。もし油断でもしようものなら、一瞬で命を落とす。心が休まる時なんて、ない。
ここまで歩いて来た道を振り返る。コンクリートで舗装された道はひび割れていて、そこからは奇妙な植物が群生していた。
紫色の植物で、ぴくぴくと動いている。風や雨で揺れているのではない。自ら、動いているのだ。脈打つように、命の鼓動を証明するように。
明らかに他の植物とは異質な存在。気味が悪い存在。ユーリとしてはそれが食用になるのかどうかが問題だった。食糧不足は常に悩まされているが、それでもこれを食したことはない。叶うことなら、これを食べざるを得ない状況まで追い込まれたくないものだ。
進行方向に向き直る。アスファルトの道路が彼方まで続いていた。先は長い。目的地は特に設けていないが、今だけは屋根のある建物を見つけたかった。
一定のペースを崩さないように歩き続ける。景色に変化はない。遠くまで続く草むらに挟まれた、ひび割れた道路を踏みしめる。
…………いつまで、続くのだろうと、ふと思う。
簡単に命が吹き飛ぶ、終わりがない旅路。空虚な世界。終わっている世界。何もない世界。
どこに行けば、喜びを感じられるのだろう。どこに行けば、生を感じられるのだろう。どこに行けば、この魂は報われるのだろう。
答えもアテもない一人旅。普段は気にならない些事。普段は気にならない雨の冷たさ。普段は気にならない、心の寂しさ。
……疲れているな。少し、休むべきだろうか。
雨が小降りになっている。そのことに気づかない程に己の世界に入り込んでいたようだ。反省すべきことだろう。
その時。
異変が突如して襲来する。
草むらが激しく揺れた。不自然な揺れ方だ。人の走る足音、そして、絶望を呼び込む、甲高い、機械音。鳥肌が総立ちした。
ユーリは直前まで無駄な思考をしていたため、判断が遅れた。立ち竦み、動けない。それは戦場では死につながる、致命的なミスだった。
少女が、転がるようにユーリの前に現れた。咄嗟に懐のナイフに手を伸ばそうとして、しかし、相手は女の子、危険性が不明、脳の判断が鈍り、結局何も行動できなかった。
灰色の髪を二つ結びにした女の子はまだ幼く、ユーリの胸元ぐらいまでの身長しかない。ぼろぼろの白いブラウスに、薄汚れた赤いスカート。幼くも整った顔立ちは無表情で、一体何を考えているのか読めない。
彼女はユーリを確認すると、ほんの少しだけ驚いた表情を見せ、だが、直ぐに無表情になって、立ち上がろうと両手を地面について、痛みを堪えるような顔になった。
その左足を見ると、何かで切り裂いたのか、ふくらはぎに大きな傷口が広がっていた。血が流れている。早く処置をしなければ、あっという間に命を落とすだろう。
しかし、前方から聞こえる耳障りな駆動音が手当てをしている余裕がないと警鐘を鳴らす。奴が移動する度に地面に何かを刺したような、奴独特の足音が聞こえる。もう、近い。
草むらを掻き分けて、絶望が、死が、ゆっくりと姿を現した。
それは、四角い箱のような巨大な胴体に四本の脚が生えていた。その姿は四足しかない蜘蛛を彷彿とさせる。小さな円形の頭部が突出しており、不気味に光る赤い目をこちらに向けていた。
全ての部分が金属で構成されている。どこを攻撃してもびくともしない、頑丈なつくりであることは過去の戦いで経験済みだ。これは、普通の人間が敵う相手ではない。
その大きさはユーリの身長を軽く越えていて、必然的に見上げることになる。圧迫感が恐怖を倍増し、静かな心を大きく揺さぶる。
そう。この大きな機械生物は。
人類の、天敵。