第十章 3
「――あぁ~ん、もぉ~、サイコーだわぁ~。あぁ~もぉ、サイコーすぎてどうしましょう。いやぁ~ん、ほんとにもぉ、サイコーったらサイコーすぎるわぁ~。あぁ~ん、ああああぁ~ん――ふんぎゃっ!」
写真のアルバムを見ながら歩いていたジンジャーが、
廊下に突っ立っていた中年メイドにぶつかって派手にすっ転んだ。
「えっ!? なになにっ!? いったいなにが起きたわけっ!?」
若き女伯爵は後ろにでんぐり返り、ぺたんと座った。
そしてめくれ上がったナイトドレスのスカートを慌てて直しながら前を見る。
すると、メイドのエスタが呆れた目つきで見下ろしていた。
「何が起きたわけ――ではありません。歩く時は前を見ないと、そのうち痛い目に遭いますよ」
「あら、エスタじゃない。どうしてそんなところに突っ立っているの?」
ジンジャーはきょとんと言って、長い金髪をざっくり整えながら立ち上がる。
「そんなことは決まっています。何度声をかけても気づいていただけないので、少々ぶっ飛ばして差し上げるためです」
エスタは女主人をじろりとにらみ、廊下に転がったアルバムを拾い上げる。
「まったく。魔法で隠し撮りした写真をご覧になる時は、ソファにおかけになってくださいと申し上げたはずです。よいですか、ジンジャー様。あなたはもう、ラッシュの街を統治するイカリン伯爵となられたのです。そのお立場を自覚して、もっと相応しい振る舞いを身につけていただかないと困ります」
「えぇ~、そんなのめんどくさぁ~い」
ジンジャーは白い頬を膨らませ、肩ごと左右に首を振る。
「ねぇ、それよりエスタ。アルバムを返してちょうだい。ちょっとトイレに行ってくるから」
「どうしてトイレに持っていく必要があるのですか……」
エスタは片手で額を押さえた。
「そもそも、あんな小娘の写真のどこがそんなに面白いのか、私にはまったく理解ができません」
「べっつにぃ~、分かってもらおうなんて思ってないもぉ~ん」
ジンジャーはさっさとアルバムを奪い返し、写真を眺めて目を細める。
「ああ~ん、もぉ、本当にクロウ様はサイコぉ~だわぁ。ねぇ、見てよ、エスタ。このちょ~きれいな桃色の髪。こんなにきれいな髪をして、しかも、もンのすごぉ~く顔が可愛いだなんて、まさに奇跡の美少女だと思わない?」
「ちっとも思いません」
腰をくねくねとひねっているジンジャーを見て、
エスタは最大級のため息を吐く。
「まったく……。二十四にもなって結婚もせずに、小娘なんかに現を抜かしてどうするのですか」
「えぇ~、だってわたしぃ~、男の人嫌いだもん。臭いし」
「臭いって……。殿方にだってよいお方はたくさんいらっしゃいますし、臭くない方もたまにはいらっしゃいます。頭から嫌いだと決めつける方が間違っているのです」
「えぇ~、そうかなぁ~? だったらクロウ様みたいな可愛い男の人を連れてきてよ。それなら結婚するから」
「あんな見た目の殿方なんて、この世にいるわけないじゃないですか……」
中年メイドは呆れ果てた声を漏らし、アルバムをひったくった。
「とにかく、このお話はまた今度に致しましょう。それより、サクナ様がいらっしゃっております。何やらお話ししたいことがあるとのことなので、お会いになってください」
「え? サクナさんがおしゃべりしたいって? ほぇ~、珍しいねぇ~。うん、いいよぉ。どこにいるの?」
「こちらです」
エスタはジンジャーの頭を手とアルバムでがっちり挟み、強引に横に向けた。
すると、開きっぱなしのドアの奥に若い女性の姿が見える。
ソファに腰かけた短い黒髪の女だ。
褐色の肌の女はジンジャーに顔を向けて、
紅茶をすすりながら片手を上げている。
「――え~? なになに? どしたのサクナさん」
ジンジャーはパタパタと室内に駆け込み、サクナの隣に腰を下ろす。
サクナは紅茶の湯気に息を吹きかけ、ぽつりと言う。
「……さっき、あの桃色娘を見かけた」
「えぇぇっ!? うっそぉっ!? ほんとぉっ!? 超ラッキぃーっ! で! どこでっ!?」
「……南のパン屋」
「ぃよっしゃぁーっ! エスタぁーっ! 馬車を速攻でカモンプリーズっ! 超速攻でのぞきに行くわよっ!」
「却下します」
ジンジャーに続いて室内に入ったエスタは、
ドアに鍵をかけてきっぱりと言い切った。
「もうとっくに日が沈んでおります。伯爵ともあろうお方が、こんな時間に出掛けるなんてとんでもありません。それも、のぞきが目的だなんて言語道断です。またいつぞやのように石やら木の枝やらを投げられて、たんこぶを作られては困ります」
「あぁ~ん! そうだった! そうだったわっ! あの時の全裸洗濯のクロウ様は、ほんっとうにサイコーでしたわっ!」
ジンジャーはうっとりとした目で宙を眺める。
ソファの横に立ったエスタは半分白目を剥いて宙をにらんだ。
それからすぐにサクヤを見据えて、淡々と言う。
「……サクナ様も、ジンジャー様の護衛なのですから、もっと気をつけていただかないと困ります。たかがたんこぶの一つと言えど、下手をしたら万が一のことがないとも限りません。今後は毛筋の傷もつかないよう、万全の警護をお願い致します」
「……うん」
サクナは一つうなずき、また静かに紅茶をすする。
「とにかく、今夜は絶対に一歩も外には出しません。絶対にです」
「えぇ~、エスタのドケチ~」
「ドケチでけっこう。どうしてもあの小娘にお会いになりたいのであれば、正式な招待状をお出しになってください」
「招待状? それって、お茶会にお招きするってこと?」
「そうです。そうすれば、わざわざこっそりのぞかなくとも、ご歓談できるではありませんか」
「え~、直接会うだなんて、こっぱずかしい~」
「こっそりのぞいて隠し撮りする方が恥ずべき行為です」
頭をかいて照れたジンジャーに、エスタがぴしゃりと言い放った。
「とにかく、招待状は私が出しておきますので、ジンジャー様はおとなしくしていてください」
「……あ、エスタさん」
不意にサクナがぼそりと言った。
「……あの子、明日には街を出るみたいだけど」
「えええええぇーっ!? それじゃあやっぱり、今すぐのぞきに行かなくっちゃっ! ――ふんぎゃっ!」
唐突に走り出したジンジャーの襟首を、エスタが片手でわしづかみにした。
「行かなくてよろしい。それよりサクナ様。あの小娘がどこに向かうか、ご存知ですか?」
「……ジンガの村って言ってた」
「そうですか。それなら馬車で一日もかからない場所です。またすぐに戻ってくるでしょうから、その時に改めてお会いになればよろしいでしょう」
「えぇ~、そんなのヤダぁ~。ヤダヤダヤダぁ~」
ジンジャーは不貞腐れて頬を膨らまし、ソファに座って足をバタつかせる。
「まったく……。小娘みたいな駄々をこねるのはおやめください」
「いいんですぅ~。わたしは永遠の小娘だからいいんですぅ~」
「いつまでも小娘でいられるのは、頭の中だけだと早くお気づきになってください……」
エスタはティーポットの紅茶をカップに注ぎ、
ジンジャーの前に静かに差し出す。
「とにかく、非常識ではありますが、招待状は今夜中に出しておきます。あの小娘なら、それできっと顔を見せに来るでしょう。それで我慢なさってください」
「うぇ~い……。エスタってほんとガンコだから、それで我慢するっきゃなさそうねぇ~」
金髪の女伯爵は間延びした声で返事をした。
そのとたん、エスタは両手を鋭く叩き合わせた。
「何ですか、そのお返事は。伯爵ともあろうお方が、みっともないにもほどがあります」
「あー、はいはい、分かりました、分かりましたぁ~。それで我慢するから、早くアルバム返してよぉ~」
「約束をお破りになったら、燃やしますからね」
エスタは念を押しながら、ジンジャーにアルバムを渡す。
「あー、はいはい、大丈夫、大丈夫。これさえあれば、わたしは毎日幸せだからねぇ~。うへ、うへへ、うへへへへへへぇ……」
ジンジャーはアルバムを素早くめくり、
手ぬぐい姿の九郎を眺めてニヤニヤと笑い出す。
「それではジンジャー様。くれぐれも、こっそり屋敷を抜け出したりなんかしないようにお願い致します。サクナ様も、いいですね?」
「はぁ~い」
「……うん」
主人と護衛は二人同時に生返事。
中年メイドは不安そうに顔を曇らせ、息を吐く。
それから丁寧に頭を下げて、部屋を出た。
「――ぃよぉーしっ」
エスタが去った三秒後。
ジンジャーはパタンとアルバムを閉じてこぶしを握った。
「それじゃあ、サクナさん。早速のぞきに行きましょう」
「……夜は暗いから、朝がいい」
「あら、珍しい。サクナさんの口からそんな言葉が出るなんて」
ジンジャーは軽く呆気に取られてきょとんとまばたき。
するとサクナは淡々と言う。
「……街に死体がいくつか転がっていた。今夜は危ない気配がする」
「あらまぁ。それじゃあ、仕方ないか」
ジンジャーは軽く言ってごろりと転がり、サクナの太ももに頭をのせた。
「だったら、明日の朝まで我慢しなきゃね。夜明けと同時に馬で行きましょうか」
「……うん。用意しておく」
「いやぁ~ん、サクナさん、ありがとぉ~」
サクナはカップをソファの手すりにそっと置き、
はしゃいですり寄る金髪頭を軽くなでる。
「うっふふぅ~ん。エスタには悪いけど、こればっかりはやめられないからねぇ~。明日はクロウ様の寝ぼけ顔を、バッチリ隠し撮りするんだからぁ~」
ジンジャーは人差し指に黄色い魔法陣を浮かべてニヤリと笑う。
そして自分を見下ろす護衛の顔をパシャリと撮って、
魔法陣から出てきた写真をサクナに渡す。
「……変な顔」
サクナは写真を指で弾き、ローテーブルに投げ飛ばす。
それからソファの手すりに置いていたカップに手を伸ばし、
中身を静かに飲み干した。