第九章 10
「――いやいや。それにしても桃色さんは、本当に稀有な人材ですねぇ」
九郎が研究室のドアを閉めた直後、
メガネの男性職員が笑みを浮かべながら呟いた。
「……そうですね。世間擦れしたずる賢い私たちとは、大違いの素直な人です。こんな騙すような真似をして、私としては恥じ入るばかりです」
マガクは手に残っていた粉をはたき、悲し気な息を一つ吐き出す。
「気にすることはありませんよ、マガクさん。これはサザラン帝国にとって非常に重要なプロセスですからね。それに桃色さんの命も結果的には助かるわけですから、万事丸く収まったではありませんか」
「どうやらあなたには、罪悪感というものがないようですね」
巨人は淡々とした表情で、向かいの席の男を見下ろして言う。
「サザラン帝国魔法兵団、序列第二位の大法魔、ネイガン・メイト――。我が国の魔法使いの中でも、あなたは大賢者に近い実力を持つと言われています。そんなあなたなら、クロウさんの魔法契約を変更することぐらいは容易なはずです」
「いえいえ。それはさすがに買いかぶりと言うものです」
男性職員はメガネを外し、ゆっくりとテーブルの脇に置く。
「私の実力なぞ大賢者たちには遠く及びません。……ですがまあ、たしかに桃色さんの魔法契約を変更するぐらいなら何とか可能です。だけどそんなことをしてしまったら、この結果には結びつきませんでしたからね」
ネイガンはテーブルに身を乗り出し、二枚の魔法契約書を手元に引き戻す。
「以前にお話ししたとおり、私たちの目的はこの契約書の改ざんでしたから」
「それは先代の皇帝陛下が、南の大国バインタインと交わした和平条約でしたね」
「そうです」
言って、大法魔は契約書を指で叩く。
「この下らない条約のせいで、我が国はトモラン山脈一帯の土地所有権を失いました。つまり、貴重な水源地帯を手放したということです。そのせいで、我が国の農業が甚大な被害を被ったことはご存知ですよね?」
「それはもちろん知っています。ですが、あちらの契約書を盗み出して改ざんし、トモラン山脈の所有権を取り戻すのは、やはりやりすぎではないでしょうか」
「いえいえ。もちろんやりすぎるつもりはありません。我々は土地を取り戻したいわけではなく、貴重な水源を平等に使えるよう、再交渉したいだけです。それを実現するには契約書を改ざんし、バインタインを交渉のテーブルに引っ張り出さなければなりません。しかしこの契約書には、お互いの国の大法魔が改ざん防止の魔法をかけたので、それを破る必要がありました。そしてそれが可能なのは、図書の賢者が作った改ざんの石板だけだったのです」
「それでクロウさんを利用したわけですね」
巨人は呆れ顔で、冷めたハーブティーを一口飲んだ。
「それは仕方がありません。あの図書神殿は侵入者の欲望が強いほど、罠が強力になる仕組みになっています。今でこそ図書の賢者などと呼ばれていますが、ブクマンの正体は古代の邪神ですからね。仮に現代の大賢者たちと、復活した十三魔王が束になってかかっても、あの神殿の攻略は理論上不可能です。だから私の逆算魔法で攻略できる人材を長い間探し続けていたのです」
「だから、純粋なクロウさんが選ばれたということですか」
「いえいえ、それは違います。私の魔法は求める結果に対して必要なモノを、逆算して導き出す定点予測の魔法です。そしてその魔法が導き出した答えは桃色さんという個人ではなく、召喚の儀式で選ばれる救世主でした」
ネイガンは改ざんした契約書をくるりと丸め、金属製の筒に戻す。
「この契約書の改ざんという結果を出すために、我々は三年の時間をかけていろいろと準備してきました。大賢者マータへの対応策なんかは多すぎて、数え上げたらキリがありませんが、それを除けば重要なポイントは三つです。まずは戦争を仕掛けてアルバカン王国を追い込み、救世主を召喚させる。そして魔法使いの工作員を送り込み、召喚の儀式陣に細工を施し、救世主が変更したくなる魔法契約に仕立て上げる。そうしてサザランまでやってきた救世主を懐柔して、図書神殿を攻略させるという流れです」
「それはまた、ずいぶんと迂遠な計画でしたね」
「いえいえ。たかが三年。あっという間です」
眉を寄せた巨人に、ネイガンは軽い調子で言って筒を振る。
「大事なのは、救世主が自ら望んで図書神殿に向かうように誘導することです。なぜなら、我々が救世主に改ざんの石板を取りに行かせようとすると、図書神殿の守りが強固になってしまうからです。あの神殿は人の心を見透かしますから、誤魔化しは絶対に利きません。だからわざわざサザランとは無関係の十三魔教を利用して情報を流したのです」
「それはつまり、クロウさんは知らないうちにあなたの魔法で操られた――というわけですか」
「いえいえ。私の魔法は予測することしかできません。解決したい問題に対する答えしか分からないので、途中の計算式は自分で考えないといけない面倒な魔法です。しかも人間の行動はその時の感情によって大きく変化するので、こちらの思いどおりに動かすことは非常に難しい。……ですが、これが不思議なことに、失敗してもかまわないと思っていると、なぜか上手く事が運ぶんですよねぇ」
「なるほど。ありとあらゆる根回しをして大賢者すら手玉に取ったあなたが、失敗してもかまわないと言いますか。さすがは道化の大法魔。とぼけるのは得意のようですね」
「それはどうも、おほめにあずかり光栄です」
じろりとにらむ巨人に、ネイガンはニヤリと笑って言葉を続ける。
「……と、言いたいところですが、今回は素直に喜ぶことができません。どうにも腑に落ちない部分があって、かなり困惑しているというのが本音ですから」
「ほう。サザランを代表する大法魔にも、分からないことがありますか」
「それはもう、いくらでもありますよ。はっきり言ってあの桃色さんの行動は、私の予想をはるかに超えていましたからね」
大法魔は冷たい茶を飲み、息を吐き出す。
「……まさかいきなり皇女殿下に遭遇して、こちらが用意していた懐柔策をすべて無駄にしてくれるとはさすがに思いもしませんでした。それに桃色さんと偶然出会った皇帝陛下が、私のところに桃色さんを誘導してくれたことも、僥倖という他に言いようがありません」
「その『僥倖』の使い方は、何やら含みがありそうですね」
「もちろんです。砕けた言い方をすると、あれは超ラッキーという名前を持つ、決定的なターニングポイントです。あの時、桃色さんが私に会いに来なければ、図書館の異常についての説明が一日以上遅れていました。そうすると、桃色さんが図書館を訪れるのは、突如として現れた王冠の魔王が図書館を引き払ったあとになってしまい、桃色さんと十三魔教をぶつけることはできなかったはずです。そうなれば、十三魔教に潜入させた我々の工作員が、改ざんの石板についての情報を桃色さんに伝えることができなくなり、すべてがご破算になっていました」
「おや。たしかその情報をクロウさんに教えたのは、十三魔教の幹部だと聞きましたが」
「それは同じことです」
淡々としたマガクの言葉に、ネイガンは首をわずかに横に振る。
「改ざんの石板で魔法契約の変更が可能だという噂を、工作員に流させましたからね。我々がその情報を桃色さんに直接伝えてしまうと、図書神殿は我々の思惑を見抜き、強力な罠を発動させますので、そこら辺は抜かりありません。事実として、桃色さんのあとに神殿に突入した十三魔教の一団は、呆気なく全滅したとの報告が入っています。いやいや。まったく恐ろしい神殿ですよ、あれは」
「ですが、そこまで徹底的にサザランの思惑を隠し切ったあなたの方が、私には恐ろしい存在に見えますよ」
「いえいえ。先ほども言いましたが、私は今回の事態をコントロールできていたとは言えません。なぜなら、桃色さんがこの場に生きて戻ってこれたのは、私の逆算魔法が導き出した結果どおりではありますが、私の予測とは完全に異なるルートを通っているからです」
「それはつまり、答えは合っていたが、途中の計算式がまるで違っていたということですか」
「そういうことです。これは非常に認めたくはありませんが、極端に言うと、私が何もしなくても、桃色さんは一人で図書神殿を攻略していたということです。それはすなわち、今回の一件では、私の魔法とはまったく異なる異次元の作用が働いていた可能性が高いということです」
「異次元の作用……? それはどういう意味ですか?」
「これはとても複雑で、とても簡単な話です」
ネイガンは金属製の筒をローブの懐に入れて、言葉を続ける。
「私は救世主を図書神殿に向かわせるために、ありとあらゆるお膳立てを整えました。救世主をおびき寄せる囮として皇帝陛下にイゼロンまでお越しいただき、天冥樹までの足として軍の馬車を途中の村に配備しました。さらに、ダンジョンを素早く降りるために落下傘を用意し、地下二十八階までのモンスターを駐留軍に排除させて、将軍には救世主の支援をしないように釘を刺しておきました。それらはすべてこの私が、私の逆算魔法の結果を基にして手配したのです。しかし、これをさらに逆に考えると、『この私』が、『私の魔法の結果に操られていた』とも言えます。つまり、私が救世主を利用したのではなく、この世界の『何か』が救世主を手助けするために、私を利用した可能性があるということです」
「ほう……それは大変興味深い話ですね」
マガクは冷え切ったハーブティーを飲み干し、さらに言う。
「つまり大法魔であるあなたを、この世界の『何か』が操った。そしてあなたがこの三年間に準備してきたものは、サザラン帝国のためではなく、クロウさんを支援するために用意された小道具でしかなかった――。今のお話をまとめると、そういうことですか」
「はい。そういう可能性が高いということです」
大法魔も茶を飲み干し、空のカップを静かに置く。
「我々はサザラン帝国という国家を中心にして動いています。しかし、それよりもはるかに巨大な『何か』によって、我々の方が世界を動かす歯車の一部として扱われた可能性があります。つまり端的に言いますと、主役は桃色さんの方で、我々は取るに足らない脇役だったのかも知れないということです」
「なるほど」
その言葉に、巨人はわずかに微笑んだ。
「正直なところ、私はその方がいいですね。あなたの計画に加担したのは、今でも間違いだと思っていますから。……しかし、あなたの言うその『何か』が現実に存在するとしたら、それはいったい何でしょうか?」
「それはもちろん、神しかいないでしょう」
ネイガンは石の天井を指さした。
「私の当初の予定にはアルバカンの王都の爆発もありませんし、大賢者マータが鉄になってしまうことも含まれていません。そんなとんでもないことが可能で、なおかつそんな残酷なことを実行できるのは、人間以上の存在だけです。おそらく、ベリン教の主神である大女神『ベリュンナート』か、バステラ教の唯一神『バステラ』か、はたまた失われた古代の邪神か、それとも巨人族を見捨てた謎の神々か――おっと、失礼しました。ギガン族の前でそれを口にするのは、マナー違反でしたね」
「……別にかまいませんよ。私は無神論者ですから」
マガクは淡々と言いながら、テーブルに手を伸ばす。
そして石板の最後の欠片を握り潰し、
指の隙間から石の粉をゆっくり落とす。
その無言の圧力に、ネイガンは肩をすくめて席を立つ。
「おやおや。どうやら逆鱗に触れてしまったようですね。それでは、三年越しの計画も見事成就したことですし、今日のところはこれでお暇するとしましょうか」
「失礼ですが、大法魔。最後に二つだけよろしいですか」
一歩踏み出したネイガンの横顔に、巨人が低い声で話しかけた。
「はい、何でしょうか?」
「先ほどのお話ですと、あなたはクロウさんをサザラン帝国に組み込もうとしているようですが、私はその考えに反対です。それだけは覚えておいてください」
「そうですか。それを決めるのは桃色さん自身だと思いますが、一応肝に銘じておきましょう。もう一つは何ですか?」
「何かお忘れですよ」
巨人は大きな手をテーブルに向けた。
そのとたん、ネイガンは苦笑いを浮かべてメガネを取った。
「おやおや、これはお恥ずかしい。教えてくれてありがとうございます。これは伊達メガネでしてね。しょっちゅう忘れてしまうんです」
「そうですか。では、お気をつけて」
マガクは淡々とした顔で、手をそのままドアの方にスライドさせる。
するとネイガンは指を一本立てながら口を開く。
「マガクさんの方こそ、最後まで気を抜かないようにお願いします。桃色さんの魔法契約を変更したら、改ざんの指輪は必ず回収してください。あれはある意味、最強の魔道具です。サザラン帝国にとって、もっとも価値のある究極の宝ということをお忘れなく」
「そうですか。人間の行動はその時の感情によって大きく変化しますが、気が向いたら覚えておきましょう」
「ははは。これは一本取られました。それでは、あとは万事お任せしますが、信じているとは言いませんよ。あれは相手の心を縛り付ける呪いの言葉ですから」
大法魔は巨人を見据えて、ふっと微笑む。
そしてゆっくりと歩き出し、そのまま研究室をあとにした。