中二男子の左腕に宿ったのは、オッサンでした。
『我が左手に宿りし、歳経た魂よ。己を解き放ち、我を助けよ。』
『…ん、呼んだ?』
『呼んだ。雨が降ってるから傘がいるんだよ。』
『ああ、了解。』
さっきまでしびれたように動かなかった左手が、思い通り動くようになった。代わりに背中あたりがどんよりと重い。僕は傘と鞄を持ち、急いで家を出た。今日からテスト週間だ。
『ねぇ。』
『何?』
『世の中っていうのは、どうしてこんなに不公平なんだろ?』
中間テストの昼休み時間、教室では教科書やプリントを見ながら勉強している奴らがほとんどだ。まあ、僕みたいにあきらめているのも、ちらほらいるけど。
『何のこと?』
僕はオッサンに言った。
『校庭見てよ。あいつらさ、休み時間に勉強するわけでもなくサッカーやってんだぜ?』
20人くらいが、ハーフコートでサッカーをして騒いでいた。
『…なのに、みんな学年50番以内だな。ああ、ついでに色んな部活の主力ばっかりだ。』
『才能の違い? 努力の量? 何なの、この差は?』
『で、ヒロトはそんなの考えてどうすんの?』
『…どうもしないよ、言ってみただけ。』
『ふーん、そうなんだ。』
オッサンはさっきからシャープペンをゴソゴソいじってる。
『オッサン、何してんの?』
『ん? ああ、これ? カンニングの準備。』
『カンニング? あんた、カンニングするの? っていうか、それ言う?』
『ばれなきゃ、大丈夫だよ。…それともヒロトがチクるの?』
『バカ、チクるわけないだろ! だいたい、どうやってチクるんだよ? …なぁ、でもホントにやるのか?』
『うーん、わかんないなぁ。英語は苦手だったから勉強するのイヤでカンニングの準備をしたんだけど、何回も色々試してその度に書いてたら、全部覚えちゃったしなぁ。』
『全部?』
『まあ、実際には全部じゃないけどね。カンニングするなら出そうなポイントを絞らないと書ききれないから、そこは全部覚えた。』
『…はぁ? 覚えたんならカンニングする意味ないじゃん。』
『そりゃそうだけどさ、結構時間かけて準備したんだよ? 色々作ってみたし、それを無駄にするのもイヤじゃん。最初から勉強して覚えた方が早かったなんてマヌケだろ。』
『…まあ、そりゃそうだけど。』
『そうだ、こうしよう! 次の英語のテストはヒロトが受けてくれ。俺が受けるはずだったから全然勉強してないだろ。そうなれば、俺が作ったカンニンググッズが無駄にならない!」
『バカ、オッサンが受ける約束だろ! ズルすんなよ。』
『そうだった、約束したんだったな。』
オッサンは苦手な英語のテスト範囲を覚えたって言った。僕は一生懸命がんばってもそんなことは今までできなかった。この差はなんだ? だって、身体は同じなんだぞ?
オッサンはずっと前から僕の中にいたわけじゃない。夏休み中だった2ヶ月前に、僕は交通事故にあった。病気で意識を無くしたらしい運転手の車に撥ね飛ばされ、出血多量で一時は意識不明の重体になったって後から聞いた。…正直、事故の事は何にも覚えていない。僕が覚えているのは、オッサンに会ってからのことだ。
「おーい。」
せっかく気持ちよく寝てるんだから、静かにしてよ。
「おーい、そろそろ起きてくれ。」
…全然聞き覚えの無い声だ、誰? 誰でもいいけど、眠いんだから寝させてよ。
「そろそろ起きないと、君死んじゃうよ?」
僕は慌てて目を開け周りを見た。周りは白くぼんやりしていて、…大きな鎌を持ったお姉さんが僕を見ているけど、どうみても普通の人ではありませんね。
「その人、死神だってさ。」
声のする方を見ると、知らないおじさんがこっちを見て手を振っていた。
「死神? 僕、死ぬの? どうなってんのこれ?」
僕を全く無視して、鎌のお姉さんとおじさんが話している。おじさんがお姉さんに何か言うと、お姉さんは僕の方をチラッと見て、急に消えてしまった。おじさんがこっちに来た。
「えーっと。君、ヒロト君だよね?」
「…あ、はい。そうですけど。」
誰、このおじさん? 知り合い? …いや、見たこと無い。
「いや、ホントに申し訳ない。私のせいでこんな目に合わせてしまって。」
こんな目? どういうこと?
「ああ、そうか。まだ気がついてないんだね。…君は今、死にかけているんだよ。死神はどこかに行ってしまったけどね。」
何がなんだかわからない。このおじさん、何言ってんのかな?
「わかんない? えーと、どこから説明すればいいのかな? ヒロト君は交通事故にあったんだよ。車に撥ねられて。」
「ええっ! 僕、車に轢かれたの?」
「いや、轢かれたんじゃなくて、撥ねられたんだよ。」
「そんなのどっちでもいいでしょ! 僕を撥ねた奴はどうなったの?」
「ああ、…死んだよ。」
おじさんは、あっさりそう答えた。
「…え、その人死んじゃったの?」
「うん。元々事故を起こす前に、心臓麻痺で生死の境にいたんだよ。…で、そのまま車は止まらなかったので、君が巻き添えになった。運転手は結局その後で死んだんだけどね。」
「…そうだったんだ。」
「君は生きたいかい?」
おじさんは急に真面目な口調になって言った。
「生きたいに決まってるでしょ。なんで死ななきゃいけないの?」
僕がそう言うと、おじさんはニンマリ笑った。
「死神さんよ、ヒロト君は生きたいってさ。生き延びさせてもらうよ。」
おじさんがそう言った瞬間、さっきのお姉さんが現れた。僕の方を見て笑ったけど、目の奥が暗闇の様で怖かった。お姉さんは周りの景色に溶け込むように消えてしまった。
「君のおかげでこの世にいられることになったよ。ありがとう、ヒロト君。」
「…どういうことなのか、説明してもらえますか?」
「怒るなよ。とりあえず君も俺も死なずにすんだ。…あ、君は生きているが、俺は生きてはいないんだった。」
「…説明してくれませんか、おじさん?」
「ああ、いいよ。そうだ、もう一つ大事なことをちゃんと言ってなかった。」
「…何?」
「話の流れでわかってるとは思うけど、君を車で撥ねたのは俺だ。ホントにスマン。」
そんな重大なことを軽く言う?
「で、さっきの死神なんだけど、俺は死んじゃったのでどっかに連れていきたかったらしいんだ。でも、俺の魂の一部がヒロトの魂に絡まっているんだって。」
…なんか、イヤな予感が。
「俺の魂を連れて行くにはヒロトにも死んでもらって、それから絡まっている魂を外さないと無理なんだってさ。死神は魂2個まとめて持っていけるから、そっちがいいと言っていた。ヒロトは巻き添えなんだから勝手に殺すなって、俺は反論してたんだ。それで結局、ヒロトが生きたいか死にたいかで決めようってことになって、それでさっき聞いたんだよ。」
…この人、何言ってんの?
「ヒロトが生きたいって言ったから、俺の魂が外せなくなって連れて行かれずにすんだんだ。死神の奴、また来るっていってたけどな。まあ、俺が死んでるのはそのままだけど。」
「魂が絡まってるってどういうこと?」
「うーん、俺にもよくわからないけど、…絡まって外せないんだろう。」
「全然答えになってない!」
「細かいことを気にすんなよ。これから俺はヒロトの身体に同居することになるけど、よろしくな。…あ、遅くなったけど俺の名前はオサム。よろしく頼むわ。」
こうして、おかしな同居生活が始まった。オサムさんって言いにくいし、本人もそういうあだ名だったからっていうことで、オッサンって呼んでいる。
チャイムが鳴ってみんなが席につき出した。さっきまで校庭でサッカーしていた連中は汗だくのまま戻ってきた。こいつらホントに余裕だな。
扉が開いて遠藤先生が入ってきた。
「じゃあ、教室の後側から出席番号順に座りなおして。…ああ、窓側からな。筆記用具だけ持っていけよ。」
カンニング防止とやらで、毎回座る場所が変えられる。確かに机に色々書くバカがいたからなぁ。はいはい、席替えっと。
「じゃあテスト用紙を配るから、順に1枚ずつ取って後ろに送って。配られても裏のまま待つように。」
静かになった教室で、テスト用紙が送られる音だけが聞こえてくる。
「じゃあ、42分になったら始める。テスト時間は45分だから、2時27分に終了する。」
先生とみんなが黒板の上にある時計を見ている。
『ヒロト、そろそろ代わろうか。』
『うん。じゃあ、オッサン任せたよ。』
『あいよ。』
左手からオッサンが頭に移動してくるのがわかった。何回やっても違和感がある。オッサンが頭に来ると、僕の身体が僕のものじゃなくなる。
「よし、始め!」
先生の声も何だか遠くに聞こえる。右手がすらすら動いて、答案用紙に答えを書いていく。僕の脳はこんなの覚えていないのに、いったいどうなっているんだろうか? 魂って脳とは別に覚えたりできるんだね、きっと。
オッサンは迷う事なく回答用紙を埋めていく。筆跡は間違いなく僕と同じだけど、書いているのは僕じゃないんだよなぁ…。問題文の内容も回答用紙に書かれている答も、正直あんまりわかんない。
『できた!』
え? もう? まだ20分くらいしか経ってないよ?
『もうできたから、ヒロト代わろうか。』
『いいけど、この後僕はどうすれば?』
『今日のテストの解説をするよ。いずれ自分で解かなくちゃいけないんだからさ。』
そう言ってオッサンは左手に戻った。僕の利き腕が右なので、左手なら多少動きが鈍くても支障が無い。だから、オッサンには普段そこにいてもらっている。
『じゃあ、1番の単語の問題は簡単だからヒロトわかるよね。』
『…まあ1番は。』
『じゃあ、2番からね。この問題の意図はさ、…』
それからテストが終わるまでの25分間、オッサンがテストの解説をしてくれた。正直すごくわかりやすくて、これなら自分でも解けるんじゃないかって思えるくらいだった。
『オッサン、英語苦手って言ってたよね。』
『苦手だった。でも中学からやり直して勉強してみると、案外面白いし理解できるんだよ。あの頃からこれだけ理解できていたらなぁ…。』
『理解できてたら?』
『毎日がもう少し楽しかったろうなって。英語の時間が来るのがイヤだったから。』
『僕は今、授業受けるのがイヤだよ。追いつけていないからわからないことが多すぎる。』
『…すまんな、それは俺のせいだから。』
オッサンが運転していた車に撥ねられ、僕は9月中旬まで1ヶ月くらい入院していた。その後も通院があったので、この中間テストまでの授業はほとんど受けていない状態だった。各教科の先生は放課後に補習をしてくれたのである程度までは追いついてきているが、それでも通常の授業時間はわからないことだらけで苦痛だった。オッサンは自分のせいだからと、僕が特に苦手な英語のテストを、代わりに受けてくれることになっていたのだ。
『約束通り英語のテスト受けてくれたんだから、それでいいよ。』
『そう言ってもらえると、肩の荷が少し降りたような気がするよ。…ただなぁ。』
『…何?』
『いや、少しやりすぎたかも。これから俺が教えるから、今回のテスト範囲の英語はきちんと
復習しておこう。』
『???』
オッサンの言った意味がわかったのは、テストが返ってきてからだった。授業に遅れているんだから、平均点よりも悪くて普通。…それなのに、僕が苦手でそれを先生も知っている英語だけは満点だったのだ。
「今回のテストでは接続詞の問題が特に難しかったようで、学年平均は68点でした。それでも最高得点は百点満点で、たった1人ですがこのクラスにいます。」
おおーとか、すげーとか、驚嘆の声があちこちで出ている。英語担任の染谷先生はそう話した後、なぜか僕をじっと見ていた。…何? クラスのみんなはそんなことには気がつかなかったようで、ワイワイ騒いでいる。
「では、出席番号順に答案を取りに来るように。…浅井。」
浅井から番号順に答案を取りに行く。みんな返された答案を見ては、顔をしかめている。
「川島。」
「ハイ。」
僕は返事をして取りにいった。
「…良くがんばったな。」
誉めてくれた言葉とは裏腹に、何だか怖い目だった。僕は答案を受け取ると、さっきまでのみんなと同じようにそっと広げて見た。…百点満点?
「…こんなことを聞きたくはないのだが、どうしても確認しなければならないんだ。」
その日のHRが終わった後で職員室に来るよう遠藤先生に言われた僕は、メガネを取っては拭いて掛け直す落ち着きの無い先生の前に立った。そして言われたのがさっきの言葉だった。
「…川島、お前カンニングしたのか?」
「へ?」
「疑いたくは無いけれど、授業中の理解度や補習時の状態からすると満点を取ることは非常に困難なはずだって言う人がいるんだ。」
…染谷先生ですか。
「その話に全く根拠が無いわけではなくって、実際に君の他の教科の結果は平均点以下しか取れていないんだからね。」
そりゃ確かにそうだろう。
「確かにそうですけど、カンニングはしていません。」
嘘は全くついていない。…僕の代わりにオッサンが受けたんだけど。
「…そうか。じゃあ、すまないがそのイスに座って少し待っていてくれ。」
遠藤先生はそう言うと、少し離れた机にいる染谷先生の所に行った。二人で何か話して、染谷先生が一度だけ僕を厳しい目で見た。…そりゃ、疑わしいよなぁ。受験なら替え玉ってやつだもんな。
「カンニングしていないというなら、信じよう。だが、今ここでそれが実力だったことを確認させて欲しい。」
考え込んでいるうちに先生達は戻って来ていて、僕のそばに立っていた。染谷先生は手にプリントを持っていた。
「これは授業で使ったプリントで、もちろんテスト範囲だ。これをこの場で解いて欲しい。」
「…え? 今ですか?」
「カンニングなど不正な手段をしていないのなら、このプリントは解けるはずだ。何せ答案は満点だったんだからな。」
染谷先生は僕が嘘をついていることを証明したいんだ。遠藤先生は心配そうに僕を見ている。
『ヒロト、自分で解いてみなよ。俺が解説してテスト範囲は復習しただろ。どうしてもわからないところがあれば、俺と代わればいいから。』
オッサン、ありがとう。やってみるよ。
「わかりました先生。…すみませんが、筆記用具を貸してもらえませんか?」
そう答えた僕を染谷先生は驚いたように見て、プリントを僕に渡した。
「私の机を使えばいい。」
遠藤先生が自分の机からシャープペンと消しゴムを僕に渡しながら言ってくれた。
「ありがとうございます、先生。」
「がんばれよ。」
遠藤先生はまだ心配そうに僕を見ながら言った。
プリントは接続詞の問題で、接続詞でつながる範囲と文の入れ替えや時制の一致についてだった。オッサンと復習する前だったら、よくわからずに解けなかっただろう。でも今はわかるし、注意しなければならないところもわかる。自信があるわけじゃないけど、一応全部解けた。
『オッサン、一応解けたけど確認してくれない?』
『もちろんいいよ。じゃあ、交代な。』
オッサンが問題と僕の書いた回答を指でなぞりながら見ている。
『ヒロト、全部あってるよ。じゃあ、代わるよ。』
ふー、良かった。
「先生、できました。」
「川島。お前を疑ってすまなかった。」
染谷先生がいきなり僕に頭を下げて、そう言った。
「…先生。」
「解いていくところを見ていたが、間違いなく実力だ。本当に疑ってすまなかった。」
先生はそう言ってもう一度頭を下げた。
「先生、もういいです。他の教科は点数取れていないし、今まで英語は苦手でしたから疑われても不思議はないですから。」
テストを受けたのは僕じゃないし、今は解けたけどテストの時には自分では解けなかったんだから、あんまり謝られても僕こそ困る。
「そうか、川島がんばったんだな。」
遠藤先生はうれしそうに僕の肩をバンバン叩いて言った。
「染谷先生、生徒は思いもよらぬくらい伸びるんですね。何だか嬉しいですよ。」
「私もここまで急激に伸びた生徒は初めてです。勉強になりました。」
先生達は二人で盛り上がっている。…居づらい。
「…あの僕、もう帰ってもいいですか?」
「ああ、すまなかったな引き止めてしまって。もちろんいいよ。他の教科もがんばってな。」
「はい、わかりました。では失礼します。」
職員室から出るときにもう一度先生達を見ると、僕を見て手を振っていた。一礼して扉を閉めるとホッとして大きく息をはいた。
『あー、びっくりした。』
『良かったな、復習しておいて。』
『オッサン、こうなることわかってたの?』
『満点取れた自信はあったから、ひょっとしたら疑われるかもって思ったんだよ。だから、復習してもらったんだ。』
『凄いね。』
『いや、別に凄くない。これくらいのことは、大人になって働くようになれば当たり前にできなきゃいけないことだ。俺はオッサンだぞ、何歳だと思ってるんだ。』
『そうだった。でもさ、オッサンの姿は見えないしオッサンの声は高い方だから、おじさんだってこと忘れちゃうよ。』
『…まあ、いいけど。それよりな、気になることがある。』
『何?』
『さっき職員室から出るときに、職員室の扉の前から慌てて走っていく奴がいた。』
『え、そんなの気がつかなかったよ。』
『ヒロトは緊張していたからな。…ヒロトと先生を覗き見していたやつかもしれない。』
『なんで?』
『遠藤先生に教室で職員室に来るよう言われただろ。あの時、何人かこっちをそっと見ていたんだ。気がつかなかった?』
『…全然気がつかなかった。』
『ヒロトが英語満点なのも、結構みんな知ってると思うぞ。』
『なんで? 僕、誰にも見せてないよ。』
『だからさ。お互いに見せている奴らもいて、その中に満点はいない。いつも成績のいい連中の中にもいない。染谷先生に「よくがんばったな」と言われたヒロトは、誰にも見せていない。そして、今日先生に職員室へ呼び出された。…つなぎあわせると。』
『…つなぎあわせると?』
『川島が英語満点らしいけど、あいつ英語苦手だったよな。授業中あてられても答えられなかったし、おかしくない? あ、あいつ、先生に職員室に呼ばれた。…カンニングしたのかな? それヤバクね? おい、見に行ってみようぜ! …ってことかなと。』
『えー、クラスのみんなに僕がカンニングしたんじゃないかと疑われてるってこと?』
『たぶん、そういうこと。』
『カンニングはしてないよ。…替え玉だったけど。』
『まあ、それは誰にもわからないし、先生には実力だって認めてもらえたんだからそっちは問題無い。』
『そっちはって?』
『クラスメートはヒロトのことを疑っていて、きっとそのことを聞いてくる。その時の受け答えがおかしいと、ヒロトは怪しいってレッテルを貼られちゃうかもしれない。』
『えー、どうすればいいの?』
『ちゃんと答えればいい。入院とかで勉強が遅れているから、教えてもらっているって。今回は英語を特に教えてもらったからって。』
『誰に教えてもらってるか聞かれたら? だって、塾とか行って無いよ。地元の塾に誰が行ってるか、みんな知ってるよ。』
『それも正直に言えばいい、「身内に教えてもらってる」って。普通「身内」っていうと、家族とか親族のことなんだけど、俺も間違いなく身内だ。文字通りヒロトの身体の中にいる。事実と違うことは嘘だから良くないし、案外早くバレる。なるべく正直に答えていた方が、つじつまを考えなくていいから大丈夫なんだ。』
『ふーん、そうなんだ。』
『教室に戻ると、誰かに聞かれるかもしれないからな。』
『うん、わかった。』
僕は心の準備をして教室に戻った。何人かはまだ教室にいて、僕が自分の席に鞄を取りに行くと周りを囲まれた。
「川島、お前に聞きたいことがあるんだけど?」
矢島か、なんでこいつが?
「何?」
「お前さ、この間の英語のテスト満点だってホント?」
「…なんで知ってるの? ホントだよ。」
「マジで?」
「うん。自慢みたいになるのがイヤだったから、誰にも見せなかったけど。」
「…ああ、そうなんだ。」
矢島、なんでキョロキョロ僕の後ろを見ているんだ?
「聞きたいことってこれで終わり?」
「あー、もう一つある。」
「何?」
「さっき職員室にいただろ。」
やっぱり、誰か見に来てたんだ。
「ああ、いたよ。遠藤先生に呼ばれたんだ。染谷先生もいたよ。」
「え、…あのそれで何で呼ばれたんだい。」
僕が正直に言ったから拍子抜けしたっていうか、やりとりがたぶん予想と違うから困ってるのが僕にもわかる。僕がもっと隠そうとしたり、否定すると思っていたんだろう。
「ああ、今まで英語苦手だったのに満点だったから、カンニングしたんじゃないかって疑われたんだよ。」
そこまで言うと僕を囲んでいた連中が「やっぱり」とか言い出した。…やれやれ。
「染谷先生に言われてその場でプリントを解いたら、疑って悪かったって謝ってもらってけどね。先生に聞いてもらってもいいよ。」
矢島も含めてシーンとなった。
「もういい?」
「え、あ、うん。…いいよ。」
矢島がそう言うと、周りの囲みが解けた。
『何気なく、ヒロトの後ろ側に誰がいたのか見るんだ。』
『え、ああ。』
オッサンに言われた通り、掲示板を確認するように振り返った。そこにいたのは谷本さんとその取り巻きの女の子たちだった。
『もういい。帰ろう。』
僕は鞄に教科書とかを入れ、教室から出て行った。
テスト週間も終わってるので部活に行かなきゃいけないんだけど、まだ激しい運動は止められているので顧問の先生には欠席すると伝えてある。家に向かいながらオッサンと話をした。
『何で後ろに誰がいるのか見させたの?』
『矢島君に指示しているのが誰だか知りたかったんだ。谷本さんだったね。』
『うん。でもどうして谷本さんが?』
『それはあの子のことをよく知らないからわからないよ。ただ、自分でヒロトに聞かずに、矢島君たちを使ったのは気をつけた方がいいね。』
『どういうこと?』
『さっきの場面で、もし先生がたまたま通りかかって見ていたらどう思う? ヒロトをみんなが囲んで詰問しているように見えるよね。先生がそれを見てたらイジメじゃないかと確認しようとするよ。それで先生に目をつけられるのは矢島君たちで、谷本さんたちじゃない。ちゃんとそういうこともわかっていてやっているんだよ。』
『え、何それ怖い。』
『逆に矢島君たちはそこまで考えが及ばない、ある意味単純なやつらなんだよ。』
『うん、矢島ってどっちかというとお調子者だから、あいつがあんなふうに聞いてきてびっくりしたよ。』
『まあ、何にせよヒロトが英語満点だったってことはクラス中が知ることになった。明日から色々聞かれるぞ。英語の勉強方法とかな。』
『どうやって答えればいいの?』
『今やってることを素直に言えばいい。毎日少しずつ英文と訳文と音読を繰り返して覚えてるって。遠回りみたいだけど、それでいいんだよ。数学とかは覚えるのとは違うけどな。』
『そうだ、数学の一次関数で教えて欲しいことがあるんだけど。』
『お安い御用だ。オッサンは理数系だからそっちの方が得意なんだよ。何でも聞いてくれ。』
僕とオッサンは数学の話をしながら帰宅した。周りから見れば、僕がただ歩いているだけなんだろうけど。
「おはよう。」
教室に入って席に向かった。鞄から教科書とかを机に入れていると、誰かが前に立っていた。
「おはよう、川島。お前が英語満点だったんだって聞いたよ。塾に行きだしたの?」
学級委員の広瀬だった。
「おはよ。塾は行って無いよ。身内に勉強教えてもらってるんだ。」
「へー、それでそんなに成績上がるなんて凄いな。」
「今回英語を教えてもらったから英語は良かったけど、他の教科はダメだったよ。」
「いや、その人に教えてもらえるなら、そのうち他の教科も成績上がるよ。…そうか、塾だったらどこの塾なのか教えてもらおうと思ったんだ。」
「広瀬、成績いいじゃん。」
「今はいい方かもしれないけど、これからいろんな教科で難しくなるからそのうち塾に行こうとは思ってるんだよ。もしいいところ知ってたら教えてくれよ。」
「うん、いいよ。」
「ありがと。」
広瀬が行ってしまうと、入れ替わりに高梨と岩井がやってきた。二人とも昼休みにサッカーやってた何でも優秀組だ。
「川島、英語満点だったって聞いたよ。すごいな。」
「今までと勉強方法変えたの? もし良かったら教えてくれよ。」
こんな風に二人に話しかけられたことは、今までなかった。しかも話題が勉強だ。
「身内に英語教えてもらったんだ。勉強方法っていっても、英文と訳文と音読を毎日繰り返し覚えているだけだよ。」
「…毎日やってんの?」
「うん。1時間くらいだけど。」
「お前凄いな。なかなか毎日勉強ってやれないのにな。しかも英語を覚えるのって、俺には死ぬほど退屈で面倒なことだから。」
岩井がため息をつきながら言った。意外だな、苦手なんてないのかと思っていた。
「俺もそれやっているけど、せいぜい30分だな。毎日1時間か、そりゃすごいな。…他の教科もやってんの?」
高梨もやっぱりちゃんと勉強しているんだ。
「あ、うん。数学も昨日から始めた。」
「数学は何するの?」
「公式を自分で導き出せるようにしろって、中1から戻ってやり始めたところ。」
「マジ? 中1まで戻るの?」
「うん、理解しきれていないところがあるからって。」
「それ誰が言ってんの? 塾?」
「ううん、身内の人。」
「そうか、そんな人がいるなんてうらやましいな。勉強いつもみてくれるの?」
「うん。」
「すげえな、家庭教師みたいじゃん。なあ岩井。」
「いいなぁ、家で勉強教えてくれる人いないからなぁ、父さんは仕事で遅いし。」
「うちは兄貴がいるから、結構教えてもらえるよ。機嫌のいいときだけだけどさ。」
「さっきの数学の公式の話、いいかもしれないから俺もやってみよ。ありがとな、川島。」
「あ、うん。」
「俺もめんどくさいけど、英語の勉強をこつこつやるかー。やれば成果が出るって川島が証明してくれたんだからなぁ。ありがとな。」
岩井と高梨はクラスでも人気者だけど、共通の話題も無いから今まで話しかけられることも僕から話すことも無かった。…成績良くなると、こんなに変わるの?
『そりゃそうさ。』
『なんで、オッサン?』
『小学校ならせいぜい通知表くらいしかないけど、中学は成績で順位付けされるだろ。高校受験に向けて内申点も必要だし、中学からは成績の占める割合は大きいんだよ。』
『ふーん。そこまで考えたことなかった。』
『ましてや、今まで正直パッとしなかったヒロトがいきなり英語満点なんだ。どうしたら成績を上げられるのか、そりゃ知りたいさ。』
『でも、成績いい奴らだよ、今の3人。』
『だからだよ。成績がいいってことは今もちゃんと勉強してただろ。だからもっと成績を良くするための方法を知りたい。逆に今勉強していない子達はそんな興味も無いのさ。』
『何か、普通逆のような気もするけど。』
『そうでもない。勉強に限らず運動だって何だって、できる奴ほどよりがんばるんだよ。…そして差はどんどん広がっていく。まあ、ヒロトは始めたばかりだから、とにかく続けていくことさ。それが案外難しいから。』
『オッサンがついているんだから、大丈夫だよ。隠し事はできないし、嘘もつけない。サボってたらすぐにバレる。』
『まあそうだな。でも最後はヒロトのやる気次第だよ。』
チャイムが鳴って、HRが始まった。
クラスの中の僕の立ち位置が明らかに変わってきた。今まではその他大勢だったのに、勉強に関しては高梨達とお互いに教えあったりするようになったので、クラスの中心近くになってきたようだった。そうなると、何だか見える景色まで違ってきたような気がする。うちのクラスの女子のボスが谷本さんだということにも気がついた。彼女に逆らうようなことをすると、目立たない程度に仲間外れや無視をされ従わざるを得ないようにさせられている。広瀬や高梨達も気がついているけど、やりすぎてはいないので静観してるって言っていた。
僕が休んでいる間に文化祭も体育祭も終わっていて、残るイベントは社会見学だけだった。もちろん期末テストもあるけど、毎日オッサンと勉強しているので前とは違って多少なりとも自信があった。今日も数学の勉強だ。
『じゃあ、ここから3問自力で解いてみて。』
『うん、わかった。』
2問めを解いている時、オッサンが話しかけてきた。
『なあ、ヒロト?』
『何、オッサン?』
『俺って小さくなってないか?』
『小さく? どういうこと?』
『左手に俺がいるところが、前よりも少なくなってないか?』
『…えっ。』
そういえば前は肘から先がしびれたようになっていたのに、今はその半分くらいだけだ。
『ホントだ。でもどういうことだろう?』
『わからん。まぁ、今はおまけみたいなもんだからな。あ、ヒロトそこ間違えてるぞ。』
何気なく話題は変わり、お互いにその話はもうしなかった。
「今日の学級会の議題は、来週に行く社会見学です。」
広瀬と綾乃さんが司会をしている。
「遠藤先生、お願いします。」
「行先は名古屋市内にある地方裁判所です。10時から見学開始なので、現地での集合時間は9時30分です。今回は現地に班ごとに集合になります。現地までの交通機関や集合時間、乗換も必要になるのでこれから調べてください。各班でまとめて移動方法は今から配布するプリントに記入して、先生のところに持ってきてください。」
「ありがとうございました、先生。では、これからプリントを配ります。班で1枚取って、後ろに回してください。綾乃さん、そっちの半分を配って。」
「はーい。」
綾乃さん、かわいいなぁ。
『ヒロト、あの子が好きなの。』
『え、あ、うん。オッサンに嘘はつけないもんな。』
『へぇー、どんなところが好きなんだ?』
『どこって言われても、…全部だよ。』
『そうか、全部か。若いなー。あー歳は取るもんじゃないな。』
『どうしたの、オッサン?』
『そんな純粋に誰かを好きになったりしたのは、ずいぶん昔のことだからだよ。でも確かに俺も中学くらいの時にはそうして好きになったりしたと思う。…思い出したら、胸が痛い。身体は無くても痛いぞ。この胸の痛みもずいぶん懐かしい感覚だけどなぁ。』
『純粋に好きじゃないなら、どう好きになるの?』
『まあ、いろいろ考えたりしだすのさ。ヒロトもこれから大人になっていけばわかってくる。こればっかりは経験してみないと難しいかもしれないなぁ。』
僕達が話している間に、準備ができたようだった。
「ではこれからコンピュータ室へ移動します。」
広瀬と高梨が同じ班なので、二人に任せておけば何も問題無い。余裕は無いけど集合時間に間に合う電車で行くことになった。
4両編成の短い電車だけど、混んでる時間は過ぎているようで車内は空いていた。うちの学年の半分くらいが乗っているようだった。残り半分は1本前の電車で行ったんだろう。
僕達がしていた最近話題の動画を見てのくだらない話は、唐突に打ち切られた。
「ぐああー」
なんかすごい叫び声が後ろの方から聞こえた。そしてすぐに何かが倒れる音も。
「きゃあー」
今度は女の子の叫び声だ。どうなってんだ?
「ヒロト、行ってみようぜ。」
そういうと広瀬と高梨は声のした方に向かって行き、僕もついていった。
まだ、叫んでいる女の子は綾乃さんだった。谷本さんにしがみついている。そのすぐ脇に倒れているおばさんがいた。…動いていないけど、これまずいんじゃ。周りはウチのクラスの奴ばかりだが、誰も何もできずにいた。
『いかん、ヒロト代わって。』
『あ、うん。』
代わるとオッサンはすぐに行動し始めた。おばさんのそばにいくと肩を叩きながら耳元で声を掛け始めた。
「大丈夫ですか? 返事をしてください。聞こえますか?」
何の反応も無かった。オッサンはおばさんの顔に耳を近づけた。
「おい、ヒロト。その人大丈夫?」
広瀬が恐る恐る聞いてきたけど。僕にもわかんないよ。今はオッサンが僕を動かしているんだから。
「大丈夫じゃない。呼吸が無い。」
周りからヒッとかざわめきが始まった。
「この人、急に倒れたの?」
オッサンは冷静だ。
「そうよ。苦しそうに声を出したあと、綾乃にもたれかかるように倒れたの。」
少し青ざめているけど谷本さんも冷静だった。
「そっか、ありがとう。」
オッサンはおばさんをそっと仰向けにすると、横に座って胸を押し始めた。おばさんの胸が上下する。オッサンはそれを続けながら広瀬を呼んだ。
「広瀬、今から車両の前に向かってお医者さんか看護師さんがいないか探してくれ。いたらここに来てもらうんだ。」
「あ、うん。わかった。」
広瀬はそう言うと、急いで歩き出した。大きな声で呼びかけながら。
「お医者さんか、看護師さんはいませんか? 急病人がいます。」
「高梨、お前は車両の後ろに向けて同じことをしてくれ。」
「わかった。」
高梨も後ろの方に向かいながら、呼びかけている。
「川島、緊急通報ボタン押した方がいいんじゃないの?」
声のした方を見ると谷本さんだった。すぐそばに、そのボタンはあった。
「ダメだ。ここで電車が停まったら助けをすぐに呼べない。次の駅についてドアが開いてからから押してくれ。頼んだぞ。」
普段の僕とはまったく違う強い調子の声に、谷本さんが驚いている。
「…うん。わかった。」
「電話って誰が持ってる?」
「綾乃よ。」
「じゃあ、119番にかけて次の駅に来て欲しいって伝えて。」
「綾乃、電話!」
「あ、うん。」
「谷本さん、電話の応対任せた。こっちに集中したい。」
「わかった、任された。」
綾乃さんから電話を受け取り、応対してくれている。
「ヒロト、看護師さんがいたぞ!」
広瀬がお姉さんを連れて戻ってきた。
「どうしたの?」
お姉さんはそう聞いたけど、オッサンがしていることを見て青ざめた。
「心肺停止なの?」
「そう。今心臓マッサージ始めてから2分くらい。お姉さん、代わってもらえますか?」
「もちろんよ。よくがんばったわね。」
お姉さんはオッサンと場所を代わると、同じ様に心臓マッサージを始めた。オッサンはおばさんの首の下に右手を入れて支え、左手で鼻を押さえた。おばさんの顔がアップになる。
『ヒロト、すまんな。緊急事態だ。』
オッサンの声が申し訳なさそうに聞こえた。そしておばさんにキスをした。…じゃない、人工呼吸を始めたのだった。
「よく知っているのね。中学生でしょ?」
お姉さんが感心している。
「AEDの講習で教えてもらいました。」
オッサン、そんなこともやってたの?
電車が減速を始めた。駅に近づいているんだ。
「君、名前なんていうの?」
お姉さんは少し苦しそうだった。
「川島です。」
「そう。…川島君、悪いけど私と代わってくれる? 私の名前は泉よ。」
「はい、もちろん。」
オッサンとお姉さんは場所を入れ替え、オッサンがまた心臓マッサージを始めた。
『ヒロト。おい、ヒロト。』
『何? オッサン。』
『オレもうダメだ。ヒロトの身体を動かせなくなってきてる。』
確かにおばさんの胸を押し切れていないし、遅くなってきている。
『ヒロト、早くオレと代わってくれ。』
『僕には無理だよ、できないよ。』
『バカ、このおばさんを助けられるのはお前と泉さんしかこの場にはいないんだ。いいからやるんだ。…大丈夫だ、ここに死神はいない。…代わるぞ。』
オッサンは背中に移動し、僕の身体になった。止まってしまった僕をみんなが見ている。
『胸の中心を押すんだ、1分間で百回のペース。今の手の位置のままでいい。腕の力じゃなくって、肘を伸ばして体重で押すんだ。』
僕は無我夢中で押し始めた。
『いいぞ、それでいい。もうすぐ駅に着く。がんばれ!』
ブレーキの音がして電車は止まりかけている。でも僕は腕の力がもう無くなりそうだった。泉さんを見たけど、まだ苦しそうだった。…どうしよう。
「川島、がんばってくれ。もうすぐ電車は停まる。ドアが開いたらすぐにこのボタンを押して駅員さんを呼んでくるから、それまでがんばってくれ。」
…谷本さんだった。
「広瀬君、停まったら外に出て先頭まで走っていって、運転手さんに伝えて。高梨君は後ろに行って車掌さんに伝えて。私は駅員さんを呼びにいくから。…これでいい? 川島。」
「ああ、ありがとう。…僕もがんばるよ。」
電車が停まって扉が開くと、谷本さんと広瀬と高梨はすぐに行動した。僕は心臓マッサージに専念した。あいつら、いい仲間だ。
すぐに駅員さんや車掌さんが駆けつけてくれ、僕の代わりに心臓マッサージを始めてくれた。AEDも運ばれてきて準備している。
「川島。」
AEDの準備を見ていた僕に谷本さんが声を掛けてきた。
「何?」
「さっきまではすごかった、ありがとう。」
「え、ああ、うん。」
「今からAEDをするって。」
「あ、うん。そうだね。」
「じゃあ、離れろよ。」
「へ?」
「AEDの講習受けたって言ってたろ。じゃあ、これから何するのか知ってるんだろ。」
『AEDのパットは素肌につけるんだ。女性だから配慮して離れろって言ってるんだよ。』
オッサンがアドバイスしてくれた良かった。僕にはさっぱりわからなかった。
「ああ、ゴメン。気がつかなくて。女の子で囲んであげて。…ああ、これ使って。」
僕は制服の上着を脱ぐと谷本さんに渡した。
「…ありがと。」
谷本さんはそう言うと周りの男子からも上着を借りて、おばさんの周りを囲って外から見えないようにしてあげていた。
『あの子、場慣れしてるよ。医療関係の知り合いでもいるのかな?』
オッサンの疑問ももっともだ。その時、女の子達の輪の内側から声が聞こえてきた。
「電気ショックを掛けるから少し離れて。」
少ししてバシッという大きな音がした。その後シーンとなっていたが、ううーんという声が聞こえてきた。
「戻ったぞ!」
「生き返った!」
良かった、おばさん生き返ったんだ。何だか涙が出てきた。遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
『ヒロト、よくやったな。』
『オッサンのおかげだよ。』
『生きているときには役に立たなかったが、死んでから役立つなんてな。まあ、講習受けといて良かったよ。目の前で死人仲間が増えるのはイヤだからな。』
背中をつつかれて振り返ると、谷本さんが立っていた。
「川島、ありがとな。お前のおかげで助けられた。…私も救命講習受けていたけど、いざとなると動けなかった。」
「谷本さんも受けてたの?」
「うん、私のお母さん看護師なんだ。お母さんから色々話を聞いて、私も将来医療関係の仕事を目指しているから受けたんだけど、どうしていいのかわからなかった。」
しょんぼりしている谷本さんを見るのは初めてだった。
「気にしないで、大丈夫だよ。もし次があれば、その時は動けるよ。僕も次があればもう少し上手にできると思うから。」
「…お前、なんでそんなに余裕なんだよ。」
そりゃ、オッサンがいるもん。…とは答えられないなぁ。
「とにかく、谷本さん助けてくれてありがとね。僕一人じゃダメだったから。」
「こっちこそ、ありがとう。…あ、制服もありがとね。返す。」
「あ、うん。」
「あー、ゴホンゴホン。」
谷本さんと一緒に声がした方を見ると、広瀬と高梨がニヤニヤしながらこっちを見ていた。
「俺たちもがんばったよな、高梨。」
「そーだよな、広瀬。なんか二人だけ仲良くなっちゃって。」
僕と谷本さんは顔を見合わせ、広瀬達に同時に話した。
「違うって。」
「違うわよ。」
僕達はもう一度顔を見合わせ、今度は吹きだした。それを見て広瀬達は肩をすくめて笑い出した。僕は笑い終わると、きちんと伝えた。
「広瀬、ありがとう。高梨も助けてくれてありがとな。」
「いやいや、俺たち大したことしてないから。ヒロトはスゲェな。なんであんなに冷静に周りに指示だして、心臓マッサージまでできるの?」
僕の中にオッサンがいるからだけど、言っても信じてはもらえない。…何て答えればいいんだろう。
『交通事故で死にかけたからっていうのは、それなりの理由になるんじゃないか。』
オッサンGJ!
僕はオッサンのアドバイス通り、死にかけたことで冷静になったし、救命にも興味を持ったんだと説明した。何とか納得してくれたようだった。
「こっちです、お願いします。」
駅員さんに案内されて、担架を持った人達がやってきた。救急隊員みたいだ。
「通報してくれた人いますか? 話を聞きたいのでこちらに来てください。」
同じ制服を着ているおじさんが周りに声を掛けている。
「谷本さんを探しているんじゃないの?」
「そうみたい、行ってくる。」
谷本さんはおじさんのところに向かって行った。
「心臓マッサージをしてくれた、川島君っているかい?」
担架の方から僕を呼んでいる声が聞こえた。
「はい、ここにいます。」
手を上げて合図した。
「説明してもらいたいから来てもらえるかな。」
「わかりました。行きます。」
僕は広瀬と高梨に断わって、呼ばれた方に向かった。
「長らくお待たせしました。急病人は救急隊に引き継ぎましたので、間もなく列車は発車します。ご利用の方は車内でお待ちください。」
僕と泉さんがホームで救急隊の人に説明していると、駅のアナウンスが聞こえた。広瀬達の方を振り返ると、2人して手を振っている。…バイバイじゃないだろ、置いてかないでよ。
救急隊の人は僕と泉さんの説明をメモしたりして、気がついてくれなかった。
「間もなくドアを閉めます。」
ブザーが鳴り、ドアの閉まる音が聞こえた。電車はゆっくりと動き出して行く。
「ああ、ごめんな乗れなくて。もう少しだから、次の電車までには終わるよ。」
「はい、あの、お願いします。今日、社会見学なので。」
「そうか、手間取ってごめんよ。」
高梨達が乗っている車両が通過していく。2人は笑いながら、後ろの方を指さして僕に手を振った。ホームの後ろの方を見ると、谷本さんもまだ話を聞かれているようだった。
『気をきかせてくれたみたいだな。…相手が違うけど。』
オッサン、はっきり言わないでよ。
『うん、そうだね。あいつらには綾乃さんのこと言ってないからなぁ。』
「川島君、聞いてる?」
泉さんの声でオッサンとの会話を中断した。
「あ、ごめんなさい。何でした?」
それから少しして、事情聴取っていうのは終わったようだった。最後に救急隊のおじさんが手を差し出して言った。
「見事な救命措置だった。ためらわずに心臓マッサージをしてくれたから、あの人は後遺症もあまり無く助かると思うよ。大きくなったら、ぜひ消防局へ来て欲しい。勇気ある人間はいつでも大歓迎だ。」
ギュッと強く大きな手で握られた。僕もできるだけの力で握り返した。
「ガッツもある。ますます歓迎するよ。」
おじさんは泉さんにもお礼を言って、引き上げて行った。
「川島君、私にも握手して。」
泉さんが手を差し出して言った。僕は泉さんの手を握った。
「私、今は看護師じゃないの。」
「え、どういうことですか?」
「看護師だったけど、色々大変だったから転職したの。今は全然関係ない事務の仕事。」
「そうなんですか。」
「でもやっぱり、看護の仕事に戻ることにするわ。救命措置をしていた時、やっぱり医療現場にいたいって感じたの。体力が落ちているから、がんばらないといけないけどね。」
「泉さんがいてくれて良かったです。僕一人だったら多分最後まで持たなかったから。」
「こちらこそありがとう。もう一度現場に戻る気になれたわ。」
泉さんはそう言うと一度だけキュッと強く手を握り、そっと離した。
「さーって、遅刻するって連絡しなきゃ。じゃあね、川島君。」
ニコッと笑いながら僕に手を振って、スマホを取り出しながら離れて行った。
「川島の方も終わったんだな。」
振り返ると谷本さんが立っていた。
「うん。…みんな行っちゃったね。」
少し離れた所から、救急車のサイレンが鳴り始めた。今から病院へ搬送するようだった。
「谷本さんは何を聞かれてたの?」
「おばさんが倒れた時の状況や時間とか、連絡先も聞かれた。」
「そうなんだ。僕は何をしたのかとか聞かれたよ。さっきのおばさん、後遺症もあまり無く助かるだろうって言ってた。」
「そう、良かった。」
電車が来ると駅のアナウンスがあった。僕と谷本さんは一緒に電車に乗った。
「この電車だと集合時間に間に合わないね。」
「大丈夫よ、綾乃に遅れるって伝えてもらうよう頼んだから。」
「そっか、ありがとう。」
それからは何を話していいのかわからず、会話は続かなかった。
『ヒロト。谷本さんに、カンニング騒動の時のことを聞いてみてよ。どうして矢島君に確認させたのかって。』
『えー、それ聞くの? 答えてくれないんじゃない。』
『それならそれでいいから。他に会話の糸口も無いんだろ。』
『そうだね。…このままの沈黙よりも、気まずくなる気もするけど。』
「ねぇ、谷本さん。」
谷本さんは電車の窓から外を見ていたけど、僕の呼びかけに振り返った。
「何?」
「一つ聞きたいことがあるんだけど。」
「…何?」
「僕が英語のテスト、カンニングしたって噂が出た時あったじゃん。」
「うん。」
「…矢島達が僕に確認した時、谷本さんもいたよね。」
「うん。」
「谷本さんがやらせたの?」
「…誰かがそう言ってるの?」
「オッサン。」
「オッサン? ふざけてるの。」
「いや、オッサンていうあだ名で呼んでいるだけ。」
「…ふーん。それが誰のことか聞いても、教えてくれないんだよね。」
いや、教えてもいいけど信じてはもらえないだけ。僕は何も答えなかったけど、谷本さんはそのまま話し続けた。
「川島が他の誰にも話さないと約束してくれるなら、話してもいいよ。お前は信じられる奴だってわかったから。」
「約束するよ。誰にも話さない。」
「オッサンにも?」
「ゴメン、オッサンには話さなきゃならないんだ。でも、オッサンから他の誰かに話が出ることはないよ。…それがイヤなら、話さなくてもいいよ。」
「いや、いい。お前とオッサンを信じる。…そうだよ、私が矢島君達に頼んで聞いてもらったんだ。」
「どうして?」
「川島へのイジメにつながりそうだったから。」
「僕へのイジメ?」
「そうだよ。あやしい噂は尾ひれもついて悪意に染まっていくことが多いから。そうなる前に確認しておきたかったのよ。」
「どうして?」
「私のいるクラスで、イジメは見過ごせないから。そうならないようにしてるだけ。」
「じゃあ、どうして自分で僕に聞かずに矢島に頼んだの。」
「言い方やニュアンスは同性の方が間違えにくいから。変にこじれたりしないから、その方が合理的でしょ。」
まるで大したことでは無いように話しているけど、それって先生がやることなんじゃ。
「先生みたいだね。」
「先生? 授業中以外のクラスの雰囲気や変化は、先生には見えていないでしょ。自分たちで何とかするしかないじゃない。」
谷本さんはそう言って少し黙ると、声を小さくして話を続けた。
「綾乃は幼馴染でずっと昔からの友達なの。小学4年の時は違うクラスだったんだけど、綾乃はみんなからハブられたの。理由はわかんない。綾乃は、…みんなにはそう思われていないだろうけど、すごく我慢強くて弱音はめったに言わないわ。でもあの時は、もう学校に行けないって泣きながら私に言ったの。」
谷本さんはその時を思い出したのか、ものすごく怖い顔になった。
「綾乃が我慢強いから、ハブるのがどんどんエスカレートしていってたみたい。…で、綾乃は限界になった。クラスのみんなは、綾乃がいないように振舞っていたって。」
「え、先生は何もしなかったの?」
「しなかった、何も。綾乃は勇気を出して相談したの。…でも先生は『あなたにも悪いところがあるんじゃないの』って言ったって。」
「…そんなのひどい。」
「まあ先生っていっても、教員免許持ってるだけのクズもいるってことだけ。運転免許だってそうでしょ。運転しながらスマホに夢中になって、交通事故を起こして他人の人生を壊すカスもいる。ニュースにいっぱい出てるじゃない。」
『俺はスマホをいじっていなかったが、ヒロトの人生を狂わしてしまったのは一緒だな。耳が痛いよ。』
オッサンがしんみり僕に言った。谷本さんにはオッサンの声は聞こえないので、そのまま話が続いた。
「綾乃から話を聞いた時、先生がダメなら親に相談したらって言ったの。でも、綾乃は心配させたくないから言えないって言ってた。…どこにも救いの手は無かったの、私以外にはね。」
谷本さんは自分の手を見ながら話を続けた。
「私は可能な限り綾乃の側にいるようにした。そうしたら綾乃の話した通りで、先生が頼りにならないのもわかった。誰も頼りにはならなかった。私は綾乃みたいな思いを、せめて同じクラスのみんなにはさせたくないの。」
谷本さんは顔を上げ、僕を一瞬だけ見てまた顔を伏せた。
「まあ、お前や広瀬や高梨は、頼りになるのはわかったよ。…ありがとな。」
谷本さんの話を聞いていたら、何だか胸が痛くなってきた。
『ヒロト。俺、谷本さんと話がしたいから代わってくれない?』
『いいけど、オッサンとして話すの?』
『察しがいいな。この子は俺達を信じて話してくれた。誠意には誠意で応えるもんだ。俺達のことも話してあげなきゃ。俺じゃなくって、ヒロトから話す? それでもいいけど。』
『オッサンに任せるよ。』
『わかった、任された。』
『…オッサン。そのセリフ、谷本さんが言ったのでしょ?』
『よく気がついたな、かっこよかったから真似してみた。…じゃあ代わるよ。』
『うん、頼んだよ。』
僕がそう言うとオッサンが僕になった。
「谷本さん。」
谷本さんはちょっとだけ驚いていたけど、普通に返事した。
「何、川島?」
「私は今、川島じゃないんだ。私のあだ名はオッサン。ヒロトの身体に同居している魂の居候だよ。」
谷本さんは結構長い時間固まっていた。
「…川島、お前何言ってんの。」
「信じられないのも仕方が無い。でも、今この身体を動かしているのは君の知っているヒロトじゃないんだ。正直に君に話すが、私はヒロトが夏休みに被害にあった交通事故の加害者でもある。」
谷本さんは呆然としたままだった。そりゃそうだよね。オッサンは気にせず話を続けた。
「理由はわからないが、私の魂はヒロトの身体に同居することになったんだ。私の身体は死んでもう無いけど、ヒロトの身体に同居することでこの世に留まっていられるんだよ。」
オッサンはそこで少し話を待った。谷本さんが問いかけた。
「…さっきの救命措置はオッサンがしたの?」
「そうだよ、君は察しがいいね。私はあだ名のとおり結構なオッサンで、それなりに色々場数も踏んでいる。AEDの講習も実は何回も受けているんだ。だから君たちに必要な指示も出せたし、何をすれば良いかもわかっていたんだ。」
「だからあんなに落ち着いていたし、的確に動けてたの?」
「なにせオッサンだからね。私の存在を話しても信じてはもらえないだろうから、ヒロトが交通事故で死にかけたことをさっきは理由にしてもらったんだ。」
谷本さんは黙ったまま聞いていた。オッサンも黙ったまま待っている。
「…今の話は全部嘘で、川島はとっても嫌な奴で、オッサンなんていう二重人格っぽい作り話で私を騙しているっていう可能性もあるよね。」
「もちろんある。…ただ、私はヒロトではないと主張するしかないんだ。」
「あとは、私が信じるかどうかだけってことね。…理由はわからないけど、オッサンが川島とは別にいることはわかった。多重人格かもしれないけど違う人が確かにいるってことは今日の出来事でわかったよ。」
「それはありがとう、谷本君。」
「そんな言い方、川島はしないよ。…身体は同じなのに、何だか雰囲気も違ってる。」
「今の中身はオッサンだからね。」
谷本さんは少しだけ笑った。
「でも、どうして私に教えてくれたの?」
「ああ、君にどうしても伝えて起きたかったんだ。君が感じた通り、大人だけど頼りにもならなかったり逃げたりする奴は結構いるんだ。でもそうじゃない大人もいるからね。さっき一緒に助けてくれた泉さんもそうだろうし、私も生きていたら少しは頼りにしてもらえたんじゃないかと思う。…だから、君一人だけでがんばらなくても大丈夫だからね。」
「…ありがとう。」
「今の話をヒロトがしても、絶対に君に伝わらなかったよね。」
「川島だったら、『何言ってんの?』って怒っていたかも。」
「だから出てきたんだよ。ヒロトはいい奴だから、頼っても大丈夫だよ。今まで中から見てきたオッサンが、間違いなく保証する。」
オッサン、急に何言い出すんだよ。恥ずかしいじゃん。
「心臓マッサージの途中で私と代わったけど、がんばってやりとげたしね。君の応援もあったからだろうけど。」
「…途中で動きが止まった時?」
「そう。なぜだかわからないけど、私がヒロトの身体を動かせなくなってしまったんだ。あの時からはヒロトが自力でやってたんだよ。」
「そうだったんだ。」
「ああ。じゃあ、ヒロトに代わるよ。さよなら。」
「え、あの、さよなら。」
『ヒロト、交代。…早く代わってよ。』
『恥ずかしいじゃん。』
『何言ってんだよ。早くしないと死んだのかと思われるぞ。』
『あー、もう!』
「川島? あれ? 川島?」
谷本さんが僕に話しかけていた。
「ゴメン、今オッサンとしゃべってて代わるのが遅くなっちゃった。」
「えー、オッサンとしゃべれるの? あ、オッサンって呼んでいいんだっけ?」
「あだ名だからいいんじゃない?」
『うん、いいよ。』
「オッサンもいいって。」
「すごいね。自分の中に別の人がいて話もできるんだ。」
谷本さん感心してるけど、結構変な話だと思うけどなぁ。
「あれ、じゃあ成績が上がったのもオッサンのおかげ?」
「当たり。」
「英語のテストの件は?」
「…あれはオッサンが受けてた。」
「それって…。」
「カンニングはしてないよ。…替え玉だったけど。」
「…川島?」
「それからちゃんと勉強して、先生に疑われた時は自力で満点だったよ。」
「…ふーん。」
「疑うならオッサンに聞いてもらってもいいよ。」
「わかったよ、信じるよ。まあ、高梨君達との話を聞いていれば、ちゃんと勉強しているのはわかるからね。」
「谷本さん、ホントに周りが見えているんだね。」
「そうじゃないと、イジメの芽は見えないから。…あーあ、私の中にもオッサンみたいな信じられる大人がいればなー。」
「え、オッサンだよ?」
「まあ、おじさんだとイヤかもしれないけど、いつでも相談できる頼りになる人がいるってすごいじゃん。いろんなこと知ってるし。」
確かにオッサンはアタリかもしれない。変な人だったら今頃どうなっていたんだろう。
「あ、もうすぐ駅に着くね。ここから歩いて10分くらいのはずよ。」
谷本さんはそういうと、少しだけ真面目な顔になった。
「また今度、オッサンと話をさせてね。お願い。」
「え? うん、いいよ。」
「ありがと。約束ね。」
遅れて着いたけど、遠藤先生がニコニコ笑いながら待っていてくれていた。
「川島、よくがんばったな。広瀬達が話をしてくれたよ。救命措置なんてなかなかやれるものじゃない。人形相手ならできても、本物の人間が目の前で死にかけているんだからな。先生も講習は受けているけど、実際に動けるかと言われればあんまり自信はないな。」
「助けてくれる人達がいたからです、先生。」
「謙遜しなくてもいいんだぞ。」
「一人じゃダメだったと思います。谷本さん達に助けてもらいましたから。」
「そうか。…川島、お前なんだか大人になったな。」
「私もそう思います。」
谷本さん、知ってて言わないでよ。ニヤニヤ笑ってるし。
「生徒の成長を見られることが、教師で最もうれしいことだ。これからもがんばれよ、二人とも。さあ、みんなのところへ行こうか。」
広瀬と高梨は僕達を見てうれしそうによろこんでいた。…絶対に誤解してるぞ。
社会見学は無事終わり、僕と谷本さんの距離は少し近づいたようだった。…綾乃さんとの距離は変わらなかった。それどころか僕は綾乃さんのことを何もわかっていなかったと知らされたので、自分の中での距離は遠くなったようにすら思えた。
11月に入り、何もイベントは無い。僕は部活が再開でき、最下位にまで落ちた卓球部の部内順位を上げるのに一生懸命だった。約束通り、オッサンと谷本さんは何回か話をした。医療関係の話題が多く、僕にはよくわからない話もあった。
いつも通り寝る前の予習をしていると、オッサンが話しかけてきた。
『どうして俺とヒロトの魂が絡まったのか、だんだん俺が小さくなっていくのか、多分だけど理由がわかったよ。谷本さんにも協力してもらった。』
『…何?』
理由を聞くのは怖い気がした。
『ヒロトの血液型って、B型のRH-なんだろ。』
『うん、前にも言ったと思うけど。』
『…実はな、俺も同じ血液型だったんだよ。』
『え、そうなの?』
『ああ。確率で言うと千人に一人しかいない希少さだ。だから俺も献血登録をしていて、今年の7月にも要請があって献血したんだ。』
『それが関係あるの?』
『確証は無いけど、ヒロトの手術に俺の献血した血が輸血されたんじゃないかと思う。』
『どうして?』
『最近どんどん俺の居場所が小さくなってきただろ。ヒロトが事故に巻き込まれてから3ヶ月が過ぎた。この勢いなら、もうすぐ俺はヒロトの身体からいなくなるだろう。』
『なんでもうすぐなの?』
『だから輸血だよ。魂は身体に何か自分の居場所が無ければ入れないんじゃないかな。事故で出血多量になっていたヒロトに輸血が行われた。その中に俺の献血もあって、それで俺の魂はヒロトの体内に入ることができ、魂同士が絡まってしまったんだと思う。』
『じゃあ、オッサンの居場所が小さくなっていく理由は?』
『輸血された俺の血液成分が無くなってきているのさ。一番長い赤血球でも寿命は百二十日。今月末にはヒロトの身体から俺の居場所は消える。その時、絡まっていた魂もきっとほどけるんだろう。』
『何でそこまでわかるの?』
『…死神がまた来たからさ。あそこを見てみろ。』
言われた通り窓の外を見ると、電線の上に見覚えのある死神が立っていて僕達を見て笑って手を振った。
『そんなのイヤだよ。オッサンだってこのままいたいでしょ。』
オッサンはすぐに答えなかった。
『俺もまだこの世界にいたいよ。ヒロトと過ごす毎日は楽しいからな。…俺が自分で生きている時にはそんなふうに感じなかったのにな。…でも、ヒロトのためには良くないな。ヒロトはこれから大人になる。一つの身体に大人が二人はいらない。』
僕は何も言えなかった。
『まあ、潮時だってことだよ。…俺はとっくの昔に死んだけど、ヒロトのおかげでもう一度中学生にもなれたしな。おもしろかったよ。』
『谷本さんには伝えたの?』
『直接伝えてはいないけど、血液型や赤血球の寿命なんかは彼女に調べてもらったから、薄々感じてるんじゃないかな。あの子は察しもいいし頭もいいから。』
『ちゃんと自分で伝えた方がいいよ。』
『俺もそう思ってるよ。ただ、いつ消えるのかがわかんないとタイミングが難しいな。…ああそっか、自分で決めればいいんだ。』
そう言うとオッサンは死神に声をかけた。
「死神さんよ、明後日になったその時に俺の魂を持って行ってくれないか? もう、ほどけかけているんだろ。」
オッサン何言ってんの? 死神は顔に似合わない、低く重々しい声で答えた。
「お前の言った期日より、もう少し長くこの世界に残れるがそれでいいのか? その時になってから変更はできないぞ。」
死神も言ってんじゃん。明後日よりももっと長く一緒にいられるんだよ。オッサンは僕の声には耳を貸さずに死神に答えた。
「ああ、いいよ。終わりが決まっていた方がやりやすい。…夏休みの宿題と一緒だよ。」
死神は全く表情を変えずに応えた。
「お前の例えはわからない。明後日になった時に、お前の魂を切り離せばいいんだな。」
「仕事熱心で結構。ああ、明後日になった時に、ヒロトから切り離してくれ。」
死神は微笑むと消えていった。
『さて、ヒロトと一緒にいられるのも明日1日だ。よろしくな。』
『どうして明後日になるまでなんて決めたんだよ。死神だって、もっとこの世にいられるって言ってたじゃん。』
『終わりがわからないと、ちゃんとしたタイミングで別れられないだろ。…さよならを言ってから1週間もそのままだったらお互い気まずい。逆にお別れを言う前にいなくならなきゃならないのもつらい。』
『…でも。』
『もう死神と約束したんだから、残り時間は決まってしまった。…ヒロト、今日は俺の話につきあってくれるか?』
僕は胸がいっぱいになってしまって、すぐに答えられなかった。でも、こうしている間にも時間は過ぎていってしまっている。
「もちろんいいよ。何の話から?」
僕とオッサンは一晩中話をしていた。時間がこれほど早く進むのを、僕は初めて知った。
谷本さんには翌日の放課後に会い、オッサンは自分でちゃんとお別れを言った。谷本さんは何となくわかっていたと言って俯いた。
「もう二度と会えないんだよね?」
「そうだな。」
「まだ知り合ってから間もないのに、すごく悲しいよ。」
「俺もだ。でも、知り合えなかったことに比べれば、大したことじゃない。出会えたから、別れられる。お互いに笑ってさよならをしよう。そうすれば、笑顔を思い出せる。」
谷本さんは泣き笑いみたいな顔で、さよならと言った。
今日はもうすぐ終わってしまう。僕達はずっと色んなことを話していた。
『俺がいなくなっても大丈夫か? って聞くところなんだろうが、ヒロトは変わったよ。俺がいなくても問題無いな。』
『僕が変わったとしたら、オッサンのおかげだよ。』
『そう言ってもらえるなら、ヒロトと一緒にいられたことを誇りに思えるよ。こちらこそ、居候されてもらってありがとな。』
急に部屋の中が暗くなったと思ったら、死神が現れた。
「もうすぐ時間だ。残り1分、…50秒。」
「カウントダウンするんだ。」
冷静に解説している場合? でも僕も、たくさん用意していた言葉が何も出てこなかった。僕もオッサンも何も言えないまま、死神のカウントだけが進んでいく。伝えなきゃ!
『オッサンが居てくれてホントに良かった。僕だけじゃできなかったことも、オッサンのおかげでできるようになった。…もし僕が死んでオッサンにまた会うときが来たなら、胸をはっていっぱい話ができるようにこれからもがんばるよ。…だから、だから、』
「時間だ。」
死神が鎌を振り上げた。
「さよなら、オッサン。ありがとね。」
「ヒロト、さよなら。俺こそ、ありがとな。ずっとずっと先の未来で会おう。」
死神が鎌を振り下ろし、その瞬間から死神の姿は見えなくなった。オッサンの声も二度と聞こえることは無かった。
死神がオッサンの魂を連れて昇っていく。
「死神さんよ。」
「何だ? もう少しかかるぞ。」
「ありがとな。」
「…なんのことだ?」
「ヒロトに返事をし終えるまで待ってくれたんだろ。」
「…知らんな。 鎌の調子でも悪かったんじゃないか?」
オッサンは小さく笑った。
「そういえばあんたの名前を聞いていなかった。…実はあんたとは友達になれるんじゃないかって、初めて会ったときから思っていたんだよ。」




