ままごととはまたべつの物語
1
とてもとても遠い記憶。
僕が保育園に通っていたころ。
季節はわからない。燃えているのか燃え尽きてしまったのか、夕方のオレンジ色がすべてを呑み込んでいた。保育園も運動場も砂場も滑り台もオレンジ色に染まっていた。
僕はその光景に寂しさを感じていて、すぐにでも家に帰りたかった。父と母の待つ暖かい家に。しかし母はまだ迎えに来ない。
そして僕は自分の本当の家とは違う偽物の家に帰る。
「ただいま」
「おかえり」
僕はビニールシートの上に足をのせる。かばんを置くまねをする。コートを脱ぐまねをする。そして冷たく固いビニールシートにあぐらをかく。
違う偽物の家とはつまりままごとの家。
僕はお父さんの役。奥さん役は一つ上の村中圭ちゃん。髪の長いやせ細った女の子。すぐに怒っておもちゃを投げつけてくる。口には出さなかったけど、僕が怖れていた女の子。
その圭ちゃんがビニールシートに座って、僕に泥だんごを差し出す。
「今日は中華よ」
そう言って笑う。僕は泥だんごを食べるまねをしながら、早く家に帰りたいと思った。
「パパ、おかえり」
娘役もいる。僕と同い年の西弥子ちゃん。おかっぱ頭にやえ歯でいつも転んでは血を流していた。それでも泣かずによく笑うとても強い子だった。
「ただいま。いい子にしてたか」
と僕はたずねる。西弥子ちゃんはやえ歯をにっとのぞかせて「うん」と元気にうなずく。しかし奥さん役の村中圭ちゃんがそれを遮って言う。
「ううん、この子、今日風邪で学校を休んだのよ」
西弥子ちゃんは驚いた顔で圭ちゃんを見ている。
「休んでないよ」
弥子ちゃんが訴えても奥さん役の圭ちゃんは聞き入れない。仕方なく僕は弥子ちゃんに言った。
「いいんだよ。一日くらい休んでも」
「休んでないよ」
それでも訴える弥子ちゃんに圭ちゃんの平手がとぶ。ぺしんと乾いた音が夕闇によく響いた。
「痛い」
弥子ちゃんは右頬をおさえて叫んだが泣かなかった。やはり弥子ちゃんは強い子なのだ。
「痛くない」
たたみかけて圭ちゃんが言う。目が吊り上がっていてとても怖い。ますます僕は家に帰りたいと思った。
それで弥子ちゃんはなんとなく風邪で学校を休んだということになった。
「この子風邪だから、あなた看病してあげてよ」
圭ちゃんが言った。僕は断ることもできずに横になっている弥子ちゃんの隣に座った。弥子ちゃんはまだ不服そうだった。
「熱ある?」
僕はそれっぽく訊いた。弥子ちゃんは「ない」と声には出さずに口だけを動かした。これほど元気な病人を僕は見たことがなかったのでおかしかった。
「わたしちょっとトイレに行ってくるから」
料理をつくるまねをしていた圭ちゃんが立ち上がった。
「トイレはそこにあるよ」
と弥子ちゃんの足元を指差して言うと、圭ちゃんは再び目を吊り上げて言った。
「本当にトイレに行ってくるのよ」
赤いキャラクター物の靴をはいて、圭ちゃんは保育園の方に駆けていった。夕日が保育園の上で真っ赤に燃えていて、圭ちゃんの姿はすぐに真っ黒になった。
カラスがのどをしぼるように鳴いていた記憶がある。
ビニールシートには僕と弥子ちゃんの二人だけが残された。とても孤独だった。
すべての遊具が長い影を持っていて、僕たちのいるビニールシートに不気味な手をのばしていた。さらに僕は家に帰りたいという思いからより一層寂しくなった。
横になっていた弥子ちゃんは身体を起こした。
「なんか寂しいね」
弥子ちゃんの右頬はさっき引っ叩かれたせいで赤くなっていた。
「お母さんは?」
僕がたずねると、弥子ちゃんは弱々しく笑って言った。
「どっち? どっちのお母さん?」
どうやら弥子ちゃんも孤独に怯えているようだった。
「本当のお母さん」
「わかんない。直くんは?」
今井直人だから直くん。
「僕もわかんない。早く帰りたいな」
「そんなこと言うなら、帰ったらいいじゃない!」
僕のすぐ後ろで叫び声がした。僕も弥子ちゃんもびっくりしてはっと後ろを振り返った。
顔を真っ赤にして目を吊り上げている圭ちゃんが立っていた。
まずい、と思ったけどもう遅かった。圭ちゃんは大声でまくし立てた。
「直くんがやりたいって言ったからやったのに。何よ、そんなこと言うなんてひどいじゃない。いいわよ、そんなに言うなら帰ったらいいじゃない。直くんの本当の家に帰ったらいいじゃない」
弥子ちゃんはおろおろしている。僕は圭ちゃんの話を聞きながら考えていた。このままごとって僕がやりたいって言い出したんだっけ。圭ちゃんがやりたいって言い出した気もするが、今となっては思い出せない。
圭ちゃんの怒りはおさまるどころかヒートアップしていった。泥だんごを踏みつけて、ビニールシートを足でぐちゃぐちゃにして泣きわめいた。
弥子ちゃんも泣き出しそうな顔をしている。
僕はどうしていいのかわからなくなってしまって、ただその場に突っ立っていた。
そのとき保育園の方から先生の声がした。
「圭ちゃーん、直くーん、弥子ちゃーん。お母さんが迎えに来たわよ」
先生の声は暮れていく運動場によく響いた。
圭ちゃんも弥子ちゃんも急に表情が和らいだ。僕もほっとした。
先生にさよならを言って、それぞれ母と一緒に本当の家に帰った。
帰りぎわに弥子ちゃんは僕に「バイバイ」と手を振った。その弥子ちゃんがとても可愛くて、僕は弥子ちゃんのことが好きだと思った。
圭ちゃんは僕にあっかんベーをした。
「圭ちゃんとけんかしたの?」
母は僕にたずねた。
「よくわかんない」
僕はそう答えた。母はあきれたように笑って僕の手をにぎった。深く暖かい手だった。圭ちゃんとけんかしたことなんてすべて忘れてしまいそうだった。母は優しかった。
次の日のことを僕は覚えていない。圭ちゃんと仲直りしたのか、していないのか。それはきっと僕にとって重要なことではなかったのだろう。
2
そんな遠い記憶のことを思い出していたら、いつの間にかドアの前に立っていた。
このドアの前に立つとき、僕はいつも色々な感情の中にいる。天にも昇るような気持ちのときもあったし、重い足取りのときもあったし、酔っ払って頭がこんがらがっているときもあった。
しかしだいたいの場合において僕は後ろめたい気持ちでこのドアの前に立つ。
僕は今年で三十四歳になる。
四年制の総合大学を卒業して、周りの人間とさして変わらない鉄鋼を扱う企業に就職した。在学中に付き合っていた彼女と入社四年目、二十六歳のときに結婚した。息子も二人もうけて上が七歳、下が五歳である。係長で部下もおり、これと言った不満もなかった。
不満がなかったのだから、きっと魔が差したとでも言うのだろう。僕が二十九歳のときに妻とは別に女をつくってしまった。妻のお腹の中には下の子がいた。妻は体調を崩しがちで、僕は性欲を持て余していた。
「あなたの手をわずらわせることはないわよ」
妻ではない女は僕にそう言った。今思えばその言葉を信じた僕が馬鹿だった。
僕と女は関係を持つようになった。週に二三度、上司と飲みに行くと偽り、女のマンション(つまり今僕がいる場所)に通った。
女の名前は安田春奈といった。
上司に連れられて行った居酒屋で働いていた女性だった。背は高くなかったが、常に姿勢がよく実際の身長よりも高く見えた。長い髪をくるくると巻き、その髪からはとてもいい匂いがした。二十六歳という年齢に裏づけされた大人の魅力のたまごがちらほらと顔を出していた。
きれいな女性だった。
僕ははじめのうちこのまま両立していけると思った。妻は僕を疑っていなかったし、そのときは妊娠のことで手一杯だった。春奈も週二度三度会うだけで何の不満も言わなかった。
しかし問題が起こった。
春奈に子供ができたのだ。僕は避妊には気を配っていたから問題はないと思っていたのだが、検査薬は陽性を示していた。
「私は産もうと思うの」
春奈の言葉は圧倒的な力で僕の前に立ちはだかった。もちろん僕は反対した。色々な理由をつけて、金銭的な色もつけて懇願した。しかしそれ以上に春奈の意志は強かった。
出会った当初、僕は春奈のことをなんと自由で心が広い女性なのだろうと思っていた。
しかし子供をお腹に宿してから彼女は徐々に本性を現していった。当然と言えば当然だ。春奈は守るべきものができて怒りっぽくなった。そして妻と別れて私と一緒になれと迫るようになった。その迫り具合は日々、年々強引になってきた。
春奈と僕の娘は今年で四歳になる。誰にもばれていないことが奇跡だった。もっとも最近では妻も疑うようになってきたが。
そして僕は今、春奈とその娘の小百合の住むマンションのドアの前に立っている。会社帰りだ。腕時計を見ると午後八時半を指していた。妻には忘年会の打ち合わせだと言ってある。
そう言えば二人の息子にもクリスマスプレゼントを買ってやらないとな。
僕はため息を一つ漏らしてからドアを開けた。
「ただいま」
僕はこの家に入るとき必ずそう言わなければならない。小百合が産まれたときに春奈が決めたことだ。
「おかえり」
僕はその家に入って、かばんを置く。コートを脱ぐ。そして部屋の中でやけに異彩を放つ赤いソファーに腰かけた。
春奈がうれしそうに言う。
「今日は中華よ」
テーブルの上に王将で買ってきた餃子や唐揚を並べる。
春奈は以前働いていた居酒屋をやめ、今はスーパーマーケットでレジ打ちをしている。生活のリズムが変わろうと春奈は一切料理をつくらなかった。いつも出来合のものを買ってきた。僕はネクタイを緩め、白ご飯もなしに餃子を食べた。
味気ない食事をしながら、やはり春奈とは暮らせないということを伝える機会を伺っていた。
僕はもう決めていたのだ。妻とともに生きていくということを。
「パパ、おかえり」
小百合がてくてくと歩いてくる。春奈に似たのか、芯の通ったような強さを持つ健康的で明るい子だ。
「ただいま。いい子にしてたか」
僕が小百合の頭をくしゃくしゃとなでてたずねると、小百合は元気にうなずいた。
しかし突然そこへ春奈が血相を変えて割り込んできた。
「いいえ、この子、今日風邪で保育園を休んだのよ」
小百合は驚いた顔で母を見ている。
「休んでないよ」
小百合が訴えても母の春奈は聞き入れない。僕は春奈の強引な意見に戸惑っていた。
小百合が「休んでないよ」と訴え続けていることに腹を立てた春奈の平手がとぶ。ぺしんと乾いた音が部屋に響いた。
「痛い」
小百合は右頬をおさえて叫んだが泣かなかった。やはり小百合は強い子なのだ。
「痛くない!」
たたみかけて春奈が言う。
春奈の魂胆は見えていた。僕に心配をかけさせたいのだ。小百合が病気だからあなたについていてほしいのなどと思っているに違いない。そしてそのまま一緒に暮らそうと考えている。僕は春奈の露骨な策略に寒気を覚えた。
母の勢いに負けて小百合は自室のベッドで横になった。
「この子風邪だから、あなた看病してあげて」
春奈が言った。僕は断ることもできずに横になっている小百合の隣に座った。小百合はベッドに潜りこみはしていたが、まだ不服そうだった。
「熱ある?」
僕は一応たずねた。小百合は「ない」と小声で答えた。これほど元気な病人を僕は見たことがなかったので、と思ったが、よく考えてみればはじめてではなかった。二度目だ。
僕は驚いた。
あの日のままごととまったく同じ流れではないか。どうしてこんなことが起こっているのだろうか。
混乱する頭を抱えて僕はただ小百合の髪をなでることしかできなかった。
気がつくと辺りはしんとしていた。一切の音が取り払われ、その静寂に耳が痛んだ。
「なんか寂しいね」
小百合がつぶやいた。小百合の右頬はさっき引っ叩かれたせいで赤くなっていた。これも保育園のときと同じだ。
突然物音がしなくなったので私は小百合に訊いた。
「お母さんは?」
「どっち? どっちのお母さん?」
小百合は静けさに怯えながら、しかししっかりと言った。この言葉まで保育園のときと同じだ。まるで小百合も僕の過去を知っていて、それをなぞっているだけのようだ。
僕の頭の中で春奈と妻がちらつき混じり合った。
「どっちってどういうこと?」
「わかんない。言ってみただけ」
小百合はそう言って布団を頭からかぶった。
小百合の言った「どっちのお母さん?」という問いかけに春奈と妻がちらつき混じり合っている。ぼくはどっちのお母さんを選ぶのだろうか。春奈だろうか妻だろうか。
「……妻だな」
「そんなに奥さんのことが気になるなら、帰ったらいいじゃない!」
僕のすぐ後ろで叫び声がした。僕も小百合もびっくりしてはっと声のした方を向いた。
そこには顔を真っ赤にして目を吊り上げている春奈が立っていた。
まずい、と思ったがもう遅かった。春奈は大声でまくし立てた。
「あなたが私とヤリたいって言ったからヤラせてあげたのに。何よ、奥さんのことばっかり気にしてひどいじゃない。いいわよ、そんなに言うなら帰ったらいいじゃない。あなたの本当の家に帰ったらいいじゃない!」
小百合はおろおろしている。僕はこの強烈な既視感の中で春奈の話を聞きながら考えていた。ヤリたいと先に言ったのは僕の方だったろうか。春奈が先に言い出した気もするが、今となっては思い出せない。
春奈の怒りはおさまるどころかヒートアップしていった。小百合の部屋で暴れまわった。本を投げつけ、地球儀を倒し、机を蹴った。
小百合はすっかり怯えきってベッドの中に身をひそめた。きれいに片付けられていた部屋を春奈は怒声と大きな音を立ててめちゃめちゃにしていった。春奈は泣き叫びわけもわからない言葉を口走っていた。
僕はどうしていいのかわからずに呆然としていたが、ひとつだけはっきりしていることがあった。
それはもう誰も助けに来ないということ。あの日のままごとのように先生も母ももう誰も僕を救ってはくれない。僕は自分自身の力でこの場を解決しなければならないのだ。
僕は深呼吸をした。
「もう別れよう。慰謝料だって払う。妻にばれてもかまわない。もうこんなのはだめだ。勝手だとは思うけど、別れよう」
春奈は虚を衝かれたように黙り込んだ。しかしそれも一瞬のことで次の瞬間にはもう叫んでいた。
「小百合はどうするのよ。小百合の将来のことをあなたはどう考えているの!」
「小百合は僕と春奈の子だ。だからどちらかが引き取る」
「あなたは最低よ。小百合はものじゃないのよ!」
春奈は部屋の隅にあったゴミ箱を蹴とばした。紙くずや鉛筆けずりのカスが散った。春奈はそのことにまったく気がつかない。
「でも今の状況は小百合にとって最悪だ。だからどちらかが引き取るんだ」
「小百合をあなたなんかに渡すもんですか!」
春奈はベッドに身をひそめている小百合の元に駆け寄って頬をなでた。小百合は母の荒れた姿に身を固くさせている。
「帰って。今すぐここから出ていって!」
春奈の投げた本が僕の右肩に当たった。それはとても痛かったが、心の方がもっと痛かった。慣用句などではなく僕の心が感じたのは物理的で切実な痛みだった。
春奈は手当たり次第に物を投げつけた。枕、ぬいぐるみ、消しゴム、そして小百合が泣き出した。
僕は黙ったまま居間でコートをとり、かばんを持って外に出た。ドア越しにも春奈の泣き声が聞こえた。
冬の夜風はとても冷たく心身に堪えた。この冷たさに抗う術を僕は持ち合わせていなかった。襟を立てることが精一杯だった。
十二月が過ぎていく。今年もあと少しで終わる。そして来年が否応なしにやってくる。来年のことなど僕には想像もつかない。
僕はただ家に帰るために目の前にある階段を下りていった。
はじめての投稿になります。頑張ります。