第十章 4
「――はぁ~い……おはよぉございまぁ~す……」
夜明け前の闇の中、民家の屋上に忍び込んだジンジャーは、
白い息を弾ませた――。
朝の四時――。
ジンジャーは分厚いコートに身を包み、
サクナの手引きでこっそり屋敷を抜け出した。
そしてオリビア亭の前に建つ民家の屋上に忍び込み、
毛布にくるまりながら宿屋の一室に目を向ける。
すると、窓の向こうのカーテンに隙間があった。
しかも九郎の寝姿がわずかに見える。
ジンジャーは「よっしゃ! 勝った!」と心の中で大喝采。
屋上の縁でうつ伏せになり、パシャッテの魔法で九郎の姿を撮りまくった。
「うっひょひょぉ~。クロウ様ったら下着姿で寝てるじゃない。いやぁ~ん。朝からお目めのサービスタイムだわぁ~」
「……ベッドがきれいなら下着で寝る。その方が暖かい」
隣で毛布にくるまったサクナが、わずかに白い息を吐き出した。
「へぇ~、そうなんだぁ。わたしも今度やってみようかしら」
「……やめた方がいい。寝相が悪いと、体が冷えて死ぬ」
「はい。やめておきます」
ジンジャーは即座に真顔でうなずいた。
「いやぁ~、それにしても、クロウ様は相変わらず可愛いわねぇ~。見てよ、あの白いお肌。まるで生まれたての赤ちゃんみたい。いったいどうやったら、あんなにすべすべのお肌でいられるのかしら」
言いながら、ジンジャーは魔法陣を最大望遠にしてサクナに見せる。
しかしサクナは興味なさげに首をかしげた。
「……見た目なんかどうでもいい」
「うふふ。サクナさんの感想はそればっかりね。だけど、そういう無頓着なところも大好きよ」
「……む。あの子が寝返りを打った」
「キャーッ! どこどこっ!?」
とっさに魔法陣をまっすぐ構え、ジンジャーは目を皿にした。
「ウッヒョーッ! お尻よーっ! 破けたパンツからお尻が見えるわっ! ハイッ! おしりっ! おしりっ! おしおしおしおし、おしおし、おしりぃ―っ!」
街で一番偉い金髪の女伯爵は、
ささやき声で叫びながら魔法で写真を撮りまくる。
隣の護衛は淡々とした顔で、現像された写真を素早くつまんで集めていく。
「いやぁ~ん、どうしよぉ~。わたし、ちょっと辛抱たまらないんですけど」
ジンジャーは頬を赤く上気させながら、手の甲で口元のよだれを拭い取る。
そしてそわそわと体を揺すって鼻の穴を膨らませ、九郎の生足を凝視する。
すると突然、サクナがジンジャーの口に指を押し当てた。
「……静かに。馬車がくる」
「あら、もう?」
ジンジャーはきょとんとしながら眼下の通りに目を落とした。
するとたしかに明るくなり始めた空の下を、
一台の馬車がゆっくりと走ってくる。
六頭立ての大きな馬車だ。
「まあ。あの客車はずいぶんと大きいわね」
「……あの子の連れにギガン族の男がいた」
「あ、なるほど。そういうことね。でも――」
馬車が宿屋の前に止まったとたん、ジンジャーは首をひねった。
「今はまだ朝の六時ごろでしょ? こんなに早く馬車を呼ぶ必要なんてあるのかしら?」
「……静かに。変なヤツがいる」
「え? わたし以外に?」
ジンジャーはサクナが見ている方向に視線をスライドさせた。
するとちょうどその時、近くの路地から誰かが姿を現した。
薄汚れたコックコートを着た男だ。
「あら? あれはまさか、うちの食料を盗んでいたコックじゃないかしら?」
「……うん。ギルバートだ」
言って、サクナは目を冷たく光らせる。
「何であのコックが、こんな時間にこんなところにいるのかしら?」
「……分からない。しかし、あいつはまともな人間ではない」
サクナは脇に置いた剣をつかんで引き寄せた。
ジンジャーも息を呑んで元コックを目で追い続ける。
ギルバートは無人の通りをゆっくり歩き、
周囲を見渡しながら馬車に近づいていく。
すると突然、素早く御者台に飛び乗り、御者の胸にナイフを突き刺した。
さらに御者の口を片手で押さえ、
二本、三本、四本と、次々にナイフを突き立てていく。
「ひっ!? 人殺し!?」
ジンジャーはとっさに口を押さえて目を見開いた。
サクナは一つうなずき、淡々とささやく。
「……ナイフを抜かないのは、出血を防ぐためだ」
「え? 出血? どうして?」
サクナは答えず、無言で馬車にアゴをしゃくる。
見ると、ギルバートは死体を担いで御者台から飛び降り、
近くの路地に運んでいく。
そして大きな木箱に放り込み、右手を顔の前にかざして動きを止めた。
「あら? あれはいったい何をやっているのかしら? ――って、えええぇっ!?」
ジンジャーは思わず目を剥いた。
ギルバートの右手の辺りが光った瞬間、体の周囲がゆらりと揺れて、
御者の姿に変わっていた。
コックコートは防寒用の外套に変化して、顔も体も御者そのものになっている。
「……あれはおそらく、幻影の指輪」
不意にサクナがぽつりと言った。
「え? 幻影の指輪ってまさか、自由自在に変身できる、魔法の指輪のこと?」
ジンジャーは指先の魔法陣をギルバートの右手に向けて、ズームした。
すると右手の中指に土色の指輪がはめてある。
「あら、ほんと。それっぽい指輪だわ」
「……あいつは御者と入れ替わって、あの子を殺すつもりだ」
「あの子って、まさかクロウ様!?」
「……うん。あいつはあの子に逆恨みしているらしい」
「まあ。何て身の程知らずな愚か者なのかしら」
「……どうする? 今なら誰にも気づかれずにあいつを始末して、木箱の中に放り込めるけど」
淡々と言って、サクナはジンジャーをまっすぐ見つめる。
ジンジャーは顔の前に指を一本立てて思案した。
通りにちらりと目を向けると、
御者に化けたギルバートは木箱に蓋をして白い袋を肩に担ぎ、
ゆっくりと馬車に戻っていく。
「――いえ、まだよ」
ジンジャーは目に力を込めて言い切った。
「クロウ様には巨人兵がついている。ということは、滅多なことでは近づくことすらできないはずよ。だからきっと御者に化けたあの男も、本当にクロウ様を殺すつもりなら絶好の機会を待つに決まってる。だからわたしたちは、あいつの動きをこっそり観察するの」
「……観察するのは別にいいけど、いま殺しておいた方が早いと思うけど」
「だめよ」
きょとんとするサクナの鼻に、金髪の女伯爵は人差し指を突きつけた。
「いい? あの男がクロウ様に襲いかかった瞬間、わたしたちが颯爽と現れて阻止したら、どうなると思う?」
「……あの子に感謝される?」
「そう! そうよ! そういうことよ! つまりクロウ様に恩を売ることができちゃうの! それで絶体絶命の大ピンチを救われたクロウ様は、わたしのことを好きになっちゃうわけなのよ! そしてわたしとラブラブになって、来週にはハッピーハネムーンでウハウハゴーゴーしちゃうわけ! ね! サクナさんもそう思うでしょ!」
「……いや、それはちょっと無理だと思うけど」
「だからね! あの男を今すぐ始末しちゃうのはもったいないわけよ! こんなグレートなラッキートラブルをみすみす見逃すなんてあり得ないわ! ね! そうでしょ! サクナさんなら分かってくれるでしょ! ね! ね! ね・ね・ね!」
「……たぶん感謝はされると思うけど、結婚は絶対に無理だと思うけど」
「大丈夫。為せば成るわ」
ジンジャーは一瞬で真顔になり、こぶしを握りしめて言い切った。
サクナは淡々とした顔で白い息を細く吐き出す。
そして剣を脇に置いて、ぽつりと言う。
「……まあ、どっちでもいいけど」
「いやぁ~ん、ありがとぉ~。さっすがサクナさぁ~ん。サクナさんならきっと分かってくれると信じてたわぁ~」
ジンジャーは体をすり寄せ、サクナの顔に頬を寄せる。
そして、よこしまな期待に鼻の穴を膨らませながら、
ベッドからのんびり起き上がった九郎の半裸を撮りまくった。